第四話 亜人論考 走光性について
この探究は、まったくもって単なる戯れ…………気なぐさみというものだ。観察と伝聞、演繹と空想に基づいた、単なるぼくの自己満足だ。
もちろん、これによってなにが変わるものでもない。ましてや、あの日の悪夢と、あの日から始まった白日夢のような日々が、報われることなどない。
これはただ、このみじめな老いぼれの、恥辱の考証なのだ。そして、罪業ともあざなされるべき、汚らわしき独善にけじめをつけるための、くだらぬ言い訳にすぎないのだろう…………さて、なにから手をつけようか。
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まずは…………そうだな、オベロンたち種族が持つ、「正の走光性」についてだ。
正の走光性とは、光に向かう行動をする生物の、その性質のことであるが、彼ら種族においては、光と言っても明かりをもたらす光ではない。肉体を透過して内奥に達し、闇が深ければ深いほどまばゆく差し照らす、希望のような光だ。
春の木陰のように穏やかで、夏の慈雨のように思いがけず、秋の涼風のように清らかな、冬の炉火のように染み入る…………優美にして可憐なる、端麗の君が発つ、不可視の後光。
野卑なる亜人にしては、あまりにも感傷的じゃないか…………まるで、ぼくのようだな。
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…………パックとプーカの実父は、ぼくと同じ人間とは思えない、おぞましい見てくれをしていた。だが、里の者たちは、鼻、耳、髪色を除けば、外界の人間と大差ないように見える。これには、外界の人間との交雑が影響しているのだと思われる。
走光性は冗談としても、本来の彼らは穏やかな性質なのだ。外界の人間に相対しても、その者に敵意さえなければ、憐れみを持って応対するのが平生なようだ。
オベロンのように、外界の人間を里へ連れて来てしまう者が稀にはいるようで、それによって交雑が進んでいるのだろう。
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そういえば…………オベロン達の里では、緑毛の獣を家畜としてはならないそうだ。これには古い言い伝えがあって、緑毛の獣は神たる森の御使いであり、したがってその命は森のものであり、手を出してはならないのだ。
驚くべきことに、この迷信にはれっきとした根拠が存在している。むかしは緑毛の獣も飼っていたそうが、死によって植物化するものが少なからずいて、畜産による収穫物のほとんどが得られないというのだ。
なんともキテレツな話であるが、彼らにとっては普通なようで平然と話していた。緑毛の獣自体も珍しいが、現在においても彼らの飼う家畜のなかに、稀に産まれることがあり、そのたびに森へ帰しているそうだ。
そもそもに彼らの緑色の髪が、なんたるかなわけだが…………それについては、おいおいに触れよう。