第十二話 文句なんて言わせない
「あの……、この前から張り紙してありますよね。受付の求人の。それって応募できますか?」
スポーツクラブに行ったとき、私は受付で思いきって聞いてみた。
貴志に当てはあるのかと聞かれて一番に思い浮かんだ場所だ。実は少し前から張ってあって、ちょっと気になっていた。
貴志のお金で私がやりたいことをしている、というのは気になっていたからだ。ここなら私でも出来るだろうかと悩んでいた。
でも、ずっと仕事をしていなかった私に出来るかわからなくて躊躇していた。さすがにブランクが長すぎて不安になっていた。それでなかなか決断できずにいた。
そんな私の背中を押してくれたのが貴志だというのは、なんだか皮肉な話だ。
ちなみに、
『勤務時間外にマシンなどの施設が無料で利用できます』
張り紙には、そう書かれていた。岸本コーチがマシンを利用していたのも、そういうことだ。
二ヶ月のパーソナルトレーニングが終わった後も、これなら自分のペースで続けられる。
条件としては、ものすごくいい。
「小澤さん、応募していただけるんですか!?」
受付の鈴木さんが、嬉しそうに言った。
「この時間、あまりスタッフがいなかったので助かりますっ!」
「あ、いえ、私なんか受かるかどうか、わからないんですが……」
思わず持ち前の弱気が頭をかすめてしまう。
でも、
「働けるなら、働いてみたいです。私、ここが好きですし!」
気持ちを言葉にしてみる。
思わず最後に力が入ってしまった。
私、本当にいつの間にかここが好きになっている。
出来るなら、ここで働きたい。ここから始めたい。
この場所からなら、私は出来そうな気がする。
「それ、私じゃなくてオーナーに言ったらすぐ採用ですよ」
鈴木さんが笑った。
◇ ◇ ◇
鈴木さんが言った話は本当だった。
「よし! 採用です」
オーナーもスポーツマン! という感じの人だった。
面接の日はトントン拍子に決まって、その場でいつから来られるか聞かれて、すぐにでも採用ということになってしまった。
あまりに上手くいきすぎてびっくりしたくらいだ。
鈴木さんに言われたとおり、私がこのスポーツクラブの会員でここが大好きなことは、きちんと面接してくれたオーナーに伝えた。
ここに来て身体を動かすのが好きになったこと。
とても久しぶりに働くので、せっかくなら大好きな場所で働きたいこと。
思いが溢れすぎて、上手く言えたかどうかはわからない。
こんなに働きたいことを頑張って伝えたことは、学生時代にバイトをしたときにはなかったと思う。もしかしたら、就職したときの面接よりも必死だったかもしれない。
私が話しているときにオーナーはとても嬉しそうな顔をしていた。
私の思いが上手く伝わっていたのなら嬉しい。
ただ、正社員とかではなくバイトではあるけれど、働くのが久しぶりすぎて本当に不安だった。けれど、周りは知っている人だらけだ。スタッフの人たちがいい人ばかりなのはよく知っている。
◇ ◇ ◇
そうして、久しぶりの労働をする日々が始まった。
体力が前よりもついてきたとはいえ、生活のリズムが変わるのだ。最初はなかなか身体がついていかなかった。
だけど、
「大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」
近くで作業している鈴木さんが私のことを気遣ってくれる。
「少しずつ慣れていけばいいですから」
「ありがとうございます。がんばりますっ!」
優しく言ってもらえると心が楽になる。
「明日はお休みですよね。ちゃんと休んでくださいね。って、パーソナルトレーニング入ってるんでしたっけ」
「はいっ!」
私は笑って答える。
「休みの日にまでここに来るってすごいですよね」
鈴木さんも笑う。
パーソナルトレーニングの日は勤務日に重ならないようには配慮してもらっている。おかげで、結局ほぼ毎日ここに来ていることになる。
でも、楽しいから苦痛にはならない。
大変ではあるけれど、すごく充実している。
◇ ◇ ◇
スポーツクラブにいるときは、とても楽しい。
それなのに、家に帰ると私をがっかりさせるように貴志が言った。
「本当に始めるんて思わなかったよ。最近、バイトなんかしてるからか家事がおろそかじゃない? 俺より遅く帰ってくるし」
貴志がため息を吐く。
「美歩は身体弱いんだし、一緒に仕事してる人たちにも迷惑掛けてるんじゃない? 仕事するのだって久しぶりだしちゃんと出来てる?」
「大丈夫だよ。私、ちゃんとやってるよ」
「そう? 心配だなぁ」
「家事だって、一応がんばってるつもりなんだけど」
「俺には前より家の中が回ってない気がするんだけどなぁ」
貴志は訝しげに私を見る。
家事のこととかを出してくるあたり、私の体調を本気で心配しているようには全く見えない。もしそうなら、浮気なんてしていないで、もう少しいたわってくれてもいいと思う。家事だって、私が働き始めたのだから少しくらい手伝ってくれてもいい。
結婚したばかりの頃は、私の身体が弱いからと手伝ってくれていたこともあった。
今は、もうそんなことは無い。
更に、貴志は続ける。
「夜に勤務のときだってあるし、帰ってきて夕飯ないのつらいんだけど。今日だってまだ夕飯出来てないみたいだし」
勝手に遅く帰ってくるときもあるくせに、そんなことを言われても知ったことじゃない。
やっぱり、私のことを心配している様子は一ミリもない。
心配しているのは、私ではなく自分の夕飯のことらしい。さすがにあきれてくる。
「作り置きのおかずもちゃんとあるから、私がいなかったら先に食べてもいいんだよ」
「あったかいのがいいんだけど。夜の勤務って変わってもらえないの?」
「他の人にも都合あるから、私だけってのは無理だよ」
実は夜に勤務がない日も結構ある。だけど、そういう日は夜にトレーニングをすることに決めている。
それに、作り置きのおかずだって私が栄養のバランスを考えて作ったものばかりだ。味だっていいと思う。最近食べるのが楽しみになってきたから、料理にも力が入るようになってきた。以前だって貴志のために料理はがんばっていたけど、今は自分のためにもがんばっている。そんな気合いの入った料理を、食べもせずに文句を言われても困る。
貴志は、作り置きは冷たいものだとでも思っているのだろうか。温めればあったかくなるのに、そんなこともわからない男なのだろうか。
話せば話すほどがっかりすることしか無い。
「ねえ、やっぱり最近、美歩太ってない? 時間が不規則になってるからじゃないのか?」
「そうかな」
だから、私は太っていない。
そう見えるのは貴志に筋肉が付いてきたのをバレたくなくて、前よりもゆるっとした服を着ているからだ。
わかっていても、貴志の言い方に苛つく。
◇ ◇ ◇
遂にその日が来た。
「じゃ、行ってきます!」
休日出勤だというのにやけに嬉しそうに貴志は出ていった。
貴志の姿を見送って、私も自分の準備を始めた。もし貴志が出ていかなかったらどうしよう、とやきもきしていた。
休日出勤なんて嘘で、きっと浮気相手の桃香とのデートだと思っても、私の心は何も動かない。
むしろ、もっと大切なことがある。
朝食の後片付けなんかを済ませて、私も家を出る。
今日は岸本コーチが出るボディビルの大会の日だ。
自分が出るわけでもないのに、なんだか緊張してしまう。だって、テレビや動画でしか見たことがなかったあの場所に実際に行けるんだ。
「わ! 本当に来てくれたんですね!」
出番前に声を掛けに行った私に、岸本コーチは嬉しそうに笑ってくれた。出番前なんかに声を掛けたら迷惑かと思ったのに、そんな顔は一切しなかった。
こんなに素敵な人と知り合いなことが嬉しかった。
「がんばってくださいね!」
「もちろんですっ!」
岸本コーチは自信ありげな笑顔で答えてくれる。
「楽しんでいってくださいね」
「はいっ!」
初めての場所すぎてアウェーな感じだったらどうしようかと思った。そんな心配も岸本コーチの笑顔で吹っ飛んだ。
岸本コーチと別れて、客席へと向かう。
会場は熱気で沸いていて、この場所にいるだけでどきどきした。
席に座って深呼吸する。
大会が、始まる。
舞台の上にいるのは全く知らない選手だ。岸本コーチの出番はまだ来ない。
だけど、私は舞台の上にいる選手たちの姿に釘付けになっていた。
ここに来てプログラムを見るまでよく知らなかったのだけれど、ボディビルだけでなく、フィジークやビキニフィットネスに競技がわかれているみたいだ。
単純に筋肉量だけで無く、トータルな筋肉の美しさやバランスを競ったり色々違うらしい。
ここに来るまで全然知らなかった世界だ。
だけど、そんな種類なんか飛び越えて私にはみんな素敵に見えた。
艶やかに光る身体に、輝くような笑顔。
みんなキラキラと輝いていた。
見に来ている人たちもとても楽しそうで、いるだけで楽しくなる。世界が、輝いて見える。
とても、とても眩しい。
私があんなすごい舞台に立てるのだろうかと、ちょっぴり不安になるくらい。
だけど、すごく楽しかった。見ているだけで、胸の底からなにかが沸き上がってくる。
不安よりも、あの場所に立てるかもしれないというわくわくの方が勝ってしまうくらい。
舞台の上でポージングが決まって、周りで歓声が沸き起こる。
貴志の浮気のことなんかで悩んでいた私が馬鹿みたいに、この会場は楽しさであふれている。
ついに岸本コーチの出番が来た。
堂々とした態度で、岸本コーチは舞台に立つ。
他の人より更に輝いて見えてしまうのは、気のせいだろうか。
いつもはトレーニングウェアに隠されている筋肉が露わになっている。
ああ、なんて素敵なんだろう。
最初にテレビで見たときよりも、もっと素敵になっている気がする。それはきっと、岸本コーチがあれからもずっとトレーニングを欠かしていないからだ。
毎日の努力が、今の岸本コーチを作っている。
涙が、出そうになる。
まだ、私にあの舞台は遠い。今はまだ。
だけど、まずは、私は私がここにいること自体を褒めよう。
私は、私が稼いだお金でこの席に座っている。
きちんと働いたお給料で、私はこの大会のチケットを購入した。
そして、ここにいる。
この素敵な場所にいる。
貴志に文句を言われるような筋合いは無い!
私は息を吸い込む。
そして、
「ナイスマッスルー!」
舞台に向かって叫んだ。
ああ、すごくどきどきした。
他の場所からも沢山の歓声や掛け声が上がっていて私の声なんてかき消されてしまったかもしれない。
けれど、岸本コーチは私の方を見て笑ってくれた。そんな気がした。




