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なんだ、こんなことだったのか

 業者さんは雨中にもかかわらず、屋上に上がる非常梯子をホイホイ登る。慣れたものだ。屋上、屋根上が彼らの仕事場である。僕も上がろうとすると、「オーナーさん、危ないので来ないでください」と叱られてしまった。うちは屋上ではなく、大屋根である。人は普通上がることができない。

 そしてアンテナを見てもらったところ、やはり長年の風雨に晒されて、ブースターは水没して機能していなかった。業者さん曰く、十年持てばいい方らしい。その修理交換に掛かる費用は、僕の想定をはるかに上回る金額だった。しかしこのまま放っておくわけにも行かないので、泣く泣く自腹を切って、急遽、交換修理を頼んだ。まったくとんだ災難だ。

 その日の午後、「ちょっとテレビのことで話しがあるので明日の朝、そちらに伺いたい」と、A原さんと言う男性から突然電話があった。A原さんは、うちのマンションの西側、つまり受信に影響のある地域に住む、身寄りのない一人暮らしの高齢者だった。近所の評判では、かなりの偏屈者で通っている。おまけに有名なクレーマーだそうで、家の前の通学路で子供が騒いで煩いとか、街灯が切れているとか、何かにつけ文句を言う。

 最近では朝マックにストローが入っていなかった、とわざわざマクドナルドに苦情の電話を掛け、家まで届けさせると言う大技を繰り出したらしい。ここまで行けばもう武勇伝だ。

 しかし、こんな時によりによってあのジジイ(失礼!)の家も電波障害を受けていたなんて。不覚だ! きっとこの連休もテレビが映らなかったので、苦情か、最悪、慰謝料でも請求しに来るのかもしれない。まあ確かに請求されても文句は言えない。

 ああ最悪だ。その夜は胃が痛くて眠れないほどだった。どうやって対応するか。何かこちらに有利なことはないか。僕はそればかり考えていた。

 翌朝、A原さんはやって来た。チャイムが鳴る。僕はかなりイヤな気分で出迎えた。どんな文句を言われるのだろう? いくら請求されるのだろう? 頭にはそのことしかなかった。

 玄関口に出ると、なんとA原さんを筆頭に年寄りばかりざっと十人はいるではないか。まあよく集めたものだ。多勢に無勢。こいつら全員がカネ目的か。幾らになる? これはもう弁護士に相談か。などとロクでもない憶測が僕の頭の中を駆け巡った。

「おはようございます」と、挨拶を交わすその人々の顔を見ると、どのジジイもカネの亡者のように見えて来た。しかし避けては通れない。このマンションの大家さんは僕だ。最悪、裁判も辞さない覚悟で話を聞くことにした。

すると……。

「わたしら年寄りに取っての楽しみは、もうテレビを見ることぐらいですよ。それでね、ちょっと前から映らなくなって、すごく残念に思っていたんですよ。連休と言ってもどこへも行く予定もなくて、出たら出たで人は多いし金も掛かる。どうしようかと思ってました。それが昨日の夜、テレビを付けたらちゃんと映っている。話を聞けば、ここの大家さんがわざわざ直してくれたと言うやないですか。みんな本当に感謝しています。それでこうやって朝から皆でお礼に来たと言うわけなんですよ。本当に有難うございました」

 A原さんがそう言うと、老人たち皆が、まるで経文を唱えるように口々にお礼の言葉を僕に向けた。

 え? 何?  僕はただぞろぞろと歩き去るその背中をぽかんと見つめていた。暫くしてすごく反省した。醜いのは僕自身だった。そしてとても嬉しかった。心が温かくて思わず泣きそうになった。

 なんだ、こんなことだったのか。僕に足りてなかったのはこんなことだったのだ。天国の母がにっこり笑った気がした。


 ――今はもう亡き母。彼女は一九六一年の僕の生まれた年から、自分が病に倒れる二千年まで実に四十年近くもの間、父から任された賃貸住宅を守り続けて来た。そんな母を見ながら僕は大人になった。僕の記憶の中の母は、いつもアパートの住人たちといっしょに居る。怒ったり、怒鳴ったり、喜んだり、笑ったり、時には心配して若い住人に説教したり、本当に頼りになる大家のおばさんだった。そんな母が昔よく口にしていた言葉がある。


「大家って言うのはね、そこに住む人に憩いと安らぎの場を提供する仕事なんだよ。だからこの世になくてはならない仕事だよ」


 つまり、たとえ借家であっても住む人にはそこが家だのだ。家は住む人を守り、住む人に安らぎを与える。大家さんと言うのは、その場を人々に提供する、とても大事な仕事なんだ。それが自分の与えられた役目なんだろう。

 この先、どうなるのか想像もつかない。でも、もうちょっとだけ、いや後十年は頑張ってみようと思う。人との縁を大切にしつつ、その母の言葉を胸に、今は一生懸命、住人の言葉に耳を傾けようと思っている。

                                      続く

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