第1話 夢見る瞳の娘
…………――――ませ――――に森の――――る――――…………
それは、ひらめくように脳裏に訪れた。心身の消耗による錯乱であろうか。意味は不明で、だからこそ強い印象を残した。しかし、正体に思いをめぐらす余裕はなかった。
肩の背に鋭い衝撃を感じたのも束の間、それは激痛に変わった。もはや精魂つき果て、痛みの正体もなおざりに、草むらへと伏した。
まどろみに身をゆだねるも、自身の乱調な息づかいがわずらわしく、入眠の邪魔をした。仕方なく、まぎらわしに耳をすませば、そよ風が葉ずれの快い微音を運んだ。
心地よい静寂をへだて、かすかな人声がして、追手が間近に迫っていることを思い出した。
脳裏に浮かぶ少女は、なにかを伝えようと懸命であったが、その言葉のすべてはわからなかった。言語をたがえるヤツらとの会話は、ほうびである粗末な食餌と、罰則であるムチの痛打であった。しかし、少女のやわらかな手は優しく肩にそえられて、そのまなざしは行く末をおもんばかって、うるみ、揺れていた。
…………――――そ――――に触れてはなりま――――なた――――…………
弛緩するおのれの意識を、緊縛するように想いを改めた。
今、自身はなぜ追われているのか。自身の脱走を密告したものはだれか。あの少女のほほえみは、見えすいた計略にまんまとはまる、マヌケへの嘲笑ではなかったのか。
迫りくる私刑にいでる辞世の句は、自虐とうらみ節ばかりであった。しかし、それが肉体の表層に現れることはなく、激痛に対しても、うめき声ですら抗う気力は出なかった――――それが功を奏した。
うっそうと木々生い茂る世界に、明けの薄明は力なく、辺りは漠としていた。草やぶは、たけ高く茂って、身じろぎもなく横たわれば、おぼろな景色にまぎれて姿をくらませた。
追手は気づくことなく、通り過ぎて離れていった。
…………――――り――――あなたに――――る覚悟が、ないの――――…………
もはや力は残されていなかった。おのれの悪運まで呪いながら、疑心を燃やし、憎悪をけむらせ、肉体と霊魂の糧と変えた。
よろめきながらも立ち上がり、這いずるように歩を進めた。ただ目前にある、けし粒のような光明を目指し、前へ、前へと進んだ。
明け方の森に不調和な光粒が、たとえ幻視であったとしても、それは確かに訪れた。
とつじょとして視界は開け、うららかな陽だまりにぽつねんと、一条の樹があった。
…………――――の樹に触れてはな――――たに森の――――ないのなら――――…………
その声は、どこからともなく響いた。聞き覚えはなく、言語も定かではなく、そもそも言葉であったのか、果たして音であったのかすら定かではない。しかし内奥に侵入して、確かに意識へと触れた。
それは懐かしくも感じられ、反射的な拒絶の意思が湧き上がることはなかった。肯定も、否定も、みずからにゆだねられていた。
…………その樹に触れてはなりません。あなたに森の君たる覚悟が、ないのならば…………
その樹は樹皮がのたくるようで、幹の節くれがひしゃげた顔をなしていた。分厚いくちびるがめくれて乱ぐい歯がのぞき、ねじれた鼻には大小のイボが散らばっていた。
両目は位置も大きさも不ぞろいで、小さな右目は溶解したように垂れて、眼球を失っていた。らんらんと照る大きな左目は、眉根を下げ、眉尻を上げ、苦悶の表情でにらみつけていた――――眼下にたたずむ、その生き物を。
その生き物は尾も翼もなく、体毛の薄い土色の肌の裸身をさらしていた。
四肢の後肢は直立して足をなし、前肢は宙に垂れて手をなしていた。
きゃしゃな首にすえられた頭は、体毛を豊かに生やしながらも顔面はむき出して、それらは人間の特徴を示していた。
顔の部品の位置も人間同様だったが、彫りが深い目もとは、赤い瞳のギョロ目にひさしをかけるほど、上部が厚くせり出していた。
ざんばらに逆立つ髪は深緑の草色で、耳はウサギのように長くとがり、鼻はブタのようにそり返っていた。
その生き物は、人に似て、人にあらざる亜人であった。
亜人は、ほおがえぐれるようにコケて、四肢がしなびたようにすじ張っていた。ところが腹部は不釣り合いにふくれ、そのゆえんが栄養不良であろうことを連想させる様相であった。
亜人は、幽鬼とも称すべき、その体を力なく揺らし、ひざ立ちにくずおれた。肩の背の流血に気を払うそぶりもなく、ただ救いを乞うように、眼前の奇樹へと震える手を差し伸べた。そして――――
*
「やあ、ニアヴ! なにしているんだい?」
そのほがらかな響きに幽鬼はかき消え、奇樹は単なる雑木へと姿を変えた。雑木はひざたけほどの低木で、娘がひとりうずくまって見つめていた。
娘の耳は丸く、鼻は水平にツンとして、その白肌はすこやかな血色に赤みをおびていた。娘は、人に似て人なる、まったき人であった。
ニアヴと呼びかけられたその娘は、背中越しに立つ声のぬしへ、振り返らぬまま言葉だけ返した。
「ねえ、オシアン。この樹、まるで苦悶する人間のようだわ…………」
ニアヴの長くまばゆい金髪は、葉っぱをかたどった髪留めと共に微動だにもしない。葉っぱは手のひらのようななりで、背後に立つ者へ拒絶を示しているかのようだった。
葉っぱに拒絶を示された者は、人に似て人なる、やはりまったき人であり、青年と呼ばれるべき年格好であった。
オシアンと呼ばれた青年は、褐色めいた金髪をサラリと風に揺らした。はだけて着るジャケットも揺れて、長ズボンをつるサスペンダーをのぞかせた。
オシアンは小さく靴を踏み鳴らし、芝居がかった調子で答えた。
「ふーん、マンドラゴラかな? 引き抜いたらコトだぞ…………」
人面樹と呼ばれた雑木を、ニアヴは無言で見つめ続け、そのひと呼吸の間はオシアンを不安にさせた。ところが娘はスックと立って、クルリと振り向いた。
フワリとすそをはためかせるスカートとともに、亜麻色の金髪は光を残し棚引いて、ニアヴの顔もまばゆくほころんでいた。
「この世には、樹にまつわるたくさんの物語があるわ!」
ニアヴは言いながら、ひとつかしわ手を打って、そのまま手のひらを合わせた。そして夢見る瞳を薄目がちに、身ぶり手ぶりで話を続けた。
「エデンになる木の実には、天与の力が宿るのです。それは時に英知を、時に不老不死をもたらしました」
ニアヴの両手が、聖域と呼ばれた虚空にみのる、幻想の果実を包み込んだ。もがれた果実は、彼女のくちびるへ寄せられ、そっと口づけが与えられた。話は続く。
「古い巨樹には、妖精が住まうのです。それをある人は美しい乙女の姿と言い、ある人はおぞましい悪魔と言いました」
ニアヴは手のひらを掲げ、右上にせん望のまなざしを向けた。そして左上には手のひらを返し、恐怖におびえるおもざしで嫌悪を示した。話は続く。
「妖精は生来の悪意によって、取り替えっ子をしました。産まれたばかりの人間の赤子をさらい、みにくい木偶人形を置いていくのです」
ニアヴは胸もとに抱える、幻影の赤子をあやした。泣き止まぬ赤子を顔先にもたげ、けげんな表情で見つめた。話は続く。
「森で出会う、緑髪の麗人にお気をつけなさい。かどわかされれば、樹のとりこ。その愛ゆえに、離れられなくなるのです。幾星霜を、経ようとも…………」
ニアヴの指が、自身の長い金髪を払った。彼女の流し目が追いかけるその指は、愛を求めて中空に差し伸べられた。話は続く。
「森の奥深きに、足を踏み入れてはなりません。鬼人に怪物、魑魅魍魎のばっこする、人ならぬ者たちの異界なのですから」
ニアヴはふり返り、姿なき魔物を警戒した。それでも決意を眉根に寄せ、生い茂る空想をかき分けて、歩を進めた。
語るにつれ高揚する彼女の所作は、舞うようであった。ひとり舞台はやっと佳境に達して、そろそろ大団円へ。
「樹は、あるところでは神の似姿であり、あるところでは悪魔の化身であり、あるところでは異界への扉でした。そしてまたあるところでは、これといったいわれもなく、なんじゃもんじゃと呼ばれていました」
ニアヴの旅する瞳がオシアンをとらえ、どうやらそこが終着点のようだった。
物語がひと息ついたのを見計らい、オシアンはひたいにかかる金髪をかき上げながら言った。
「やれやれ、ニアヴの空想癖は相変わらずだ! その木にも、なにかいわれがあるかもね!」
とたんにニアヴの顔から灯が消え去り、プイと後ろを向いてしまった。
「伝説やおとぎ話にも、一片の真実があるものよ。ひと続きの歴史が、分裂融合、換骨奪胎の果てに、新たな物語になるの」
ニアヴは続けた。先ほどまで熱心に見入っていた足もとの木を、今度は冷たく見下ろして。
「これはただの雑木だわ」
ふたたびオシアンは、彼女の金髪に絡む、手のひらのような葉っぱに拒絶を示された。彼は思案げにあごをさすると、もうひと芝居と洒落込んだ。
「血を流す樹があった。悪魔は神罰により、身もだえも叶わぬ樹と変えられた。死を乞う樹は、その身切り裂かれ命果てるとき、魔性の血をしたたらせた。血は樹の力を帯び、不老長寿の妙薬となった」
オシアンは、いつの間にやら拾っていた枯れ枝を、顔先にかざして続けた。
「そしてその血で、その骨身をすすげば、樹は鉄なぎの魔剣と化し――――」
「なにそれ」
ニアヴは誘い水に惹かれ、半身だけ返し尋ねた。
オシアンは弾んで問い返した。
「その魔剣みたい?」
ここぞとばかりに勢いづくオシアンとは裏腹に、ニアヴは冷ややかにひと言、はねつけた。
「別に」
あせるオシアンは、まくし立てた。
「なんとウチにあるんだよね!」
「へぇ」
「変な木のウワサ、知ってるだろ? あれでつくったらしくって――――」
「ほぅ」
「飾り物みたいなくせしてさ、やけによく切れて――――」
「ふーん」
「ほ、本当だって! 今度見せてあげるよ!」
「それは、それは」
あがけども、わめけども、ニアヴは、けんもほろろにすげもなく、オシアンは「ちぇッ」と木ぎれを放って降参した。
ニアヴは改めて雑木を見下ろした。しばしののち、彼女の片足がヌッと持ち上がった――――雑木をゲシッと蹴り飛ばし、背中越しに呼びかけた。
「ねえ、オシアン」
ニアヴは今度こそ、しっかりと振り向いてオシアンを見すえた。彼女の目には、ふたたび火が灯っていた。話は続く。
「植物はその種子を散布するために、風や虫、鳥獣に水の流れと、さまざまに利用するのよ」
瞳の誘蛾灯は煌々として――――惹かれるオシアンは自身にあきれつつ、合いの手を引き受けた。
「それがなんだい?」
「例えば、人間とその命を利用する植物があるとすれば、どんなものかしら?」
ニアヴの瞳は微笑とともに妖艶を帯び、オシアンの心霊は捕らえられた。
ニアヴの言葉が、その声音が、彼女自身を彼方の異界へと連れ去っていく。見守るオシアンは手を引かれつつ、追いかけていく。ふたりだけの、ひそやかな冒険旅行。
「例えば世界の終末、人の生きれぬ世の荒廃。人を、この世を糧として、繁茂し、蹂躙し…………やがては世界となりかわる、そんな樹があったなら――――」