第9話 沐浴のニンフ
むかしあるところに、大きな森がありました。森に暮らす亜人たちは、外敵の侵入を阻む、この大森林を崇敬して世界樹と呼びました。
パックとプーカとは、ずいぶん遠く離れた、けれど世界樹の森のなか。
豊かな渓流が幾条もの滝をなして、広い水たまりへと注いでいました。深い樹影、やわらかな霞、水と光の乱反射が水場を彩り、幻想絵画と仕立てていました。
裸身の女がひとり、風景へ点睛を打っていました。
とがった耳、そり返った鼻、土色の肌が水と戯れていました。豊かな緑髪は豊満な乳房を包み、彼女の舞うにつられて桃色の秘部をのぞかせました。
まとった雫は、木漏れ日を照り返し、裸身に玉を散りばめて、女を美神へと仕立てました。
ビイイィィイィィィィィィィィィプッ ビイイィィィィ…………
無邪気にはしゃいでいた乙女の微笑が、にわかに曇りました。恐怖と恥じらいの表情で身をちぢこめ、森を見つめました。
乙女の視線の先、草木はびこる、その向こうに、三人の男がいました。
三人の男のひとりは、細身の長身でした。おもながの頭に生える黒髪を逆立てて、その長身をさらに伸ばしている、とにかくのっぽな男でした。
のっぽの外界人は、眼前の水辺を眺めて言いました。
「へぇ…………陰気な森にも、憩いのオアシスかね。いい眺めじゃねえか。なぁ、ドンジュ」
三人の男のひとりは、ずんぐりとしていました。黒い無精ひげの頭にかぶせられた、兜の角飾りを勘定に入れても、小男であることに変わりはありませんでした。
ドンジュと呼ばれた小男の外界人――――ずんぐりのドンジュは、不敵に言いました。
「おい、見ろよ、タッパール。ありゃエルフだぜ。売り飛ばしゃあ、いい金になる」
タッパールと呼ばれたのっぽの男外界人――――のっぽのタッパールは、目をギラつかせていました。
タッパールは、妖精と呼ばれた裸身の乙女を見ながら言いました。
「いいや、あれはニンフさ。ケツを振って、男を誘ってやがるだろ?」
のっぽのタッパールにしろ、ずんぐりのドンジュにしろ、屈強と表せる体つきで筋肉を見せつけていました。けれど残りのもうひとりは、赤い山折れずきんと長いマントで全身をくるんでいました。
赤いずきんの男は、下品なしゃがれ声で言い捨てました。
「…………ケッ、なんだっていいだろうが…………ホザいてるなら、おれが先に楽しませてもらうぜ…………」
赤いずきんの男は、舌なめずりとともに一歩踏み出しました。男をくるむマントがわずかにはだけ、のぞいた中身はふんどし一枚の半裸。ヒョロヒョロの体を、ガニ股に屈めていました。
三人の男は、妖婦と呼ばれた裸身の乙女へ、夢中でにじり寄りました。
ビイイイイィィィィィィィィィィィィプッ ビイイィィ…………
けたたましいさえずりが、三人の男の耳を占領しました。
男たちに頭上の枝のきしむ音は届かず、ヒラリ舞い直下する死神にも、気づく者はありませんでした――――次の音が響くまでは。
男たちの背後に打ち鳴る音は、例えようもありませんでした。ただ鈍く響いて神経を戦りつさせ、ずんぐりのドンジュと赤いずきんの男を振り向かせました。
背後を見やるふたりは、目をそむけたくなるような光景に、目を見張りました。振り向くことのできなかった男に見舞った、凄惨な音の正体が、否が応でも察せされました。
無事なまま、あお向けでけいれんする胴と四肢。連なるのは、肉汁したたるハンバーグと化した頭――――堅ろうな頭蓋が脳ずい液を吹いて、一撃のもとに圧潰する音が、ふたりの脳裏に反響しました。
もはや屍と呼ぶべき、のっぽのタッパール。そしてかたわらには、その屍を見下ろす、もうひとりの男。
男は妖婦と同様、とがった耳、そり返った鼻、土色の肌、そして草色の髪をしていました。
ただし緑髪の男は裸ではなく、筋肉で隆起する薄地の上着を着て、ボタン留めの前をはだけさせていました。さらされた腹も、胸も、ぜい肉のひとかけらとて見せず、代わりに見せつけたのは、美しい彫りの陰影。七分たけのズボンから突き出る素足も、ふくらはぎが破裂せんばかりでした。
緑髪の男は、地面をへこませる岩塊のようなこん棒を、片手で振り上げて肩に担ぎました。鈍器を支える体は前方へかしげられ、ジロリと視線が持ち上がりました。
眉間へ深くしわが寄せられ、口の端が引き上がると、刈り込んだ緑髪が逆立ちました。犬歯を見せつけるその様は、肉に飢えた野獣であり、血を求める暴力の権化でした。
「…………オーガだ…………」
ずんぐりのドンジュは驚がくのまま、やっとひと言つぶやいて、ようやくあとずさりをしました。
やおら、ドンジュの冷や汗まみれの顔を、細く長い指が優しくなでました。間髪置かず、ドンジュの首の前部が、のどぶえまで裂けて鮮血が噴射しました。
ずんぐりのドンジュは、震える両手をもたげました。手のひらに受けた小さな血だまりを見て、あわてて四つん這いになりました。わずかに進むも、すぐさま減速し、生気を失くしてうつ伏せで止まりました。
ずんぐりのドンジュは死にきれず、伏した背中が小さくもがいていました。ドンジュをみとるように、濡れ肌の妖婦が妖艶な笑みをたたえて、たたずんでいました。
妖婦は水をしたたらせ、逆手に持った大ぶりのナイフは、刀身を血に濡らしていました。
前門の鬼神、後門の妖婦。滝へといたる渓谷の小道で、赤いずきんの男は逃げ道を求め、急峻な大地に少しくあがきました。徒労に終わり振り返ると、顔面めがけて、こん棒が襲来していました。
「待っ――――」
赤いずきんの男はなにかを言いかけましたが、こん棒には問答無用。叩きしめられた木片は岩の強度を誇り、ずきんの男の掲げた左腕をつぶしました。
こん棒の勢いは衰えることなく、ずきんの男は、そのまま弾き飛ばされました。立ち木の根もとへ、したたか打ちつけられると、マントがはだけ、ふんどしと細身の四肢が踊って投げ出されました。
ずきんの男は即死を免れながらも、息を詰まらせ、座したまま動けませんでした。けれど、ひと呼吸の休息も与えられず、風を切る刃が車輪となって飛来しました。
「あッ」
赤いずきんの男が気づいたときには、そのやせた胸に、妖婦の大ぶりナイフが突き立っていました。
「くッ…………クソがあああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……………………」
突き立つナイフの柄頭を、鬼神と呼ばれた男が踏みつけました。
ナイフはズブズブと沈んでいき、ずきんの男の断末魔は、やがて鳴りやみました。