第2話 おとぎ話は森のなか
むかしむかしあるところに、大きな森がありました。けわしい大地に木々が密生して外界とへだて、人ならぬものたちの巣食う大魔境でした。
かつて人々が、世界に光をもたらす天へと祈りをささげていたころ、大地を覆い闇を生む森は逢魔が異界でした。人々は自然を畏怖しながらも、それがもたらす恵みを享受し、森の奥に怪物と神秘を見ました。
森に持ち込まれた伝説や伝承は、未知なる獣や鳥を妖魔と変え、知られざる虫や自然現象を妖精と変えました。妖魔も、妖精も、森が創作する物語にすぎませんが、ありうべきもない虚構でさえ、物語のなかでは現実なのです。
物語をつむぐ森のなかで、その出会いは物語となり、ありうべき現実となるのです。
*
暗き森の奥の奥、そのまたさらに奥深く。立ち並ぶ木々のなかに、ひときわ異彩を放つ奇妙な木がありました。その木は樹皮がのたくるようで、見上げるほどに大きく、根は地表に露出して、少女がもたれていました。
少女の身を覆う衣は、薄絹の肌着ただひとつでした。それもほころび、どろ土と血でけがれ、きゃしゃな手足は幾多の生傷とともにさらされていました。
薄絹の少女のあどけない顔は、疲労困ぱいにうなだれていました。けれど、そのまなざしは自身の腕のなかの赤子を、しっかりととらえていました。
力なく抱えられた小さな命は、母子の証によって少女の股ぐらへと、つながっていました。
深い木々を霧が包む、わびしき森の奥。人の立ち入りをいとう魔境の淵で、薄絹の少女を見とめたのは二匹の亜人でした。招かれざる客を野蛮なる供応に処する、無慈悲なる者たち。
亜人たちは色石の連なる首飾りをして、葉っぱと布切れを巻きつけたような衣をまとっていました。衣から素足と素手をむき出して、その手にひとりは槍を持ち、ひとりは斧を担いでいました。
二匹ともずきんをかぶり、そこからのぞく顔は、人のそれとは違っていました。
横長の瞳孔を持つ大きなギョロ目。丸くて平たいケモノ鼻。むき出しの大きな歯。全てが誇張された顔には、巻き角までついていました。
やおら、亜人の手が自身の顔をはぎ取りました。
そのはぎ取られた顔――――もとい仮面を手に、槍の亜人は無言で薄絹の少女を見つめました。相棒のそんな様子に、斧の亜人も仮面を外し、声をかけました。
「オベロンよぉ、なんでとっとと殺っちまわねぇのさ?」
オベロンと呼ばれた槍の亜人は答えました。
「なあ、アーチン。里長の命令は、ストレンジャーの始末だよな」
オベロンは、薄絹の少女の抱く赤子を見ながら続けました。
「長くとがった耳、上向きの鼻。土色の肌に、草色の髪。ぼくらの同族だよ、殺す必要はない」
アーチンと呼ばれた斧の亜人は、疑心ふんぷんに不満顔でした。
くせっ毛短髪で細身ながら、しなやかな体つきのオベロン。さらり長髪でぽっちゃりながら、屈強な体つきのアーチン。彼らは、そのブタ鼻を除けば端正な顔立ちでしたが、赤子は様子が違っていました。
赤子の特徴は、髪色が深すぎることを除けば、オベロンの言葉に相違はありませんでした。けれど言外においては異なり、赤子は目もと上部が厚く張って、落ちくぼんだギョロ目が奇妙でした。
ただし、それは新生児特有のサル顔がゆえんとも見え、アーチンの疑心のもとではありませんでした。アーチンは赤子へ手を伸ばしながら言いました。
「おまけに角まで、あるけどな」
赤子の顔には、左こめかみ辺りに角がありました。それは肌の隆起などではなく、皮膚を破って突き出た、まぎれもない角でした。
迫るアーチンの手に、薄絹の少女は身をちぢこめました。満身創痍を絵に描いたような少女は、それでも片角の赤子をかばい、決然と亜人たちを見つめ返しました。
アーチンは改めて薄絹の少女を見ました。耳は丸く、鼻は水平にちょこんとして、長い黒髪が張りついた柔肌は、けがれども純白をのぞかせていました。
アーチンはあきれて言いました。
「そもそも母親は、まるきりストレンジャーだぜ?」
オベロンは冗談めかして言いました。
「アーチンおまえ、子育て得意だったっけ?」
母親を殺して、赤子だけ連れ帰るのか――――と含みを持たせるオベロンに、アーチンはうんざりと返しました。
「わかった、わかった! どうせこのなりじゃ、ほっぽっときゃ早晩、のたれ死にだぜ!」
オベロンは改めて薄絹の少女を見ました。少女は、そのあどけない顔の眉根を寄せ、精一杯の戦意を必死に表現していました。オベロンの目にも奇妙に映る、片角の赤子を守るために。
憐れな捨て犬のように身をけがされながら、けれど高潔な聖母のように内面の純真は揺るぎなく――――少女のそんな姿に、オベロンはたまらなく愛おしさを覚えました。
「アーチン、借りるぜ」
オベロンはアーチンの斧を引ったくり、自分の槍と共に、薄絹の少女の足もとへ置きました。しばらく周囲の草むらをガサゴソ漁ると、斧と槍の上に収穫物を置きました。
それを見たアーチンは、片手で頭を抱えて言いました。
「おいおい、マジかよ…………」
白いデイジー、桃色のプリムローズ、紫のアイリス、青いブルーベル、それから黄色いタンポポ――――凶器に色とりどりの花々がそえられた様は珍妙でした。
けれど、薄絹の少女の目を丸くさせたのは、その向こうにあるオベロンの姿でした。片ひざ立ちで片手を胸に、深くこうべを垂れる姿は、まるで姫君に忠誠を誓い、身命をささげる騎士でした。
オベロンのこっけいな様子に、薄絹の少女は張りつめていた緊迫の糸を断たれ、気を失ってくずおれました。
*
オベロンとアーチン、彼らは森の奥深きに暮らす長命の種族です。森の外の者たちを外界人と呼び、彼らとは異なる時の流れを生きます。
外界人は彼らのことを、その物珍しさから時に妖精と呼び忌避し、時に餓鬼と呼び唾棄しました。それは略奪や隷属、あるいは戯れの暴力の対象にさらされることを意味しました。
森の開拓が進むにつれ対立は激化し、外界人狩りがひとつの生業となりました。両者がむつみ合うゆえんもなく、片角の赤子を抱える薄絹の少女は、その犠牲者でした。
薄絹の少女と片角の赤子は、そんなオベロンたち種族の隠れ里で暮らすことになりました。