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魔法? と思ったらやらかした

静寂に包まれた広い執務室。


窓の外では月が冴え冴えと輝き、夜の闇を照らしていた。分厚い書類の山がデスクの上に積み重なっているが、それらを処理する男の動きには一切の迷いがない。


ペンを走らせる音だけが響く中、扉が静かに開かれた。


「……」


男──この屋敷の主であるガイル・フォン・ヴァルムントは、ちらりと扉の方を見やる。


黒と白の制服に身を包んだ数名の召使いが、無言のまま彼の前に膝をついた。


「……で?」


その低く抑えられた声には、何の感情も乗っていなかった。


「また死んだのか?」


それはあまりにも淡々とした問いだった。まるで「今日の天気はどうだ?」と尋ねるかのような調子で。


この質問を受けるのは、もう何度目になるだろう。召使いたちは、ほんの一瞬、間を置いた。だが、今回はいつもと違った。


「……いえ。今回は、生き残りました」


一瞬だけ、空気が張り詰める。


ガイルの金色の瞳が、僅かに細められた。


「ほう?」


無表情のまま、ほんのわずかに眉を動かす。その仕草は、ごくわずかな驚きを示していた。


「これで何人目だ?」


「二十九人目です」


即座に答えが返る。


「そうか」


その短い言葉の後、ガイルはすぐに視線を手元の書類へ戻した。まるで、それ以上は何の関心もないと言わんばかりに。


召使いたちは、それ以上何も言わず、静かに一礼して部屋を去る。


ガイル・フォン・ヴァルムント公爵。


彼は、エルヴェンティス王国の四大公爵家の一角を担う男であり、同時に王国最強の武人とも称えられる存在だった。


──王国騎士団の総長。


それが彼の肩書きであり、彼を知る者すべてが思い描く「ヴァルムント公爵」の姿だった。


「誠実で、清廉で、高潔なる騎士」


王と民に忠誠を誓い、いかなる悪にも屈しない、理想の騎士。そう謳われ、敬われる男。


しかし、それは表向きの顔に過ぎない。


ガイル・フォン・ヴァルムントの本性を知る者は、極めて少ない。


──いや、それを知った者は、二度と生きて屋敷を出ることはなかった。



この王国では、魔物の討伐は騎士団の重要な役割とされている。王都を脅かす脅威を取り除くことは騎士の義務であり、それ自体は何ら不自然なことではない。


だが、ガイルは単なる「義務」ではなく、それを愉しみにしていた。


「……フッ」


書類を捲る指先が僅かに動く。


彼にとって、魔物狩りとは最も手軽な娯楽だった。


異形の怪物を切り裂き、血の匂いを嗅ぎ、肉を裂き、骨を砕く。その感触を楽しみながら、時には生け捕りにし、屋敷へと持ち帰る。


そして、そこからが本番だった。


──どこまで生きられるか。

──どの部位を潰せばどんな声を上げるのか。

──人間の魔術がどこまで通じるのか。


ただ殺すだけではつまらない。


実験し、観察し、記録し、新たな知識を得ることこそが、彼の真の楽しみだった。


この「研究」には誰も口を出せない。王国最強の騎士であり、公爵家の主である彼に対して、意見できる者などいないのだから。



そんなことは露知らず、ガイルの娘である私は、呑気に眠っていた。


ナイフを突き立てられるような恐怖を味わっておきながら、赤ん坊の体は驚くほど単純で、容赦なく睡眠を要求してくる。


いや、いいんだけどさ……いいんだけど……


「普通に考えてヤバくね?」


叫びたくても、口から出るのは「あー」とか「うー」とかいう情けない赤ちゃん語だけ。


……せめて、もうちょっとまともなところに転生したかった。


私は意識が消えていく中で、自分の運命を呪うしかなかった。



書類を処理しながら、ガイルはふと思い出したように手を止めた。


「……そういえば」


彼は誰にともなく呟き、机の上に置かれた報告書に視線を落とす。それは、先ほど召使いたちが置いていったものだった。


『赤子、初の生存確認。ナイフによる試験を回避』


「……避けた?」


金色の瞳が細められる。


殺意を持って振るわれた刃を、たかが生まれたばかりの赤子がかわした──?


「……フッ」


静かに、しかしどこか愉しげに微笑む。


「そうか」


ガイルはペンを手に取り、羊皮紙に流れるような筆跡で一文字ずつ記す。


──《エリシア》


それが、彼の娘に与えられた名だった。


特に意味があるわけではない。ただ、ふと頭に浮かんだ響きの良い名。それだけの理由だった。


彼にとって、この名がどこまで必要になるかはわからない。


なぜなら、過去二十八人の子供たちは、この名を与えられる前に死んだからだ。


「……さて」


再び書類に目を落とし、静かにペンを走らせる。


公爵の仕事は山ほどある。


──たとえ、今日生まれたばかりの娘が、今後どれほどの生存率を持つのか、彼にとってはさほど重要ではなかった。


「……暇だなぁ」


目が覚めた。


そして、開口一番の感想がそれだった。


いや、もういい加減にしてほしい。私は今、赤ん坊として転生(?)したわけだけど、何もできない時間が多すぎる。寝て起きて、天井を眺めて、召使いたちに無言でメモを取られ……以上。


「何これ、新手の監視社会?」


しかも、あの人たち、赤ん坊に対する扱いが完全に「観察対象」なんだよな。普通、赤ん坊って「よちよち~♪」とか言いながら可愛がられるものじゃないの? なにこの無機質な接し方。心が寒い。


「もうちょっとこう、愛情を持ってあやすとか……え? しないの? そうですか」


私の意思が伝わるわけもなく、今日も召使いたちは黙々とメモを取り、そっと去っていった。



──ところで、あの少年は何だったんだろう。


数日前(いや、時間の感覚ないから正確にはわからんが)、私にナイフを突き立ててきた金髪美形のガキンチョ。


「いや、来ないに越したことはないんだけど!!」


自分で思い出して、自分でツッコむ。


でも、あれから一度も来てないのは逆に不気味なんだよな……。


「次来るときは、もっとヤバい武器持ってくるとか、ないよね?」


そう考えると、背筋がゾワッとする。いや、赤ん坊だから背筋とかないんだけど。でも、めっちゃ嫌な予感はする。


「……クソッ、私の未来、超絶不安しかない」



まあ、不安を感じていても仕方ない。


「それよりも、今さらだけどさ」


──この世界、魔法とかあるのかな?


ファンタジー転生といえば、やっぱり魔法でしょ!? いや、魔法がないと私、詰む気しかしないんだけど!? だってこのままだと、喋れない&動けないまま、謎の実験対象みたいな人生が待ってそうじゃん!?


「いやいや、それはさすがに嫌だ!! 絶対に魔法を手に入れてやる!!」


というわけで、唐突に魔法の習得チャレンジ開始。


① とりあえず、頭の中で呪文を思い浮かべてみる


「ファイア! サンダー! ウォーター!」


……無反応。


「メラ! ギガデイン! ザオリク!!」


……無反応。


「アバダケダブラ!!!」


……無反応。


「えっ、もしかして魔法ない?」


いや、そんなはずない。私の知識だと、異世界モノの魔法って、「呪文を思い浮かべる系」か「気合で出す系」か「魔力を練る系」とか色々あるはず。


次はカタカナじゃなくて、日本語で考えてみよう。


「炎……火……ボーボー……ファイヤァァァ……」


……無反応。


「水……ウォーター……アクア……氷……ブリザード……」


……無反応。


「もう何でもいいからなんか起これ!!」


……起こらない。


「いや、待って、これ魔法ないパターンじゃないよね?」



こうなったら、別のアプローチだ。


「……あ、武侠漫画とかであったよな。丹田に力を入れるやつ!」


丹田ってどこだっけ? えーっと、お腹のあたり? とにかく力を入れまくれば、なんか気が流れるとかそういう感じになるんじゃね?


「おおおおおおおおおお!!!!!」


赤ん坊のしょぼい身体能力をフル活用して、お腹のあたりに全力で力を込める。


……すると、なんか、ほんのりとした「圧」を感じた。


「えっ、これ、もしかして……魔力?」


お腹の奥の方から、何かが「じんわり」と湧き上がってくる感覚。おおお!? ついに魔法の才能に目覚めてしまったのか!?


──しかし、その喜びは、一瞬で絶望へと変わる。


「……ん?」


なにか、お尻のあたりが、すごく暖かい。


「えっ、えっ、えっ?」


まさか……まさか……いや、いやいやいや、そんなはずは──


「やらかしたああああああああ!!!!」


魔力かと思ったら、ただの生理現象だった。


「生まれて26年(今世含む)、こんなことになるとは……」


もう何も考えたくない。すべてを忘れたい。恥ずかしい。こんなに赤ん坊なのが悔しい瞬間があるか!?



だが、そんな私の羞恥心などお構いなしに、召使いたちがどこからともなくやってきた。


「いや、お前らどこにいた!? 絶対近くで監視してただろ!!」


問答無用で持ち上げられ、神速の動きでおむつ(的な何か)を外される。


──手際が良すぎる。


もはや、人間の技じゃない。何この完璧な連携?


「プロかよ!? いや、プロなんだろうけど!!」


羞恥心を感じる暇がないほどの速さで、新しい布に交換され、さっさと元の位置に戻された。


「……やるじゃん」


思わず、心の中で召使いたちを称賛してしまった。



──こうして、私は転生して早々、魔法の才能を求めた結果、ただの赤ん坊らしい失態を晒したのだった。


「いや、もうちょいカッコいい覚醒イベントがよかった……」


ぼんやりと天井を見上げながら、私は改めて自分の赤ん坊という現実を噛み締めた。


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