恒河沙
現代の日本に蔓延る何とも言えない無力感に対して、日本の若者が立ち上がり世界を変えるという内容の短編小説です。
―近藤実―
「今日もやけに暑い。」
近藤実は都会の街を歩きながらいつものように仕事へ向かっていた。日本では日に日に賃金格差が広がり、今では一部の人間を除いて多くの人間が毎日を生きるのに精いっぱいな日々を過ごしている。二千三十年の夏である。
近藤は役所勤め。毎日満員電車で片道一時間を通勤、朝から晩まで働くいわゆる公務員であった。近藤が帰るころには、いつも飲みつぶれたサラリーマンたちが電車にあふれている。職場では朝から晩まで上司の犬となっており、そうすることで出世が約束されるとの暗黙のルールが存在していた。近藤の働く役所はいわゆる体育会系の職場であった。
仕事は順調である。昨日も直属の上司である船瀬駿介から、来年こそは係長に昇進できるよう部長に取り次ぐと伝えられていた。
いつものように同僚の茂木誠人と昼食をとっていると、課長の船瀬に話しかけられた。
「昨日のニュース見たか。またアメリカと中国が核の脅し合いをしてるみたいだな。恐い恐い。」
「見ました。いやあ、いつものことながら、もうちょっとうまく話し合いで解決できないものですかね。」
相変わらず茂木は相槌がうまい。一方で近藤は普段からニュースを見ないため、こういう政治とか経済とかの時事ネタに弱い。いつももう少し勉強しなければと思っているが、毎日の仕事で精いっぱいのため、家でさらにニュースを見る余裕がないのだ。
「あー今日はひどく疲れたな。」
最寄り駅から家までの真っ暗な夜道を歩きながら、近藤はつぶやいていた。午後の仕事で重大な案件に関する会議があったのだが、課長の船瀬が来年度予算の配分先を間違えており、そのせいで会議が長引いてしまった。挙句の果てに会議後、長々と船瀬の愚痴を居酒屋で聞く羽目になってしまう。もちろん近藤は終始聞き役に徹していた。これも含めて仕事だと近藤は割り切っている。帰りの電車はいつものように飲みつぶれたサラリーマンであふれていた。
家の最寄り駅に到着する頃には、あたりはもう闇に包まれていた。近藤の住む家は市役所のある都会とは全く様相が異なる。駅前のコンビニで夜中に食べるためのアイスを買い、家までもうすぐという最後の交差点で、横断歩道の信号が赤になる。近藤は誰も通るはずもない信号を待っていた。そんな時、隣で同じように待つ人がいた。
アロハシャツのその男は、お世辞にも清潔間のある見た目ではなかった。髪もぼさぼさで、おそらく何日かひげをそっていないのであろう。どこか物思いに更けた顔をしており、横断歩道の信号が変わるのを今か今かとちらちら見ていた。アロハシャツのその男は、時々こちらを覗いてはため息をついていた。近藤はアロハシャツのその男に何か言ってやろうとも思ったが、それよりも昨日の続きのゲームを早くやりたいこともあり、そそくさと帰路についた。
誰もいない真っ暗な家に着くと、近藤はアイスを食べながらソファに寝ころび、昨日の続きのゲームに没頭。いつの間にか寝てしまっていた。
次の日の朝は少し変な天気であった。暑いは暑いのだが、どこかどんよりしている。すれ違う人間はどこかよそよそしく、皆が携帯を見ながらせわしなく歩いていた。
「昨日何かニュースがあったのか。」
そう思いながら近藤は携帯を開くと、ニュース速報が目に飛び込んできた。
―アメリカと中国、戦争状態突入かー
近藤は今日もせくせくと働いていた。今日は特に船瀬の機嫌が悪い。犬の近藤は船瀬の機嫌を取るために顔色を伺いながら配分先の予算の再計算をしている。茂木は、仕事どころではなく、携帯でニュースのコメント欄をしきりに見ていた。役所もどこかせわしない。ただ近藤は、時事ネタよりも船瀬の機嫌の方が気になっていた。
午前の仕事が終わるといつものように近藤と茂木が昼食をとっていた。携帯片手にパンをほおばる茂木が近藤に話す。
「やっぱり役所勤めでよかったよ。だって一般企業だと、倒産したら行き場をなくすぜ。そんな時に、自衛隊の誘いがあったら、断れないよな。自衛隊の給料いいみたいだし。」
「え。自衛隊の給料ってそんなにいいの。」
「ほら、これ見てみろよ。」
自慢気に携帯画面を見せてくる茂木はどこか勝ち誇った顔をしている。
「へえ。こんなにもらえるのか。」
そこには、今の自分の給料の二倍の金額が書かれており、さらに朝昼晩の食事つきとあった。
「明日の仕事がない状況で、こんな福利厚生がいい仕事なら、自衛隊も就職先の選択肢に入ってくるよな。その分、俺たちの仕事はつぶれることがないから安心だ。」
茂木はどこか嬉しそうに話していた。
「そんなことはわからないぞ。場合によっては役所も人員削減を考えないといけないと昨日部長が話していたからな。」
船瀬が携帯片手におにぎりをほおばりながら、話しかけてきた。
「お前たちももしものことを考えて、行動しておいた方がいいかもしれない。」
船瀬は少し勝ち誇った、しかしその後少し真剣な眼差しで私と茂木を見つめる。そうやって後輩たちを冷やかした後、忙しそうに通り過ぎて行った。近藤は、ハハハと受け流しながら、社員食堂限定のハンバーグ定食を食べていた。一方で茂木は、青ざめた顔で、
「それ本当ですか。やばいじゃないですか。」
と残りのパンをほおばりながら、船瀬の後をついて走って行ってしまった。
その日の夜も、夜中に帰路についていると、昨日のアロハシャツの男がまた歩いていた。今日はアロハシャツの男は少し酔っているようであった。多くのサラリーマンが携帯片手にそそくさと帰路についている。皆今日のニュース速報の続きが気になっているのであろう。しかしアロハシャツのその男は、やはりどこか物思いに更けており、あたりを見渡してはため息をついていた。
「またいるよ、アロハシャツ。あいつも仕事が大変なんだろうな。」
近藤は歩くスピードを上げ、アロハシャツの男を少し大げさに抜きさりながら、そう思った。早く昨日の続きをしなければ。
―岩尾俊兵―
岩尾俊兵は、大学教員であり経済学を専門とする中堅の研究者であった。岩尾は研究の傍ら常にネットや書籍などで情報収集をしており、今回のアメリカと中国の戦争状態の速報にも慌てることはなかった。岩尾は現在の世界に憂いており、特に日本人に対してはあきらめの気持ちが強かった。
「どいつもこいつも世界のことを知らなすぎる。」
これが岩尾の口癖であった。
岩尾はバリバリの若手研究者として、学会では一目置かれる存在であり、特に「経済と地政学」に関する論文は学会賞を受賞するなど、大きな評価を得ていた。
アメリカと中国の関係が怪しくなってきた二千二十年頃からは、「経済と戦争」というテーマに研究路線を変更し、経済状況と戦争との関連性や、経済の浮き沈みと民衆の反乱との関連性などの研究論文を多く投稿していたのだが、戦争や紛争というテーマは学会から嫌悪されており、学会での発表も断られるなどの扱いを受けるようになっていった。当然岩尾としては納得できるものではないので、学会に対してはたびたび反論書を送り、一方でブログや動画配信などで自身の考えを綴り、共感者を増やそうと行動していた。その頃の岩尾は正義感に満ち溢れていた。
しかしながら、学会から「本学会の考え方と異なるため、他学会への投稿を勧める」との回答書が届き、一方でブログでは陰謀論者などのコメントや、誹謗中傷が送られるようになってきた。岩尾は日に日に落ち込み、苛立ち、躍起になっていった。そのうちブログでは岩尾の暴言が目立つようになり、これらの投稿は、読者をさらに興奮させ、次第にコメント欄は批判で溢れ返ってきた。一部のユーザーからは岩尾に共感するものもいたのだが、岩尾の頭はもはやパンク寸前であった。
岩尾のこれらの評判は所属する大学にも届くようになり、他の教員からも少しずつ距離を置かれるようになる。そのうち岩尾の心はプツンと糸が切れ、どうしたわけかアロハシャツを着はじめるようになっていた。
このアロハシャツは岩尾を余計変人へと向かわせた。日本人の心を変えるのは無理だと悟った岩尾は、次第にブログや動画サイトへの投稿をしなくなっていった。
「どいつもこいつも世界のことを知らなすぎる。」
いつも岩尾は嘆いていた。
―渡部昭一―
岩尾は今日も渡部昭一に愚痴っていた。
「中国とアメリカが戦争状態になれば、必ず日本も巻き込まれることがどうして誰もわからないんだ。最近では、自衛隊の給料がいいことを理由に、入隊するやつも多いそうだ。今自衛隊に入ることの意味を少しは考えなかったのか。どうしてどいつもこいつも目先のことしか考えられない。」
「うんうん。そうですね。」
渡部はいつもそうやって岩尾の愚痴を聞いていた。
「この前も、交差点でコンビニ袋片手にルンルンで帰宅する馬鹿なサラリーマンがいたんだよ。どうせ早く帰ってゲームか何かをしたかったんだろうよ。ため息しかでねえよ。」
「うんうん。そうですね。」
岩尾が先月居酒屋で客ともめていた時に、渡部が間に入り仲裁した。岩尾と渡部はそれ以来、たまに一緒に飲む仲となっていた。
「あんたはどう思う。このままの日本でいいと思うか。」
何杯目かのビールを大げさに流し込みながら岩尾は渡部に問いかける。
「うーん、どうでしょうね。私にもよくわかりませんよ。」
どっちつかずの答えしか言わない渡部に対して多少イラつきはするものの、岩尾は自分の話を素直に聞いてくれる渡部がどこか気に入っていた。
「俺もついこの前までは、何とか皆に気づいてもらおうとブログで必死に情報発信してきたんだよ。ただ、右翼だの陰謀論者だの言われてよ、もう日本人は地に落ちたも同然だよ。三島由紀夫が泣いてるぜ。」
「うんうん。」
「ところで岩尾さんはどうしていつもアロハシャツを着てるの。」
渡部は岩尾の話を引き出すのがうまい。
「なんか普通にスーツ着てるのが馬鹿らしくなったんだよ。それに、アロハシャツを着てれば、多少なりとも注目するだろ。最近はアロハシャツと学者で調べれば一発で俺だとわかるんだよ。ちょっと調べれば、アロハシャツのこの男が岩尾だとわかる。ネットってすごいよな。」
「なるほどね。岩尾さんもまだ日本人のこと諦めてないんだね。」
「そんなことはない。もう飽き飽きしてるんだ。次に世界はどうなるかわかるか。次はアメリカが日本の自衛隊に対して支援調達部隊に加わるよう要請してくるぞ。その次は兵器の提供。最後は兵隊の提供だ。どのタイミングで馬鹿な日本人達が今の日本の置かれている現状に気づくか見ものだな。」
「それは大変ですね。岩尾さんは、どうすればいいと思いますか?」
「そんなことは簡単だ。皆が“今”の現状を理解すればいい。理解したうえで自衛隊に入るなら問題はないし、それが嫌なら、民間人として、備えるものは備えるなどするべきだ。ただ、今のテレビなんかのメディアに頼っていてはだめだ。あいつらは世界情勢よりも今流行りのスイーツだとか、芸能人のことしか興味がないからな。というよりも、俺たちはこれまで通り馬鹿でいてほしいんだろうよ。日本人は奴らの思うままに行動してやがる。ほんと平和ボケしてるよ。」
「なるほどね。でも今のままじゃ、なかなか皆は気づかないだろうね。」
「そこなんだよ。だがブログや動画配信は全くダメだった。特に俺みたいな学者の意見は基本的に批判的な目で見てくる。皆遊び半分でしか見てないからな。それに学者に物申してやろうというところが少なからずあるんだろう。そういう若いやつらを根本から変えていかないといけないんだよ。」
そうやっていつも岩尾が話し、渡部は聞き役になる。居酒屋を出るときには、岩尾のイライラはどこか少しだけ収まっていた。ただ、帰りの電車でサラリーマン達が皆携帯に夢中の様子を見ていると、またイライラが増してくる。家の最寄り駅に着き自宅まで歩いていると、コンビニ袋男とまたすれ違った。岩尾は大股で誇らしげに抜き去るコンビニ袋男を横目にまたため息をついていた。
「どいつもこいつも世界のことを知らなすぎる。」
―茂木誠人―
「お前いつもゲームしてるよな。それそんなに面白いのか。」
茂木はいつものように近藤と昼食をとっていた。中国とアメリカの報道から一週間。このニュース速報の後、数日間はテレビやネットなどで大きく取り上げられ話題となっていたが、一週間も経つと過去の話となっていた。今では誰もこの話題に触れることはなく、むしろ無かったように振る舞うことが礼儀のような空気感さえ漂っていた。
「まあな。実はこのゲームで俺全国一位なんだよ。ここだけの話、俺のゲーム配信動画結構有名なんだぜ。」
近藤は、待ってましたと言わんばかりに、自分の投稿動画を見せてきた。
「まじかよ。お前こんな有名な動画配信者だったのかよ。」
社員食堂に茂木の声が鳴り響く。
「シーッ。お前絶対内緒にしてろよ。上司に見つかったらクビになってしまう。ほら、役所は副業禁止だろ。特に船瀬さんにバレでもしたら。」
茂木と近藤は、食堂の端でおにぎりを忙しくほおばる船瀬に視線を向ける。
「だからお前自衛隊の話をした時、あまり興味がなさそうだったのか。」
「実は、今の給料と同じくらい動画配信で儲けてるんだ。」
数量限定のハンバーグ定食を今日もつまみながら近藤は小声で続ける。
「ところで、人員削減の話は本当なのか。」
「あぁ。どうやら本当らしい。木村部長にもそれとなく聞いてきたんだが、何人かに早期退職を勧めるそうだぞ。」
遠くからこちらの様子を険しい顔つきで伺う船瀬の様子を確認しながら茂木が続ける。
「お前、そんなに有名なら動画配信だけで十分生活していけるんじゃないのか。」
「ばかかお前は。こんな世の中なんだから、お金はいくらあっても足りないよ。」
「そらそうだよな。でもまあ、俺は木村部長のお気に入りだから大丈夫だけどな。船瀬さんも内心うかうかしてられないだろう。この前の会議でも部長にこっぴどく叱られていたからな。お前も誰の犬になるかよく考えて行動した方がいいぞ。」
「え。それはまずいな。」
端からこちらの様子を伺う船瀬の視線が近藤にはどこか寂し気に思えてきた。茂木はさらに小さな声で話す。
「そういえば、前から気になる情報を発信している人がいるんだよ。岩尾俊兵って知ってるか。かなり変わってるんだけど、アメリカと中国の戦争のことをずいぶん前から指摘してたんだ。最近は全く投稿しなくなったんだけど。」
「岩尾?誰だそれ。聞いたこともないな。」
―船瀬駿介―
「俺が毎日こんなに働いていることがどうして木村部長はわからないんだ。この前の会議での失態も、俺が疲れて手が回っていないとは考えなかったのか。俺が部長のためにどれだけ毎日努力しているか。お前もそう思うよな。」
何杯目かのビールを大げさに流し込みながら船瀬は今日も近藤に愚痴っていた。
「もちろんです。木村部長ももう少し課長のことを信頼するべきです。」
近藤は船瀬の犬である。
「そういえばお前、この前食堂で茂木と何か話していたよな。まさか俺の悪口じゃないだろうな。茂木は何か俺のこと言ってたか?」
船瀬は茂木が木村部長の犬であることを知っていた。
「それにしてもあいつは木村部長の犬になりすぎだ。木村部長の部下である前に、俺の部下だろ。お前もそう思うよな。」
「もちろんです。でも茂木は特に何も言ってなかったですよ。」
「そうか。ならいいんだ。」
近藤には、船瀬がどこか寂しそうな顔をしているように思えた。もしかすると、船瀬課長も人員削減の候補になるかもしれないと茂木が言っていたなんてことは口が裂けても言えなかった。
小皿に盛られた枝豆をつまみながら船瀬が続ける。
「それよりあいつ見てみろよ。今時アロハシャツなんてどうかしてるよな。」
船瀬は近藤の後ろ側の奥の席に座っている二人組をそれとなく顎で指さしながら少し馬鹿にした口調で近藤に言った。
「アロハシャツ?」
そういいながら近藤は船瀬が指す方向にそれとなく目を向ける。
「あっ。」
「なんだ。知り合いか?」
「僕あの人知ってます。多分最寄り駅が僕と同じで、たまにすれ違うんですよ。」
近藤は少し興奮した、ただアロハシャツの男に悟られないように小声で船瀬に話す。
「ほう。」
「でもあの人、いつもため息ついていて。多分仕事が大変なんじゃないですかね。この前なんて、僕の方を見ながらため息ついてきて、ちょっとイラっとしちゃいました。相当苦労してるんですかね。」
「今時、苦労してない奴なんていないんだろうな。あいつらも俺たちのように仕事頑張ってるんだよ。」
船瀬は、近藤に話しながら、一方で自分に言い聞かせるように話していた。
近藤は、テーブルに並べられた刺身の盛り合わせをつまみながら、船瀬の言葉に少し大げさに頷いていた。
「でももう一人の人は、なんか対照的ですね。真っ青のスーツで靴もきれいだし。どこかの偉い方ですかね。」
「いやいや、ああいう奴こそ、逆に苦労してるんだよ。いかにも金持ちみたいな恰好して。部長クラスなんだろうけど、あれは社長あたりにこき使われてるぞ絶対。」
「なるほど。勉強になります。」
最後の一切れを口に入れながら、近藤は相槌を打っていた。船瀬は酒のせいか、近藤がほめてくれるせいかはわからないが、少しだけ気分がよくなってきた。船瀬は続ける。
「俺の予想だが、アロハシャツの男は中小企業の浮かない社長で、もう一人の青スーツの男は、大企業の部長クラスってとこだな。」
「スーツ男が部長クラスなのは理解しましたが、何でアロハシャツの男が中小企業の社長だってわかるんですか?」
「あのな。」
船瀬はビールを大げさに流し込み、ほとんど呂律の回っていない中、名探偵のような口調で少し得意げに話す。
「社長ならともかく、社員があんな派手なシャツを着て出社するわけがないだろ。それに見てみろよ、あいつの身なりを。あれが大企業の社長だと思うか。髪もぼさぼさ、ひげも剃ってない。あれは倒産寸前の小さな会社の社長が、大企業の部長に愚痴っているんだよ。」
「なるほど。さすが課長。勉強になります。」
船瀬の機嫌は大変良くなり、近藤は少し肩をなでおろした。近藤にとっては、何とか船瀬に頑張ってもらわないと、自身の出世にもかかわってくる。
近藤はアロハシャツの男が少し気になったが、酔いつぶれた船瀬に肩を貸しながら、いつもの店を後にした。
ゆでダコのような表情をした船瀬が別れ際に近藤に呟く。
「そういえば、自衛隊ってそんなに給料いいのか?」
近藤は船瀬がいつもより小さく見えた。
―木村浩明―
「はぁ。」
「どうしたんですか部長。」
白い煙がもくもくと立ち込める喫煙所でいつものように木村と茂木が煙草をふかしていた。
「いやぁ、この前話しただろ。人員削減の件だよ。」
「あれ結局誰にするか決まったんですか?」
「そんなこと部下のお前に話せるかよ。」
ため息交じりに大きくタバコをふかしながら木村は続ける。
「いやぁ、どうしたものか。」
「何ですか。余計気になるじゃないですか。」
茂木は少し食い気味で部長を問い詰める。
「実はな、人員削減の候補に課長の船瀬さんが挙がっているんだよ。この前の船瀬さんの失態に松本市長もひどくお怒りでな。ほら、うちの市は結構大きいだろ。それに俺たち経済局は市の中心部隊でもあるから。そういうミスにはマスコミもひどく騒ぐんだよ。市長からしてみれば、ミスが原因でマスコミに注目されでもしたら溜まったものじゃないだろ。」
「それはなかなかやばい状況ですね。」
茂木はどこか勝ち誇ったように答えていた。
「それにここだけの話、いよいよ日本も戦争に巻き込まれることになりそうなんだよ。アメリカから自衛隊に支援調達部隊に加わるよう正式な要請が来たみたいなんだ。これはオフレコだがな。いやあ、これからまた忙しくなりそうだ。」
「まじですか。それも松本市長情報ですか。」
「あぁ。あの人は政治家と強いパイプがあるからな。そういう情報が内々に回ってくるそうだ。」
「何者なんですか、松本市長は。」
「いや、どの市も似たようなものだよ。特に大きな都市部ではな。俺も市長が何を考えているか未だによくわからん。あの人は市民やマスコミの前で話すときと、俺たちに話すときでは人が変わるからな。政治家なんて皆そういうものだよ。」
「そうなんですね。俺はまだ松本市長と直接話したことがないのでよくわからないです。なるほど。勉強になります。」
先の短い煙草をふかしながら、茂木は真剣に木村の話を聞いていた。
「ほら。以前俺がお前に話していた岩尾俊兵さんも前に似たようなことをネットで呟いてたんだよ。そのうち自衛隊がアメリカの支援調達部隊に加わるってな。今何してるんだろうな岩尾さん。あの人、実は学者として結構有名だったんだぜ。俺はあの人を応援していたんだけどな。」
「あぁ、あのアロハシャツの人ですよね。最近はてっきり呟かなくなりましたよね。」
「あの人が言ってたことが全てその通りになってるんだよ。皆早く気付くべきなんだろうけどな。ただ、ほらネットってこういうネタに対しては当たりが強いだろ、右翼だの陰謀論者だのと。せっかく岩尾さんが警告してくれてるのに、毎回こんなこと言われたら心が参ってしまうよな。」
「俺だったら、耐えられませんね。それにしてもなんでアロハシャツなんですかね。」
「さあ、昔はもっと清潔感のある感じだったんだけどな。どこかで糸が切れてしまったんだろ。この後日本はどうなってしまうんだろうか。岩尾さんに直接話を聞いてみたいよ。」
その時、喫煙所の外からこちらをのぞき込む大きな男を茂木は目にした。黒いスーツを身にまとい、だがどこか清潔感漂うその大男は、喫煙所の中にいる木村を見つけると図太く低い声でこちらに話しかけてきた。
「おい、木村。ちょっといいか。」
「市長!」
黒いスーツの大男は松本市長であった。
「どうしたんですか、こんなところで。」
そういいながら、木村は背中を丸め松本市長のところへ駆け足で去っていった。
これまで大きく見えていた木村の背中が急に小さな小動物のように茂木には映った。
木村は松本の犬である。
―山本康正―
「やばい、報告会に遅刻してしまう。」
少し肌寒くなってきた十月、山本は汗だくになりながら長い坂道を駆けていた。
「なんで今日に限って目覚ましが鳴らないんだよ。」
山本は携帯のアラームをいつも寝ぼけながら無意識に解除してしまう癖があるため、一年ほど前にあえて機械式の目覚まし時計を買っていた。最近はきちんとアラームをセットして寝るようにしていたのだが、今日も寝坊してしまったらしい。
「やっぱり昨日夜中までゲーム配信を見てしまったのが原因だな。もう少し早い時間に配信してほしいよ。これじゃあ毎日遅刻してしまう。」
山本は遅刻の常習犯であった。
スライド式のドアをそっと開け、隙間から教室を覗き込むと、同期の阿部京子が「癌患者のロボットリハビリテーション治療」と題したプレゼンを発表していた。
山本は誰にも気づかれないように背中を丸めながら、そっと教室の後ろから空いている席を目指して歩く。坂道ダッシュ後のロボット歩行は足にこたえる。途中、プレゼン中の阿部と目が合い、阿部に睨まれる。
「山本君、しっかり汗を拭いてから着席してくださいね。風邪でも引いたら大変です。」
渡部教授は、一番前の席で阿部のプレゼンを見ながら、仏のような優しい口調で山本に指摘する。
「後ろに目がついてるのか。」
顔を真っ赤にしながら心の中で山本はそうつぶやいた。
周りからクスクスと静かな笑い声が聞こえる中、山本は席に着いた。阿部も顔を真っ赤にしていた。
報告会が終わり、山本と阿部は二人で食堂に向かっていた。
「今日は報告会だよ。なんで遅刻するかな。夜更かししたらダメだよって言ったのに。」
「いやあ参った。全ては「公務員の犬」のせいだ。彼がいつも夜中に配信するのが悪い。」
「またゲーム配信見てたの?ほんと好きだね公務員の犬。」
「彼はランキング一位のゲーマーだぜ?今の若い奴らはみんな好きだ。お前も見た方がいいぞ。彼は神だぜ。」
「誰が神なのですか?」
突然の声に驚いた二人が後ろを振り向くと、渡部教授がそこに立っていた。
長身で青のスーツをきれいに着こなす教授は、いつも急に現れる。
「教授!脅かさないでくださいよ。心臓が止まるかと思いました。」
山本は先ほどようやく収まったはずの額の汗をふたたび手で拭いながら教授の話に答える。
「いや俺はまだまだ研究者として半人前だなって話をしてたんです。それより今日は遅刻してしまって本当にすみませんでした。」
安部と二人で頭を下げていると、教授が微笑みながら、
「次回は山本君の発表ですね。期待していますよ。」
と言い、去っていった。
教授の大きな後ろ姿を目で追いながら阿部が山本に話す。
「ほんと渡部教授の研究室でよかったね。他の先生なら、あんたとっくに研究チームから降ろされてたよ。」
「いやマジで渡部教授は仏様だと思ってるよ。こんな俺にもいつも優しくしてくれて。」
「次の報告会でちゃんといいとこ見せなさいよ。研究は順調なの?」
安部は少し心配そうに山本に尋ねる。
「それは大丈夫だ。実は昨日いい結果が出たんだよ。あとは資料にまとめるだけだ。」
山本は研究と趣味の両立がうまい。医学部なだけあって、オンオフの切り替えが特にうまく、教授もそれが分かっていた。
「そういえば、次の休みはどこ行こうか?」
「私本屋さんに行きたい。大きなとこ。あとさ、駅前にできた映画館も行ってみようよ。」
「今なんか面白い映画やってたっけ?」
「タイムトラベル。あれ見てみたい。」
「あぁ。恋人が死んでしまう未来を変えるために、男がタイムスリップして、いろいろな過去を体験するって話か。いいね。」
「じゃあ決定ね。次の休みは確か金曜日だし、駅前もそこまで混んでなさそうだね。」
「了解。」
―阿部京子―
今日は久々に研究室が休みということもあり、阿部は恋人の山本と駅前の映画館で映画を見ていた。上映後、今は近くの居酒屋に二人で来ている。
「いやぁ、なかなか面白かった。特に、何度目かの過去に戦争が起こっていたのは衝撃だった。あんな偶然の重なりで世界大戦まで発展するものなのか。まぁ所詮映画の話だけど。」
二人が見た映画のタイトルは、「タイムトラベル」。恋人を事故で亡くした主人公で研究者のハンセンがタイムマシンを開発し、過去に行って恋人を助けるという物語なのだが、結局恋人は様々な理由で何度過去へ行っても亡くなってしまう。ハンセンは何度もタイムスリップするのだが、過去の環境が毎度毎度異なる。ある過去では、ハンセンがノーベル賞を受賞していたり、ある過去では世界大戦が勃発していたりと、ハンセンの過去の何かしらの行動が引き金となり、未来が変わるという話だ。結局は、正しい行動を繰り返し選択することで、無事に恋人と結ばれるというハッピーエンドを迎える映画であった。
「でも私たちの住む世界でも、皆何かしらの選択を繰り返してるのよね。なんか考えさせられる映画だったわ。」
ガヤガヤと皆が騒いでいる中、阿部と山本だけの妄想の世界が膨らむ。
「未来を見通せる力が欲しいよな。あの行動をすれば、未来がどうなるのか、今の中国とアメリカの戦争ももしかしたら防げたのかも。俺も自分の将来が予測できたらいいのに。」
「そんなことができる人がいたら、それはそれでつまらないと思うけど。そんなの神か何かよ。」
阿部が妄想の世界から山本を現実世界へ引き戻すと、突然二人の背後から誰かが話しかけてきた。
「誰が神なのですか?」
突然の声に驚いた二人が後ろを振り返ると、
青のスーツをきれいに着こなす長身の男がこちらに笑顔を向けていた。
「渡部教授!。」
そこには、渡部教授が立っていた。今店に来たところのようで、隣に教授とは様子が異なる男がいた。アロハシャツのその男は、偉そうに構えながら、かといってこちらに興味のある様子ではなく、私たちを見て少し呆れているように見えた。
「お世話になっております。私たちは教授の下で研究をしている学生です。」
阿部はアロハシャツの男に対して、深々とお辞儀をしながら挨拶をした。山本はまだ、教授がそこにいることが信じられないようであった。
「あぁ。」
アロハシャツのその男は、ぶっきらぼうな生返事をし、そのまま奥の席に進んでいってしまった。
「では、二人ともまた研究室で会いましょう。」
そういって渡部教授もアロハシャツの男に付いて行ってしまった。
「ほんと何者なんだ教授は。まじで神かなんかじゃないのか。」
「そんなバカなことあるわけないでしょ。でも一緒にいたアロハシャツの人は何者なんだろうね。教授とは雰囲気がだいぶ違ってみえるけど。」
「でもあの教授と飲む仲だなんて、よっぽどの人じゃないのか。ちょっと調べてみるか。たぶん教授と同じ研究者か何かだろ。」
山本は、とりあえず研究者とアロハシャツというキーワードで検索してみる。
「そんな単純なキーワードだけで誰かわかるわけないじゃないの。」
「そんなことやってみなきゃわからないだろ。」
そういいながら調べていると、急に山本が驚いたように、アロハシャツのその男に視線を向ける。
「え。まさか誰かわかったの。」
「俺天才かも。二つのキーワードであの人が誰だかわかっちゃったよ。岩尾俊兵って経済学者らしい。」
「やっぱり研究者だったのね。で、どんな人なの。」
「んー。なんかいつもアロハシャツを着てるみたいで、陰謀論者らしいぞ。この人のブログ、炎上しまくってるよ。」
「え。渡部教授大丈夫かな。でも絡まれてるようには見えなかったけど。」
「なんか戦争についていつも呟いてるみたいだな。あ、でもここ数か月は更新が止まってる。結構有名な研究者みたいだ。」
「経済学者と医者。どういう接点だ?この居酒屋にもよく来ているのかな。」
「どうだろうね。渡部教授がこんな居酒屋に来てたのにも驚いたけど、まさかあんな感じの人と知り合いだなんて。」
「あのアロハシャツの人もどこかで選択を間違えたんだよ。もともと教授と知り合いで飲む仲だったけど、炎上がきっかけでああなったのかも。教授も前からの知り合いだからしぶしぶ付き合ってるのかもな。」
「それなら納得できるね。今日は金曜日だから仕事終わりってところかな。」
山本と阿部、渡部と岩尾がいるこの居酒屋は確かにサラリーマンで賑わっていた。いたるところで、酒に溺れたスーツの男たちが愚痴を肴にビールを流し込んでいる。ある席では、上司が部下に愚痴っているようで、部下は大げさに聞いているふりをしているようであった。
「でもこのブログ見てると、なんとなくあのアロハシャツの人がふさぎ込んじゃうのもわかるよ。確かに、今の世の中は変だよな。世界がこんなにもおかしくなっているのに、サラリーマンたちは相変わらずここで上司の愚痴に付き合わされてるんだぜ。仕事が大変なのもわかるけどさ。」
「私たちだって、映画見てここで飲んでるけどね。」
「いやそうだとしても、俺たちは未来のための研究をしてるじゃないか。ここにいる大人たちは、自分の出世のためか何かだろう。」
「アロハシャツの人には、私たちも含めて、馬鹿な選択をしている愚かな人間に見えてるのかもね。」
「なるほど。そうなのかもな。」
そう言いながら山本は、しばらくブログを眺めた後、急に思い立ったように阿部に話しかける。
「俺決めたよ。俺はああいう大人にはならない。ハンセンみたいに過去に戻ることはできないけど、少しでも正しいと思える選択を自分で決めれる人間になる。で、京子を支えていくよ。」
「何それ。馬鹿なの?」
京子はそう言いながら、ビールを流し込む。
「本気だって。やっぱりこういう時代だからこそ、俺たち若者が正しい選択をしていかないと。今の大人たちは見てて苦しいよ。結局問題から逃げてるだけじゃないか。」
「それもそうね。で何から始めるの?」
「そうだな。やっぱり俺はあのアロハシャツの人が気になるから、まずはブログをしっかり見てみるよ。」
「いいと思う。教授との関係も何かわかるかもね。で、さっきの私を支えていくって話の続きが聞きたいんだけど。」
二人とも顔を赤くしながら、ビールを流し込んでいた。
―とある未来―
二千三十五年。中国とアメリカの戦争が終結した。両国とも死者が出ないという極めて異例な戦争終結となったこの米中戦争は、同年五月に平和条約が締結される結果となった。今回の米中戦争は、二千三十一年の夏に中国がアメリカに宣戦布告したことから始まり、翌月にアメリカも中国に宣戦布告。お互いに、互いの軍事施設をドローンを使用して攻撃し合っていたが、二千三十三年に日本が仲介国となったところから、以降互いの攻撃は収まっていく。日本が仲介国となってから二年後の二千三十五年、五年に及ぶ米中戦争は終結した。
今後中国とアメリカは経済的に協力し合い、中国からは人員と資源、アメリカからはインフラ支援と技術提供を行うとの平和条約の内容であり、両国ともこれ以上の領土拡大、互いの内政への干渉は行わないという結果となった。
また、世界の経済格差についても根本的に見直され、これまでのドル経済におけるアメリカ中心の経済から、世界全体がバランスを保った地球中心世界機構が設立され、各国が裏で覇権を争うこれまでの組織ではなく、それぞれの歴史や文化を尊重し合う組織となっていく。
この極めて異例な戦争終結の立役国となったのは、地理的に戦場となるはずであった日本であり、日本の若者たちであった。特に、ただの医学部学生であった山本康正の働きは、後に世界に語り継がれるものとなる。
話は、山本と岩尾が出会う二千三十年の冬に遡る。この日、未来のために立ち上がることを決めた山本は、まず岩尾のブログを片っ端から読み込んだ。経済状況と戦争の関係、これから起こりうる未来予測など、岩尾のブログには事細かに、かつ論理的客観的に現在の世界状況が述べられており、ポイントをつかむのが上手な山本は、そこからさまざまな文献や関連図書を読み込んでいった。民主主義とは、戦争の歴史、地理と経済、メディアと洗脳、哲学など。特に近現代史におけるマクロな視点からの世界情勢の移り変わりについて勉強するうちに、山本自身も岩尾の文章がどういう意味を持った言葉だったのかを理解していく。
次に山本のとった行動は、ナンバーワンゲーマーの「公務員の犬」を巻き込むことであった。岩尾のような学者が直接的にネットユーザーに危険を知らせても陰謀論者といわれることが分かっていたため、若者に絶大の人気を誇る動画配信者の「公務員の犬」を巻き込むことにしたのだ。
山本康正を中心とした、岩尾俊兵と近藤実(公務員の犬)、の初顔合わせは例の居酒屋で行われることになる。二千三十一年の夏のことであった。
公務員の犬の配信動画を通じた、未来への警告に、ネットユーザ―達は初めは混乱していたものの、視聴者の多くが学生や若者であったためか、次第に若者の考えが改まっていく。
この動きは、数か月後に近藤実の上司である木村浩明部長に届き、木村は松本市長への必死の説得に成功し、市を上げた運動へと発展していく。実は渡部昭一教授と松本市長が知り合いということもあり、渡部教授からも後押しされたらしい。
若者たちを中心とした戦争反対運動は、やがて一般市民にも広がり、メディアも無視できないほどの運動へと拡大していく。アメリカと中国の両国から圧力をかけられていた政治家たちも、日本の若者たちがここまでの大きな運動を起こすとは当初は考えておらず、対応に困っていたが、日に日に大きくなる運動に、日本としての立ち位置を改めることに方向を転換する決断をとる。
アメリカと中国の勝敗は、実際はどちらが日本を味方につけるかということに大きく影響されるため、日本内部で多くのスパイ活動が行われていたのだが、最終的には日本人は「自分たちの国は自分たちで守る」という選択をした。
ただの学生であった山本の選択が、周りを巻き込き次第に他の日本人の選択を変えていく。一人の選択が、世界の選択を変えることにつながるということがあることを、日本人が証明することができた。