鉄筋コンクリート四階建
開き直った母の無謀な?計画はこうだった。
母は昭和四十五年に死別した内縁の夫(僕の実父)から、JR大阪環状線、某駅から徒歩五分という非常に立地条件の良いところに、百坪余りの土地と、そこに建てられた大きな二階建ての、一見して歴史的西洋館みたいな木造アパートを譲り受けていた。
僕が生まれた当時、三十室以上あった部屋はいつも満室で若い活気に溢れていた。しかし時代の流れと共に、六畳一間、風呂なし共同トイレでは若い人たちのニーズには応えられなくなり、やがて空き室が目立ち始め、最後に残った住人は年寄りばかり。
しかしその古びたアパートが、女手一つで僕を育てて大学まで行かせてくれた母の経済的な支えになって来たことは事実で、今思えば僕もそのアパートを残してくれた父に大変感謝している。
母はその父への恩も思い入れもたくさんあるアパートを思い切って取り壊し、そこに鉄筋コンクリート四階建てのマンションを建てることにしたのだ。ひとえにそれは僕のためだろうが、どれほどの決心だったことだろう。
もちろん手持ちの資金などないに等しかったが、マンションの建設費用はその広い土地を担保にして融資を受けた。と言えば聞こえは良いが、当時のメガバンクであったD銀行(現・R銀行)と住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)、それに某中堅工務店によって、母はまんまと乗せられてしまった。
一番に話しを持って来た工務店の社長は、「奥さん、こんないい土地をこのままにしておくにはあまりに勿体無い。ぜひ活用すべきです」と熱心に建て替えを勧め、母所有のアパートの決済口座があったD銀行は、「もうこれ以上絶対に金利は下がりません。建て替えるなら今がチャンスですよ」などと、言葉巧みに世間知らずの母に融資を勧めた。
母は自分の亡き後、僕のために何かできることはないかと考えあぐねていた時だったから、おそらく渡りに船だと考えたのだろう。それが愚行であったと決して責められない。
そしてD銀行と提携した住宅金融公庫は、当時としては当たり前の、今の世ならとんでもない三十五年長期固定金利五、五%と言う金利で余命幾ばくもない年寄りにポンと一億八千万円と言う大金を融資した。
いったいどの口が『もうこれ以上絶対に金利は下がりませんよ』などと言ったのか。あれから政府の金融緩和政策も加味されて、今なら住宅ローンは固定で二%~、変動ならば一%前後にまで、もう下がりに下がったではないか。
当時はこの国も人も相当狂っていたに違いない。この年寄りを騙すような手口は、法的にこそ問題はなかったが、何せ額がでかい。こんなことを国を挙げてやっていたのだ。今ならオレオレ詐欺すら裸足で逃げ出すに違いない。
それから半年経って、医者の言葉通り、母はいよいよ具合が悪くなり、入退院を繰り返すようになった。僕は相当に悩んだ挙句、結局、仕事を辞して実家に戻ることを決意する。
翌一九九三年、平成五年一月に待望のマンションは完成した。しかし残念ながら、母はマンションの完成を見ることなく、その三ヵ月前に帰らぬ人となった。余命一年と言われていたが結果的には余命より十ヵ月以上も頑張った。さすがは僕の母だと褒めてあげたい。
あとには彼女が命懸けで建てた美しいマンションと一億八千万の負債が残った。そして僕は母の思惑通りそのマンションも負債も全部継ぐことになった。こうして僕は若くして大家さんになったわけだ。
続く