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夫には裏切られても、筋肉は絶対に私を裏切らない  作者: 青樹空良


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第十五話 筋肉は裏切らない

 私は目を開けた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 大会の次の日の朝、私はまだ生きていた。

 前の人生での私は、今日すでに死んでいた。今回はどうやら死なずにすんだらしい。だって、こうしてちゃんと目が覚めた。

 私は布団の中で身体を伸ばして深呼吸してみる。

 空気が肺に入ってくる。

 胸に手を当ててみる。

 心臓は、動いている。

 宙にも浮いていない。

 背中はしっかりと、ベッドについている。

 生きている、という実感がある。

 よかった、とただそれだけを思った。

 生きていて、よかった。

 前のように死んでしまわなかったのは、体を鍛えたせいだろうか。きっと、そうだと思う。

 昨日の夜、貴志は帰ってこなかった。桃香のところにでも行っているに違いない。それとも、どこかのビジネスホテルにでも泊まっているのだろうか。どっちでもいい。もう私には関係の無いことだ。

 どちらにしても、あそこまで私に言われて、弱いと思っていた私にはじき飛ばされて、平然と帰ってくることが出来る男だとも思わない。

 もし帰ってきたら、ドアにチェーンでも掛けて入れないつもりだった。あんな男と、これ以上一緒にいたいわけがない。これまで我慢して一緒に暮らしていた自分を褒めてあげたいくらいだ。

 その我慢も昨日で終わった。

 ただ、これからも生きていくということは、また離婚に向けて動かないといけないとか面倒なことがたくさんあるな、とも思った。死ぬかも知れないからといって諦めないで探偵に浮気調査を依頼していてよかった。

 わかっているのにそのままにしておくのも悔しいと、行動を起こしたのが当たりだった。

 それに、と私は思う。

 面倒なこと込みでも生きている方がいいに決まっている。それだけは確かだ。


「だけど、あの男、私の保険金も当てにしてたんだっけ」


 一度死んだときのことを思い出して、本当に酷い男だと笑えてくる。そのお金で桃香と幸せになろうとしていたなんて酷いにも程がある。

 私があの会話を聞いていたことを貴志は知らない。だから、昨日も説得できるなんて思ってしまったのだろう。

 そんなことできるわけがないのに。

 ちなみに私が死んだときの保険金は、念のために受取人を親にしておいた。貴志に保険金が下りるなんて死んでも嫌だ。本当に死ぬ可能性があったからシャレになってないんだけど。

 保険金どころか、今度の貴志は慰謝料を払う方だ。

 そこは逃がさない。

 せめてそれくらいの償いはしてもらわなくては困る。

 というか、もうそれくらいしか私は貴志に期待をしていない。


「あー」


 私は起き上がって伸びをする。

 考えると面倒なことも沢山あるが、体を動かすとやっぱり気持ちがいい。


「よし! 今日も頑張ろう」


 私はベッドから立ち上がる。

 カーテンを開ける。朝の光がすがすがしい。

 朝が来たことが、こんなにも嬉しい。

 だけど、この部屋。嫌な思い出がありすぎる。

 それならいっそのこと、出来るだけ早く引っ越してしまおう。

 貴志の気配がするこの部屋なんかに住んでいたくない。

 貴志のことをただ待っていた自分を、もう思い出さなくてもいい。

 新しいところで、また始めたい。

 生きているなら、これからまた何でも出来る。

 今日も生きている私には未来がある。

 身体が軽いって、いいことだ。

 私のことを身体の弱い奥さんだと笑っていた貴志の浮気相手の桃香は、今の私の姿を見たらどう思うのだろう。

 私が死んだことを笑っていたあの女。

 だけど、正直、もうあの二人のことはどうでもいい。

 私は私で、新しい日々を始めていこう。

 せっかく一度死んで、生まれ変わったようなものなのだから。




 ◇ ◇ ◇




「小澤さん、おはようございます!」


 スポーツクラブに出勤すると、岸本コーチがいつものように朗らかに挨拶しながら近付いてきた。


「岸本コーチ、おはようございます。昨日はお疲れ様でした」

「小澤さんこそ! また、一緒に大会目指しましょうね!」

「はい、ぜひ!」


 私は笑って答える。


「大会、すごく楽しかったです。私に向かって声援を送ってくれる人もいて。もう、びっくりしちゃって」

「うんうん。めちゃくちゃ嬉しいですよねっ。もう、私を見て!って感じで」

「すっっっっっごく、わかります!」


 そう。

 鍛えに鍛えた身体を誰かに褒めてもらえることは本当に嬉しい。

 知らない誰かが、私を見て喜んでくれることが嬉しい。


「なんだか、癖になっちゃいそうです」

「私なんか、もうすでになってますよ。じゃなきゃ続かないというか」


 岸本コーチが笑う。


「これはボディビルやってる人だけの快感ですよね。最高じゃないですか」


 岸本コーチがうっとりとした顔になる。

 一度やってみたから、私にもよくわかる。やらなければ、わからなかった。

 なんというか、ものすごく自信が付くというか。

 そんな感じだ。


「小澤さんにも、きっとファンが付くと思いますよ。なんなら、昨日もう付いちゃってるかもしれないです。堂々としてて、とても素敵だったので」

「え、そんな! 私、そんなでした?」


 私が堂々としていた?

 自分では夢中すぎてわからなかった。でも、そう見えていたなら嬉しい。


「すごくよかったです!」

「そう言ってもらえると嬉しいです」


 えへへ、と私は笑う。


「でも、私にファンが付くなんてそんな。まだ始めたばかりだし……」


 それはさすがに言いすぎなんじゃないかと思ったのだけれど、


「そんなことないですって。小澤さんが私を見てボディビルに興味を持ってくれたみたいに、小澤さんを見て誰かが興味を持ってくれることもあるかもしれないですよ」

「……そんな、ことが?」


 考えたこともなかった。

 でも、もしあったら……。

 とても嬉しいかもしれない。

 絶望の中にいて、死んでしまいそうで、そんな人が私を見て幸せになってくれたら、それはとっても、とっても素敵なことだ。

 筋肉にはそういう力がある。

 魔法みたいな。

 私がそうだったんだから。


「あ、そういえば」


 思い出したように、岸本コーチが言った。


「さっき、オーナーが小澤さんのこと探してましたよ」

「え、私なにかやらかしました?」


 せっかく幸せな気分にに浸っていたのに、突然クビになったりとか……。そんなことになったら大変だ。

 私が顔を青くしていると、


「え、違いますよ。どう考えたらそんなことになるんです? いいお知らせに決まってるじゃないですか!」


 岸本コーチが笑いながら首を横に振った。


「昨日の大会、オーナーも見に来られていたみたいで」


 岸本コーチが話すその続きを聞いて、私は驚いた。


「わ、私がトレーナーとして正社員に!?」

「別に全然おかしくないことだと思いますよ、私は」

「そう、でしょうか?」

「ええ。小澤さん、ここに来てからもうめちゃくちゃ頑張ってましたよね? そんな小澤さんを見ていたら、私も、もっともっと頑張ろうって思えてきちゃって。だから小澤さんが一緒に働いてくれたら、いいなって思いますよ」


 岸本コーチが微笑む。そして、私の手を取って続けた。


「最初は、私のファンなんだなって嬉しくなって……。今は、一緒に頑張れる仲間が出来てすごく、すごく嬉しいんです。私ね、小澤さんに出会えてよかったです!」


 そんなの私も同じに決まっている。それに、岸本コーチが私のことを見てもっと頑張ろうと思ってくれるなんて。

 私は岸本コーチの手をぎゅっと握り返す。


「岸本コーチ……。私も、です。岸本コーチをあの日、テレビで見なかったら、私、どうなってたか。岸本コーチは私を救ってくれた人です」

「え? え!?」


 突然重いことを言ってしまって、岸本コーチを混乱させてしまったようだ。だけど、本当のことだ。一年前と同じままだったら、私はもう一度死んでいた。命を救ってくれた人。だけど、そんなこと言っても更に混乱させてしまうだけだ。

 それは私の心の中にだけ留めておこう。

 それでも、少しだけでも伝えたかった。

 言わずにはいられなかった。

 だって、命を救われたのは本当だから。


「すみません。わけわからなくて。でも、本当なんです。私も、岸本コーチに出会えてよかった。それと……」

「もちろん、筋肉に出会えてよかった、ですよね!」

「……はい!」


 私たちは顔を見合わせて笑う。

 言いたいことを先に言われてしまった。

 前の人生なら考えられなかった出会いだ。

 そして、そのおかげで私は今、こうして生きている。

 正直、少しくらいの慰謝料はあってもバイトのままでは無事に離婚出来ても、その先がどうなるのか不安でもあった。そもそも、あの男が大人しく慰謝料を払うかどうかもわからない。

 それでも正社員になれれば、少しはお金にも見通しが立つ。

 それになにより、この大好きな場所で正社員として、しかもトレーナーとして働けるなんて夢みたいだ。

 もちろん、ただの幸運なんかじゃない。

 これは、私の努力の結果だ。

 私が一年間頑張ってきた先に、この結果があった。

 今のには、そう思える。

 そしてやっぱり、この一言に尽きる。


「やっぱり、筋肉は裏切りませんね!」


 私が言うと、岸本コーチは拳を軽く握って私に向けてきた。

 私も同じようにすると、


「もちろんです!」


 岸本コーチが私と拳をこつんと合わせて、輝くような笑顔で答えてくれた。

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