第十三話 これが浮気なら
運動をするようになって、仕事もするようになって、生活自体は忙しくなっているはずなのに、身体は前よりも動けるようになってきたのが不思議だ。
色々なことへのフットワークも軽くなってきた気がする。
この前のボディビルの大会。
あれに行ってからますます前向きになった。
そこで私はやっぱり、前にやめておこうとしたこともやっておこうと思った。
以前はどうでもいいことだと、スルーするつもりだった。
もうすぐ死んでしまうのなら意味が無いことだと思ったからだ。それに、そんなことをするくらいなら自分が本当にやりたいことをやった方がいい。馬鹿な男のことに時間を使うなんてもったいない。
それでも、やらないで後悔するよりはマシなのではないかと考えが変わってきた。
最近、色々と新しいことを始めるようになって、そう思うようになった。
貴志のことなんかにかまけていて、自分のことをおろそかにするのは嫌だったが、あの男がやってきたことを許すのはまた全然違う。
許すというか、野放しにするというか。
それでもちょっぴり勇気は必要だった。なにしろ、初めてのことだ。失敗はしないようにネットの口コミなんかもしっかり調べて頼むことにした。
それもこれも、身体が動くから出来る。
やるべきことが出来る体力があるって、本当に素晴らしい。
◇ ◇ ◇
「あ、そうだ。今度の土日、泊まりの出張でいないから」
夕食の時、会話のついでのように貴志が言った。
今夜も貴志は平気で私の分まで夕食のおかずを食べている。
一人の時はちゃんとカロリーも計算して作っているのだけれど、貴志がいると計算が狂う。
バレないように筋肉を付けているから仕方ないとはいえ、結構なストレスだ。
どうせ、浮気相手といることの方が多いなら、もう帰ってこなくても構わないのに、とすら思ってしまう。
「そうなんだ。大変だね」
それでも怒りの感情を抑えて、私はにっこりと笑う。
怒りと同時にようやく、チャンスが来たとも思う。
送り出すときにも満面の笑みで送ってあげよう。
実は少し前から、私は貴志が出張に行くと言い出すのを待っていた。普通の休日出勤だと言うときよりも証拠が掴みやすいからだ。ちなみにもしも本当に出張で空振りだったら、また次のときに頼めばいいだけだ。
前から桃香との旅行を計画していたのを、私はもう知っている。可能性は高い。
貴志は私が動いていることにまだ気付いていない。そもそも、前に一度死んだときには本当に気付いていなかったんだ。貴志が油断していても仕方ない。
私だって、死んだときに直接現場を見ていなかったら、貴志が浮気していることに未だに気付いていなかったかもしれない。
「いやー、土日まで仕事とかひどいよな」
白々しく貴志が呟いている。
「プロジェクト、忙しいんだね」
「そうなんだよ。俺、期待されててさ」
一体、何に期待されているというのだろう。
桃香に夜の期待でもされてるんですか?
「あ、荷物の用意は自分でするから」
きっと、お気に入りの下着でも入れていくつもりなんだろう。
私に見られても困るから自分で用意するに違いない。
思わず笑いが引きつってしまう。
◇ ◇ ◇
貴志の出張(?)がわかった日の次の朝、私はある人に電話を掛けていた。
「今週末なんですが、お願いできますか?」
『わかりました』
電話の向こうから頼もしい返事が聞こえる。
「よろしくお願いします」
これで、私はもう報告を待つだけだ。
◇ ◇ ◇
今日もまた、私は仕事が終わってからトレーニングに励んでいた。
身体を動かしていると怒りも吹っ飛んでいく気がする。
というか、段々貴志のことがどうでもよくなってきているだけかもしれない。
それはそれでいい。
「今日もがんばってますね」
そこに岸本コーチがやってきた。岸本コーチも、これからトレーニングをするところのようだ。
「まさか、本当にこんな日が来るなんて思ってませんでした。あ、いえ、小澤さんのやる気がなかったとかではなくて、夢みたいで。小澤さんがこんなに筋肉馬鹿になってくれるなんて。あ、悪い意味じゃないですよ。いい意味です!」
ふふ、と岸本コーチが笑う。
「岸本コーチに言われるなんて、私ってば相当ですね」
もちろんいい意味で相当な筋肉馬鹿な岸本コーチに言われて、私も思わず笑ってしまう。
確かに、岸本コーチだけでなく今の私にはその言い方が似合っている。
あの日、岸本コーチの出たボディビルの大会を見に行った日から、私は更にトレーニングに力を入れるようになった。
だって、あのステージ。
私はあそこに立ってみたい。
あのキラキラした場所に行ってみたい。
あの輝く場所へ!
そう思った私は、本当にボディビルの大会に出ることを目標に頑張ることにしたのだ。
だって、あんなすごいステージを見せられて我慢できるはずがない。
「もう私が教えることもありませんね」
冗談めかして岸本コーチが言う。
「そんなわけないですよ! まだまだ教わっておくことは沢山あります。だって、岸本コーチは私の憧れの人なんですから。それに私、詳しいこと全然わかりませんし」
冗談だと私はわかっていながら、本気で答えてしまった。
だって、そんなことを言われたら困る。本当にまだまだ教えて欲しいことは沢山ある。
「そんなにストレートに言われると、照れちゃいますね」
岸本コーチが本当に照れたように笑う。
私はすごく運がいい。
だって、テレビで見てすごいと思った人がたまたま近所にいてくれた。
そして、指導までしてくれて、同じ場所で働くことも出来ている。
こんなの、すごい偶然がなければ無理だったと思う。
一度死んでしまう前は、こんな出会いがなかった。
こんなことを思うのも変だけど、一度死んだ私は幸せだ。
死んで戻らなければ、この出会いはなかった。
前よりも前向きに考えられるようになった。
「わかりました! 私に出来ることなら教えますから。じゃんじゃん聞いちゃってくださいね」
「は、はいっ!」
岸本コーチに言われたことが嬉しくて、私は元気よく答える。
そこに、
「お二人とも仲がいいですね」
鈴木さんが通りかかった。
「二人でトレーニングですか?」
言われて、私たちは頷く。
ふふ、と鈴木さんが笑った。
「まったく、最初にここに小澤さんが来た日、こんなことになるとは思いませんでしたよ」
「こんなこと、ですか?」
私は鈴木さんに聞き返す。
「だって、小澤さんすごくおどおどして現れて、運動なんかしたことないって言ってて。そりゃ、私だってこのクラブの人間ですから、向いてなさそうな人にも大丈夫だって安心させるお仕事なわけですが」
はぁ、と鈴木さんがため息をつく。だけど、その顔は笑っている。
「私、そんなに向いてなさそうでしたか?」
わかっていて聞く。最初は私だってそう思っていた。すぐにやめても仕方ないと思っていた。ここまで私自身が出来るなんて、思ってもみなかった。
「だって、顔は青白くて、すごく自信がなさそうで、本当に大丈夫なのかなって不安になりましたよ」
「やっぱり、そうですよね……」
自分自身でもわかっていた。
今、私が受付をしていて、あの頃の私みたいな不健康そうな人が来たら心配になってしまう。
「でも……」
鈴木さんが呟いた。
「でも?」
私は首をかしげる。
「ね、岸本コーチ?」
鈴木さんが岸本コーチを見る。
「うん。私はわかってました。だって、なにかを始めたいって、その気持ちだけはすごくあふれていたように見えましたから」
「小澤さんが帰った後、テレビで自分を見て来てくれるなんて、すごく嬉しいって言ってましたもんね」
岸本コーチが笑う。
「それにしても……」
と、鈴木さんが再び嬉しそうにため息を吐く。
「岸本コーチと変わらないくらい筋肉馬鹿になるとは思ってませんでしたよ」
鈴木さんの言葉に、私は岸本コーチと顔を見合わせて笑う。
「さっきそれ、自分たちでも言ってました」
鈴木さんにまで言われるとは思わなかった。
どうやら今の私は本当に筋肉馬鹿らしい。
「自覚はあるんですね。毎日毎日、仕事の後に筋トレしてますからねぇ」
鈴木さんが笑いながら言うと、岸本コーチが唸った。
「うーん、身体を維持しておくために必要ってのもありますよ。けど、ねぇ」
岸本コーチが私に向かって微笑む。
そう、必要なのもあるけれど、一番の理由は。
「楽しいから、ですよね」
「そう!」
私の言葉に岸本コーチが嬉しそうに頷く。
「はー、お二人ともどうぞ心置きなくやってください」
やれやれと肩をすくめながら、鈴木さんも笑っている。
貴志がボディビルのチラシを見て疑ったときのように、これが浮気だと言われるなら、それは否定できないかもしれない。
だって、ここで筋トレをしている方が貴志といるよりずっと楽しいから。
そうして、私はこの場所で自分を鍛え続けた。
そして……。




