1話
息を呑むほどに美しい、純白のドレスを纏った花嫁が足を滑らせるようにして花婿のもとへと歩んでいく。その姿は蝶が舞うように軽やかであり、それでいてどこか神秘的な美しさがあった。式に参列した両国の重鎮たちは、ベールに隠されたその顔を一目でも見ようと目を凝らした。
しきたりに則って、ベールを上げることはせず、顔を隠したまま指輪と誓いの言葉を交わす。
国で最も高貴な血筋の者の結婚ともあり、その規模は一般的な貴族とも比べものにならない程であったが、肝心の式は約やかなものだった。
主役である2人が退場したあと、会場には隠しきれない熱気が漂っており、皆一様に余韻に酔いしれていた。
―――一方その頃、当の花嫁はというと。
「終わった……!」
通された部屋で、式で魅せた圧倒的な神聖さは微塵もない普段通りのシャルロッテが寛いでいた。
着飾ることの好きな姉ですら着ているところをも見たことのないような豪奢なウエディングドレスは既に脱ぎ捨て、今は簡素なドレスを身に纏っている。
「ようやく自由だわ……!やっとのんびり出来る!」
城に着いた瞬間息をつく間も与えられずに結婚式の準備が始まり、引き籠もってばかりだったシャルロッテにとっては大変なことばかりだったのだ。だが、それも漸く終わったのだ。
―――と思ったのも束の間。
「残念ながら、皇太子妃様にはまだ成すべきことが残っております」
慇懃な口調で言うのは、シャルロッテ付きになったという侍女・ハンナだ。嫁ぐ前に仕えていた侍女たちは、詳しい事情を知らないが王国に留まっていて、シャルロッテは一人きりでやってきたと言っても過言ではない。
「今から?」
「ええ。これから、――初夜の準備をして頂きます」
◇◆◇
そうして全身くまなく磨かれたシャルロッテは、先ほどまで着ていたウエディングドレスを思うと布切れのように薄っぺらい夜着に身を包んでいた。
「緊張するのだけれど!?」
シャルロッテとて、子を成すことが自身の役割だということくらいは知っているので、これから何をするのかは知っているつもりだ。
(でも、だとしても)
いざとなると不安や緊張で焦ってしまう。
座って待つつもりだったが、落ち着かないシャルロッテは2人用にしても広いベッドに身を沈める。
「どうしよう!君を愛することはないなど言われてしまったら……!」
言いながら、自分で想像してしまい、声も上げずに一人で悶える。
「うぅ……お腹いたい……」
呻きながら身を起こすと、シャルロッテの周りだけシーツに皺が寄っていることに気づき、慌ててベッドから下りる。
不安でふらつきそうになる足でソファにたどり着くと、シャルロッテは力が入らなくなったかのように、倒れ込むようにして座る。
「不安だわ……」
思い悩むことに疲れ、虚ろな目でそう呟いていると。
「――随分心配性なようだな」
「…………!?」
自分のものではない玲瓏とした声が聞こえ、シャルロッテはビクッと体を硬直させる。
そして、そのまま何とか首だけを横に向けると、そこには扉に背を預けて立つユリウスの姿があった。
「……!殿下!?」
驚きのあまり、シャルロッテはソファから立ち上がる。そんなシャルロッテを一瞥して、
「殿下などと呼ばなくてもよい」
ポツリと零す。無視する事もできたが、動揺していたシャルロッテは咄嗟に名を呼ぶ。
「ユ、ユリウス様……?」
ユリウスのペースに呑まれてあたふたしているシャルロッテに、ユリウスは頷く。
「ああ。それで、初夜のことだが――」
言いながら、ユリウスは真っ直ぐにベッドへと向かう。
シャルロッテは秘かに手を握り込むが、ユリウスは気づいた様子もなく、そのまま続けた。
「今夜は行わないつもりだ。……良いな?」
同意を求められ、シャルロッテは息を詰める。
「……、……やっぱり、嫌なのですね」
つい口から思わず零れてしまい、シャルロッテは咄嗟に口元を手で押さえる。
すると、ユリウスは足を止めて、シャルロッテの方を振り向く。そして、何を言うのかと思えば、食い気味に否定される。
「違う。君の体に負担をかけたくないからだ」
「……負担?わたくし、これでも17歳なのですが」
年齢を聞かされていないのか、と思ったがどうやらそういった意味ではないらしい。
「知っている。が、17だとしても、その小さな体ではな。……――まあいい、さっさと寝るぞ」
「へっ?」
ユリウスは呆然としているシャルロッテをよそにベッドに入り、今すぐにでも寝ようとしているようだ。
(本当に何もしないの……?)
立ち上がったまま動こうとしないシャルロッテに、ユリウスは上体を起こしたまま真面目な顔で首をかしげる。
「寝ないのか?」
「ね、寝ますけど……」
ユリウスのあっさりとした態度に拍子抜けしたシャルロッテは、先程までとは一転して特に意識することもなくベッドに潜り込む。
(何だか、予想外の展開なのだけど)
少し不服そうな表情をしていると、それに気づいたのか、身を横たえたユリウスはシャルロッテの頭へと腕を伸ばす。
「ん……」
何故か優しく頭を撫でられ、シャルロッテは目を細める。そっと右隣を窺うと、優しい色を宿した瞳と目が合い、誤魔化すようにやや早口で尋ねる。
「な、何でしょうか」
「ただの労いだ。気にするな」
そう言われてしまったたので、シャルロッテはその後暫く、何も言わずにユリウスの手を受け入れ続けた。
そうしている内に、抗いきれない眠気が襲いかかり、シャルロッテは知らぬ間に眠りについていた。
「ふぁ……」
シャルロッテがあくびを噛み殺しながら目を覚ますと、少し離れた位置で眠るユリウスの姿が目に映った。少し離れた、と言っても昨夜から変わらず、腕を伸ばせば届くくらいの距離だ。
(そう言えば、あのまま眠ってしまったのね)
頭を撫でられる、その心地よさを思い出し、シャルロッテはつい腕を伸ばす。そしてそのまま気づかれることなくユリウスの髪に触れると、そっと撫でてみる。繊細な蜂蜜色の髪がシャルロッテの指の間でさらさらと揺れる。
不意に髪と同じく蜂蜜のような色の睫毛が微かに震え、青みがかった紫色の瞳が覗く。
「ん……?」
「あっ、こ、これは、そのっ……」
突然目覚めたユリウスに狼狽えたシャルロッテは、慌てて腕を引っ込める。が、透かさずユリウスはシャルロッテの腕を掴み、目を細めて問う。
「これは、何だ?」
「え、っと……」
目を泳がせるシャルロッテに、ふっ、と軽く笑うと、ユリウスは再び目を瞑る。そして、シャルロッテの腕を離したかと思うと、抱き寄せる。
「もう少し寝る」
「………え?」
抱き枕とでも思われているのだろうか。
ユリウスの腕に囚われたシャルロッテは目を瞬かせる。
だが、真意を尋ねる前にもう頭上で寝息が聞こえ始め、シャルロッテは答え合わせは無理そうだと思い直す。
(想像とは違うけれど、意外と愛されてる、のかも……?)
そうして、シャルロッテの政略結婚生活が始まった。