3歳児、潜入任務へ(直前からすでに地獄)
「以上だ」
父親がそう言った瞬間、隣にいたガキンチョがスッと一礼した。
──と思ったのも束の間。
「ヒュンッ!」
……ものすごい速さで、どこかへ消えていった。
「……え、どこ行くんだよ」
呆気にとられる。いや、普通に考えて今のはおかしいでしょ!? あの速度、人間の出せるスピードじゃなかったんだけど!?!?
私が困惑していると、次の瞬間。
「グッ」
「うぉっ!?」
いきなり頭を押さえつけられ、強制的にお辞儀させられる。
「お前な!! 一言くらい!! 言わせろよ!!!」
抗議する間もなく、今度は体を持ち上げられ──
「ヒュンッ!」
「ちょっ、待て待て待て!! また荷物扱いか!?」
気づけば、ゴキA(旧・召使いA)に抱えられたまま、猛スピードで屋敷の中を移動していた。
「な、なんでこんなに急ぐんだよ!!」
……と、思わず口に出しそうになったが、どうやら顔に出ていたらしい。
ゴキAは淡々と答える。
「本日中に変装を済ませ、準備が整い次第、出発していただきます」
「えーーーー!?!?!?」
ちょっと待て待て待て!!! もう出発!?!?!?!?!?!?!?
「普通、こういうのって事前にブリーフィングとか、作戦会議とか、準備期間とかあるもんじゃないの!?!?!? なんで「行ってこい」→「今すぐ準備」→「即出発」みたいな流れになってんの!?」
「任務の詳細とか、あとで紙にまとめてくれるとか、そういうのないの!?!?!? なに!? 3歳児には文字読めないから、そもそも説明する意味ないって判断!?!?!?」
頭を抱えたいのに、今は荷物状態なのでそれすらできない。
──そんなことを考えているうちに、今度は自室に到着。
「ヒュンッ!」
すごい勢いで部屋に放り込まれたかと思うと、ものすごい速さで着替えが始まった。
「お、おい、待てって!?」
抗議しても無駄。もうこのスピード感には慣れつつあるけど、それでもやっぱりついていけない。
そして、ふと気づく。
「……うわ、結構カビ臭いな」
まあ、これは仕方ないか。
孤児院に潜入するんだから、「きれいな服」ってわけにはいかないよね。
この服、相当使い込まれてるのか、うっすら黒ずんでいて、湿気っぽい独特のにおいが染みついていた。
「でもまぁ、“ようやくたどり着いた”って雰囲気を出すための演出ってことだよね……」
なるほどなるほど、確かにそれっぽい。
納得しながら袖を通していると、またしても無言で抱えられ──
「ヒュンッ!」
また荷物状態で移動開始。
「……もう慣れてきたわ」
なんて、自分で思って、ちょっと悲しくなった。
──が、今回は妙な方向へ進んでいる気がする。
「あれ? なんか、訓練場に向かってない?」
……え、なんで訓練場?
潜入するのに、最後の仕上げに訓練するってこと?
いやいやいや、もう私、この三ヶ月で地獄みたいな訓練受けてきたんだけど!?
この期に及んで、まだ新しい訓練をねじ込んでくるとか、そういう話じゃないよね!?
──そんな不安が的中する。
ゴキAは、淡々と説明した。
「今からお嬢様には、ある程度ボコボコになってもらいます」
「はぁ!?!?!?」
待って、今なんて言った!?
「ボコボコにする」って言った!?!?
そう思った瞬間、
「ドゴッ!」「バシッ!」
「ぐえっ!? いだっ!!??」
──もうね、「は!?」とか考える暇もなく、ゴキAが容赦なく私を殴ってきた。
痛い痛い痛い!!! 本当に痛い!!!!
こいつ、加減ってものを知らないの!?!? ちょっと手加減するとかないの!?!?!?
「おい、ほんとにやるんかい!!!!」
ツッコミたいのに、声すら出せない。
ただひたすら、一瞬のうちに全身に衝撃が走る。
そして、その痛みが残る中、私は鏡の前に連れて行かれた。
「いかがでしょうか」
「いや、いかがでしょうかじゃねーよ!!!!」
え、何これ!?!?!?
ボコボコって言ったよね!?
ボロボロになったから、誰も孤児として引き取ってくれないじゃん!!! って文句を言おうとしたが──
鏡に映った自分を見て、思わず言葉を失った。
「……いや、どんな技術!?!?」
自分で言うのもなんだけど、いい感じに“やつれた”印象になっている。
全身にはしっかりあざがあるのに、顔にはほぼ傷がない。
「え、これって……狙った?」
いや、狙ってるよね!?!? 計算して殴ったってこと!?!?
あまりの衝撃に、私はゴキAの呼び名を再度変更することを考えた。
◆
そして、また無言で抱えられ、荷物状態で移動開始。
「……もう荷物状態にも慣れてきたわ」
なんて、自分で思ってまた悲しくなった頃、今度は自室に戻ってきた。
「あれ? もう出発?」
いや、まだそんな気配はない。
「じゃあ、あとは出発まで待つって感じかな?」
そう思った矢先。
「ガチャッ」
──鍵が閉められた。
「うぇ!?!?!?!?!?」
待て待て待て待て!!! なに今の音!!! なんで鍵閉めた!?!?!?
思わず混乱していると、ゴキAが淡々と告げる。
「お嬢様には、飢餓状態になっていただかないといけませんので、三日間ここでお勉強をしていただきます。」
「はぁーーーー!?!?!?!?」
飢餓状態って何!? 三日間、何も食べさせてもらえないってこと!?!?!?
てか、そのくらいメイクとかでなんとかならないの!?
もう、どうせ何を言っても無駄だろう。
私は、いろいろと諦めることにした。
孤児院への潜入に向けて、地獄のような三日間が始まった。
──**「飢餓状態になっていただきます」**
鬼畜A(旧・召使いA)のその一言で、この異常な任務の準備が始まった。
◆
最初の数時間は、特に何も感じなかった。
まぁ、食事抜きなんて、珍しくもない。
前世だって、忙しくてご飯を食べ損ねたことなんて何度もあったし、今世でもヴァルムント家の訓練でろくに休憩が取れない日もあった。
だから、最初の数時間はまだ余裕があった。
──だが、それは甘かった。
時間が経つにつれて、体の中からエネルギーが削り取られていくのを感じる。
胃の中がからっぽなのに、それでも内臓が何かを求めて蠢いているのがわかる。
「……お腹すいた……」
ぼんやりとした頭でそう思いながら、机に突っ伏しそうになった。
──が。
「ガバッ」
「んぐっ!?」
突然、何か黒くて丸いものを口に押し込まれる。
「な、なにこれ……」
次の瞬間。
「苦ぁぁぁぁぁ!!!???」
目が覚めた。いや、目が覚めるどころか、意識を殴りつけられたような衝撃。
「え、なにこれ!?!? 苦すぎて涙出てくるんだけど!?!?」
体が勝手に異物を吐き出そうとするのを必死に堪える。
鬼畜Aを見ると、相変わらず無表情でただこちらを見下ろしている。
「……お嬢様、寝てはいけません」
「いやいやいや!!! ちょっと待て!!! こんな苦いやつで起こすなよ!!!!!」
◆
──その後、このやり取りをあと2回繰り返した。
つまり、私は3回もこの地獄みたいな苦さを味わったことになる。
「ねぇ、これ拷問の一環じゃない?」
食事を抜かれてるだけでも十分辛いのに、眠気がくるたびに苦味爆弾をぶち込まれるとか、絶対おかしい。
「こんなのがヴァルムント家の教育とか言われたら、世間に訴えてやるからな!?」
──だが、そんなことを考える余裕すらなくなっていった。
空腹が、確実に意識を削っていく。
2日目になると、胃がきしむような感覚に襲われた。
何か食べたい。
いや、何でもいい。
「机とか、食べられないかな……?」
3日目には、もはや意識がほとんど飛んでいた。
視界は霞み、動く気力もない。
床に転がる影が揺れる。
「……はは、もうダメかも」
こんなことで命を落とすとか、転生した意味がなさすぎる。
「次こそは、もっとまともな家に生まれたい……」
そう思いながら、私は意識を手放した。
◆
──パンッ!
「……ん?」
何かが弾ける音がして、ぼんやりと目を開ける。
「時間でございます」
目の前には、鬼畜A。
相変わらずの無表情。
「……時間?」
「食事の時間です」
そう言って、鬼畜Aが手を振ると、目の前にお粥らしきものが置かれた。
◆
「…………」
「…………」
──次の瞬間。
「バクッ!!!」
私は、何の迷いもなくそれを貪りつくした。
「んぐっ……んぐっ……っ!!」
口の中に広がる、ほんのりした塩味。
胃に染み渡る、温かい感覚。
「……うぅ……」
気づけば、涙が出ていた。
「なんて素晴らしいんだ、食事とは……!!!」
たった三日間食べていなかっただけなのに、まるで何週間も飢えていたかのような錯覚。
「これ、神の恵み……?」
もうなんでもいい。
今は、ただ食べることができる喜びに浸っていたかった。
──だが、ふと冷静になり、違和感に気づく。
「……ちょっと待って? たった三日で、ここまでボロボロになる?」
いやいや、さすがにおかしい。
確かに空腹はつらいけど、人間、三日くらい食べなくても普通に生きていられるはず。
それなのに、こんなに意識が飛びかけるほど衰弱するもの?
「……絶対、あの丸薬のせいだ」
あれ、何だったんだよ!? 苦すぎるだけじゃなくて、絶対なんか余計な効果あったよね!?!?
鬼畜Aに文句を言おうとしたが、そんな力すら残っていなかった。
「……もういいや……」
何も考えたくない。
とにかく、食べられた。それだけでいい。
◆
──食事が終わった瞬間。
「ヒュンッ!」
「おい、待て待て!!」
またしても荷物状態になった。
もう少しゆっくりさせろ!!!
もはや諦めの境地で、私は再び荷物として外へ運ばれる。
目の前に広がるのは、待機している荷馬車。
鬼畜Aは淡々と歩きながら告げる。
「準備は整いました。予定通り、潜入を開始します」
──地獄のような三日間を耐え抜いた私は、ようやく次の地獄へと送り出されるのだった。




