絵に描いた餅
が、しかし世の中そんなに甘くはなかった。一九九三年、つまりうちのマンションが完成した年の春ぐらいから、とうとう恐ろしいほどの地価下落が始まってしまった。
株価はその二年も前からすでに下がり始めていたが、二年余りの時間差を経て、本丸の不動産がいよいよ崩落し始めた。なぜ二年もの開きがあったのか、なぜ地価は株価の下落と共に下がらなかったのか? ここがバブル毒の怖いところに違いない。世の中の人みんな脳味噌お花畑だった。株がダメでも担保である不動産があるからまだ大丈夫、何とかなる、などと考えていた。
でも実際は担保=不動産ではなかった。過剰融資、つまり上がるだろうと言う仮定の下、銀行は価値以上の金額を貸し付けていた。
うちの場合はその担保の審査をしたのが住宅金融公庫だったわけだが、工務店は、本来一億五千万で建つところを一億八千万掛かります、とぼったくる気満々で融資を申し込み、公庫は、わかりました、じゃあその金額で査定しますよ! とあっさりOK。それを銀行に回す。つまりその過剰に貸し付けた三千万がバブルなわけで、二年経って、その不動産本来の価値がばれて三千万足りないから何とかしてくださいと貸し剥がしが始まる。うちだけではない、もうこの時点で国内はクソ不良債権だらけだ。どうしようもない。
その後未曾有の不景気がこの国を襲った。ひとたび景気が悪くなり出すと、うちに限らずどの賃貸物件でもそうであったように、ボコボコと穴が開いたように空室が増え、その対策としてとりあえず、家賃を大幅に下げざるを得なくなってしまった。当然、家賃収入は最高潮だった頃、つまりD銀行が試算していた頃の六、七割程度に下落した。絵に描いた餅はやはり絵に描いた餅以外の何物でもない。
しかしながら、抱えている住宅ローンは何一つ減らないので、結局、気の遠くなる負の遺産を背負うことになってしまった。弱冠二十代にして債務総額一億八千万円だ。
「借金が億を越えるとそれはもうただの数字だよ」と、誰かがどこかで言ったが、まったくその通りだ。実感がない。僕の知らない遠い世界で、毎日ちゃりんちゃりんと利子が増えて行っているのだろう。まるでお金と言う名の大海の中、金利と言う大きなウネリに飲み込まれた小船になった気分だ。
気の弱い者なら、そのことを考えると夜も眠れなくなり、食べ物も喉を通らなくなるのだろうが、幸いなことに僕は生まれながらにして相当暢気な性格だった。そのうちなんとかなるさと言う気持ちが強かった。逆にもう少し緊張感を持った方がきっといいと思う。誰よりも僕の頭が一番のお花畑なのかもしれない。
まあもっとも、マイナス面だけを見るからそう思うのであって、昔からよく世間で言われている、国の借金一千兆! みたいなもので、土地担保は三千万ほど割れているとはいえ、現物としての不動産と毎月の収益がある限り、すぐに首を括らなければならないと言うこともない。そして後付けで申し訳ないが、幸運なことに、母の遺産は負債のマンションとは別に、生前、母の住んでいた小さな家と僅かばかりの土地もあった。それも母が亡くなる前、まだそんなに地価が下落する前にすべて売り払って、約一千五百万円の現金に替えていた。まったく母は偉大である。僕はそれも相続したので、まあ当分はなんとかなるだろうと安易に構えていた。
続く