ああ、世の中甘くない
3、ああ、世の中甘くない
亡き母が事業融資を受ける時点での返済計画は、D銀行が苦心に苦心を重ねて立てたものだ。つまり経済のプロフェッショナルたちが考えたもののはずだった。もちろん母も彼らがニコニコしながら持って来た家賃の収益表を見た。そして超一流のエリートたるメガバンクD銀行の偉いさんの考えることだから大丈夫と全面的に信用したのだ。
ちなみにもっと後で書こうと思ったが、どうにも書かずにはおられないのでここで書く。D銀行はその後一九九五年にニューヨークでやらかした巨額損失事件を機に、その損失報告をアメリカ当局へ怠ったために、当時純利益の三割を稼ぎ出していたアメリカ市場から追い出され、国内に膨大な不良債権(うちもか?)を抱えて倒産の危機にあった。
そして国内ではずいぶんと物議をかもしていたが、四千億円もの公的資金注入によってかろうじてその危機を免れ、その後、地方銀行や大手A銀行などと合併を繰り返し、最後には現R銀行になった。
もう無茶苦茶、本当に頭の良い連中ならこうはならなかったはずだ。経済音痴の僕が言うのもおかしいけれど、うちのようなこんな小口取引でもまともに試算できないのだから言わずもがな。一事が万事そうだったのだろう。やはり信じた方がバカだった。でも当時の状況では信じるしかなかった。
しかしながら、今僕は自分の不勉強を猛烈に反省している。あの頃の僕は、経済とか社会情勢とかにとことん疎かった。言い訳になるが、出たばかりの大学は理系だったし、毎日好きな生き物のことばかり熱心に学んでいた。つまり非常識極まりなかったのだ。
後からわかったことだけれど、母が融資を受けることが決まった前年の一九九〇年には、日銀による金融引き締め(公定歩合の引き上げ)が行われ、バブルの近付く足音がヒタヒタと聞こえ始めていた。
そして当年には、すでにバブル崩壊が始まっていた。つまり金利が一気に下がり始めていた。だからD銀行は「もう下がりません」などと言ったのだろう。
もしこの物語にコメント欄があったなら「悪いのは銀行じゃなくてお前だろ!」と延々書き込みされるに違いない。過去に戻って殴ってやりたい。もちろん何もしなかった、できなかった自分自身を。
今なら知っている。毎月の家賃収入は、景気の動向をモロに反映していることぐらい。
D銀行の営業が喜び勇んで持って来た、その家賃収益表は景気が当時以上に悪くなることを考慮に入れていない。
「D銀行さん、これ、家賃を下げざるような事態になったらどうなります?」
今ならそう聞いていたに違いない。おそらく銀行内には将来どうなるのかわかっていた人間も大勢いたのだろう。もしかしたらニコニコ作り笑顔で提案書を持って来たあの銀行員たちも知っていたんじゃないかと思うが、数字を上げることばかりが優先されて、彼らの置かれた状況にも上にも逆らえなかったのだろう。
以前どえらい問題になったスルガ銀行もかぼちゃの馬車だってレオパレスだってみんな同じだ。そう考えると本当に何の進歩もない。過去から何を学んだのかと問いたくなる。
話しを戻そう。一九九三年、平成五年。マンションは堂々完成した。皮肉にもD銀行がニューヨークで不祥事を起こしてアメリカ市場から追放になったその年だ。
さて、出足は好調だった。当時はいつも満室だったし、もし空き室が出てもすぐに埋まった。D銀行の持って来た家賃収益計画表の通り、おもしろいほど事は順調に進んだ。