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夫には裏切られても、筋肉は絶対に私を裏切らない  作者: 青樹空良


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第十四話 私のステージ

「これ、一緒に行かない?」

「え?」


 今日も連絡無しで遅く帰ってきた貴志にチラシを突きつける。


「はい」

「なんだよ、これ?」


 私の勢いに負けてか、貴志が思わずという感じでチラシを受け取る。

 もちろんそのチラシは、ボディビルの大会のものだ。


「え、だから、俺こういうの苦手だって言ってるだろ?」

「もう、チケット取ってあるから」

「はぁ?」

「もったいないから一緒に行こうよ。あのね、前にも言ってたと思うけど知り合いが出るの」

「嫌だよ」


 貴志が本気で嫌そうな顔をしている。予想通りではある。

 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

 そんなときは、


「最近、帰ってくるのも遅いことが多いし、休日も出勤が多いでしょ? たまには一緒にいたいんだけど、ダメかな。それに、前に一人で行ったらちょっと怖かったの。貴志と一緒なら安心かなって」


 押してダメなら引いてみる。私は上目遣いに貴志を見て、さみしそうに言ってみた。本当は貴志に対してそんな態度を取るのはめちゃくちゃ嫌だ。それに、あの場所が怖いわけがない。むしろ大好きだ。本当は嘘でもそんなことは言いたくなかった。だけど、今は仕方ない。


「な、なんだよ……」


 急に貴志の態度が弱くなる。

 最近すっかり忘れていた。というか、あまり気にしたことが無かった。

 思い返してみれば、貴志はこういう態度に弱いのかもしれない。前の私は元々弱々しかったから、貴志の好みだった、ということか。あいにく、今の私はもうあの頃の私とは違う。

 貴志の今の本当の私を見たら、ドン引きするに違いない。そんなこと知ったことでは無いが。

 今更、貴志が気に入る態度を取って好かれようとは全く思わない。

 ただ、利用はさせてもらう。


「美歩がどうしてもって言うなら、うーん。その日も休日出勤の予定だったけど、平日頑張ってみるよ」

「本当!? 嬉しい!」


 私は大げさに喜んでみせた。

 もちろん、本当は休日出勤ではなく、不倫相手の桃香とのデートだということはわかっている。調べはとっくについている。

 仕事なのだからと前は遠慮して、どこかに行きたいなんて言ったことがなかった。今になって言えるようになるなんて思わなかった。

 貴志の方も、たまには私のお願いも聞いておかないと疑われるとか考えているのかもしれない。

 が、そんな貴志の都合なんてどうでもいい。とにかく、一緒に行くという約束を取り付けることが出来てよかった。来てもらわなければ始まらない。




 ◇ ◇ ◇




 以前、岸本コーチがステージに上がっているとき、私は遠いところにいる人を見ている気持ちだった。

 誇らしげにポーズを取りながら声援を受けているその姿。ライトに照らされて輝いているその筋肉。きらきらと輝く笑顔。

 楽しげに流れる音楽。盛り上がる会場。

 そんな中で何者にも裏切られない、そんな自信に満ちた姿。

 テレビで見ていた時なんて、遠く遠く届かない場所だと思っていた。

 だけど、今。


「美しいよー!」

「ナイスマッスル!」


 声援の飛び交う中、私はここにいる。

 岸本コーチと同じ場所にいる。

 嘘みたいだ。

 ヒールを履いてポーズを取る練習を何度もした。

 体もがんばって作った。

 一年でこんなところまで来れるとは思わなかった。

 今日は、私が死んでしまう日だ。それが大会の当日に重なった。嘘みたいな本当の話だ。

 あの日は、貴志に置いて行かれて一人で熱にうなされていた。そして、さみしく死んでしまった。

 それなのに同じ、いや、全く違う一年を過ごした私は、ステージで歓声を浴びている。

 今、私は幸せだ。

 私は取ってあった席の方を見る。もったいないけれど怪しまれないように私の分も合わせて二席取った。

 いた。貴志だ。

 来る前に嘘を吐いて、出場する知り合いに先に会いたいからと席で待ち合わせすることにした。前の大会のときにも知り合いが出ると言ってあったからか、すぐに信じてくれたのがありがたかった。

 貴志は、馬鹿みたいに口を開けて私のことを見ている。それを私はステージの上から見下ろしている。

 気持ち悪いとか言っていたのに、貴志は私のことを目を離さずに見ている。

 今でも気持ち悪いと思ってる?

 でも、そんなの関係ない。

 私は、私のことを美しいと思っている。努力して鍛え上げた筋肉。それをまとった私は美しい。

 もちろん、結婚指輪なんか今日は外している。

 今の私にはもう不要な物だ。


「28番、キレイだよー!」


 歓声が飛ぶ。

 28番。それは私の付けている番号だ。

 知らない選手が出ていて名前がわからなくても声を掛けたい場合、番号を呼ぶ。

 私の知らない誰かが、私の筋肉を見てキレイだと言ってくれた。

 それが、とても嬉しい。




 ◇ ◇ ◇




 決勝に残れなかったのは気にしていない。ここまでこられただけで、本当に嬉しい。

 もちろん負け惜しみなんかじゃない。決勝まで行けなかったといって、やめるつもりもない。いつかはそこまで行ってみたいとすら思う。

 今はここまで来ただけで嬉しいというだけだ。

 今の私なら、何でも出来る気がする。

 出番が終わった私は、客席へと向かっていた。まだ岸本コーチは残っているのでそれを見たいのもある。だけど、もっと大事なことがある。

 この勢いで言ってしまうつもりだ。

 もしも、私が今日の夜死んでしまうとしてもやっぱり伝えておきたかった。

 客席に向かうと、まだそこには貴志がいた。

 私と目が合うと、さっと立ち上がって行ってしまう。


「ちょっと、待って!」


 まだ決勝も見ていたいのに。

 それでも、私は貴志を追いかけた。

 そして、会場のロビーに逃げ出した貴志の腕を掴んだ。


「観客として来たんじゃないのかよ。お前が出るなんて、き、聞いてないんだけど! つか、なに? あの筋肉。お前、体弱いんじゃなかったのかよ。気持ち悪いんだよ!」

「ああ、そう」


 私はそれだけ答えた。

 一応、あれが私だとはわかったらしい。

 もしかして、鍛えすぎて別人だと思われたらどうしようかと思っていた。それはさすがに心配しすぎだったみたいだ。

 が、気持ち悪いという言葉は聞き捨てならない。

 今、この場所でそんなことを言える神経が全く理解できない。


「ここでそんなこと言ったら他の人にどう思われると思う?」

「……っ!」


 みんなまだ大会を見ているためロビーにほとんど人はいない。それでも、貴志には効いたようだ。さすがに完全にアウェーだということを悟ったようだ。

 きょろきょろと周りを見て怯えた様子だ。

 まさか、ボディビルダーの集団に囲まれて酷いことをされるとでも思っているのだろうか。

 私が会ったスポーツをする人たちの中でそんなことをするような人はいない。今日の参加者の人たちだって全員を知っているわけではないけれど、みんなスポーツマンシップに溢れている。貴志が怖がるようなことなんか起こるはずが無い。

 私はそう思っている。

 筋肉を信じているから。

 だけど、そんなことを貴志に言って安心させてあげるほど、今の私は慈愛に溢れてはいない。

 わざと貴志を怖がらせるような言い方をしたのも私だ。

 だけど、それは単純に私自身が貴志の言葉を許せなかったからだ。

 貴志の発言は、私だけではなくここにいる全ての人を馬鹿にしているように聞こえる。


「つーか、離せよ」


 貴志が私の手を振りほどこうとする。


「離したら逃げるでしょ?」


 そもそも、貴志は私の手を振りほどけない。その自信が私にはある。それだけ、この一年鍛えてきた。

 貴志はそんな私の変化にすら気付かなかった。


「貴志に話があるの。だから、聞いてくれるまで離さない」

「な、なんだよ」

「私と離婚して欲しい」

「は?」


 貴志の顔が引きつる。


「い、いきなりなんなんだよ」


 突然言われて動揺している。こんなところでそんなことを言われるとは思っていなかったみたいだ。


「訳がわからないんだけど。まさか、本当に筋肉男と浮気でもしてるのか? 気持ち悪すぎだろ、それ」


 もはや、ため息すら出ない。

 私はきっぱりと言った。


「浮気してるのは貴志の方だよね」

「ああ? な、なに言ってるんだ?」


 混乱しているのか反応が幼稚だ。

 貴志の目が、目に見えて泳ぐ。


「お、俺がそんなことしてるわけ無いじゃないか。ここ最近、仕事も忙しかったの知ってるだろ? そんな暇、無かったって」

「へぇ」

「美歩のために仕事がんばってたんだよ。それなのにひどくないか? 大事なプロジェクトがあるって言ってただろ。本当に忙しかったんだよ」

「プロジェクトね。私、ちゃんと知ってるよ。探偵も雇って調べてもらったから。残業とか、嘘だよね。土日に泊まりで出張だって言ってたときも、本当は浮気相手とお泊まりしてたんだもんね。私とは泊まったことないようないい旅館に泊まってたみたいだね。楽しかった?」


 私がすらすらと言うと、貴志は鯉みたいに口をぱくぱくさせていた。

 声も出ないというのはこういうことかと他人事のように思う。

 あの泊まりがけの出張の時は、浮気調査をしてくれた探偵さんもとてもいい証拠が取れたと言っていた。ちょっと費用は掛かってしまったけど、頼んでよかった。

 証拠の写真や報告書を見ても、もはや悔しいとも思わなかった。やっぱり、と思っただけだった。


「お、お前。誰の金で探偵なんて雇って……」


 もはや何を言い出すのかと思ったら。


「ツッコむのそこ? やましいところには何も言えないんだね。もちろん私のお金だよ。前に働いてたときの貯金と、バイトして稼いだお金」

「だ、だけど、生活してたのは、俺の金だろ」


 まだ言うか。


「そうだね。でも、これからは慰謝料としてもらうから。あ、もちろん浮気相手からもね」

「だけど、証拠が……」

「探偵雇ったって言ってるでしょ。証拠はもう十分に集まってるんだよ。弁護士の先生に相談だってしたし、裁判になっても確実に私が勝てるってわかってるんだからね」

「こ、このっ!」


 逆上した貴志が殴りかかってこようとする。前なら、ぶつかっただけで私がはじき返される方だったけど、今の私はその拳を受け止めた。私の体はびくともしない。


「なっ」


 貴志が驚いた声を出す。

 私の鍛えられた腕とは違って、脂肪のついた醜い腕が目に入る。

 幻滅する。

 今の私なら、簡単に受け止められる。


「貴志が浮気してる間、私は戦ってたから。自分自身と」


 ああ、貴志の力なんてこんなものだったんだ。いつからこんなだったっけ。

 私は貴志を押し戻す。そんなに強い力で押したわけでもないのに、貴志は力を失ったように膝から崩れ落ちる。


「くっ……」


 そして、歯がみするような声を出してから、うなだれる。

 私のことを弱いものだと、ずっと下に見ていたに違いない。その貴志が、私よりも体は大きいはずの貴志が、今は小さく見える。


「全部、知ってたのか……。そんな素振り、全然……」

「うん。でも、そんなことで悩んで時間使ってたらもったいないから、私は私のやりたいことをしていただけ」


 私はきっぱりと言う。

 もうすぐ死ぬかもしれないのに、どうでもいい男のため悩むなんて馬鹿らしい。大事な時間を無駄に使いたくなかった。

 思い悩むくらいなら、行動に移してしまった方がいい。


「俺のこと、いつも家で待っててくれてると思ってたのに……」

「はぁ?」


 私は顔をゆがめる。


「浮気しといて勝手じゃない?」


 確かに一度死ぬ前の私は、毎日毎日貴志のことを一途に待っていた。

 だけど、あの頃の私はもういない。

 そんなことをしていてもなんの意味も無かったと、どん底に突き落としたのは貴志の方だ。


「俺、本当は美歩が待っているあの家が好きで……」

「へぇ」


 今度は泣き落としでもしようとでも思っているのだろうか。

 そんなものが通用するわけが無い。

 一年前の何も知らない私なら騙されていた可能性もある。

 だが、今の私は知っている。

 私が死んだすぐ後に、貴志は浮気相手の桃香を家に上げていた。私が死んだことなんかどうでもいいと思っていた証拠だ。

 身体が弱かった私を、貴志は浮気相手のところに行って放っておいた。

 私が待っている家が好きなんてよく言う。

 許せるわけがない。

 私は貴志に向かって言い捨てた。


「どうぞ、桃香さんとお幸せに。慰謝料は払ってもらうけどね」


 その途端、貴志が私を睨みつける。


「……っ。お前、アイツの名前まで知ってんのか。そこまでわかってて、そんなにあっさりと言うってことは、やっぱりお前も浮気してるんだろ? そうじゃなきゃこんなにあっさりしてるのおかしいだろ!?」

「はぁ」


 私はため息を吐く。

 本当に、この人は何もわかっていない。

 さっきから何度同じことを聞かされるのか。

 自分がしているからといって、その思考にしかならないのが悲しすぎる。

 発想が貧困だ。

 だったらもう、言ってやるしかない。


「そうだね。私も浮気、してたかもね」

「やっぱり、そうなんだな! 一体、どんな男なんだよ」


 してやったりといった様子で、貴志が身を乗り出してくる。

 どうしてさっきよりも生き生きしているのか、思考回路が理解できない。


「お前も浮気してるなら同罪じゃないか! 俺だけ慰謝料なんて払えるわけ……」

「浮気は男にじゃない。私自身の筋肉にってことだよ!」


 貴志の言葉を遮って、私は言った。


「はあ?」

「他のどんなものが私のことを裏切ったとしても、筋肉は裏切らない。それは、私自身が努力して身に付けたものだから」

「なに言ってるんだよ……。わけわかんなくて怖いんだけど」


 貴志がぶつぶつ言っているのは、どうでもいい。


「だから、ありがとう。貴志」

「は? なんだよ、急に礼なんて」

「貴志に裏切られたから、私はボディビルに出会えた」


 もし、貴志に裏切られた後じゃなかったら岸本コーチの言葉も私には響かなかったと思う。あのタイミングだったからこそ、岸本コーチのあの輝きと言葉が私に届いた。

 だから、私は今、ここにいる。

 大切なものにも出会えた。

 もう、こんなところでどうでもいい男と話している場合じゃない。

 時間だ。


「決勝そろそろ始まっちゃう。じゃあね。離婚のことはまた話そうか」


 私が生きていたら、だけど。

 私は貴志にくるりと背を向ける。

 私をこの世界に導いてくれた人の勇姿を見ずに死ぬなんて、そんなのは嫌だ。


「ちょ、待てよっ。言うだけ言っといて、こんなところで置いてくのかよっ!」


 口だけで言いながら貴志は追ってこない。もう力でも私に敵わないと、わかっているんだろう。

 私は前を見て歩く。

 私はもう、貴志にぶつかられても何も言えなかった、立ち上がれなかった私じゃない。

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