僕ね、追われているんです
酷い話だ。何と言うことか! ここまで問題が大きくなると、もうどうにもできない。それで仕方がないので、M谷さんに、「申し訳ないけれど、このままおかしな行動が続くようなら、転居費用はうちが出すので出て行ってください」と頭を下げると、予想に反してM谷さん、にっこり微笑んで、「わかりました。もう慣れてますよ。大家さん、いい人なので迷惑は掛けられない。すぐに出て行きます」と二つ返事で了承してもらえた。
あっさりしていた。しかし僕の胸はものすごく痛んだ。やさしくないと思った。でもこれは慈善事業ではない。母がいたらきっと同じことをしていたに違いない。
前述の悪意ある居住者に対してはそんなに良心の呵責に耐えられないようなことはなかった。ただ、M谷さんは、残念ながら、残念ながらと言う言い方もおかしいが、実際、悪い人ではない。いや、病気の奇行を除けば、逆に良い人なのかもしれない。心の澄んだ人なのだろう。
退居することが決まり、僕はM谷さんに対して敵意を持つ住人さんたちみんなに、「M谷さんには、ここを早急に出て行っていただくことになりましたので、どうか安心してください」と言って回った。辛かった。
ところが、そんな人がすぐに次の住居が見つかるとは思えない。この辺りではすっかり悪名高いので、どこか遠くへ引っ越さなければならないのだろう。聞けば、次の新居が見つかるまで、実家へ戻ると言う。
引っ越しの日、M谷さんの年老いた母親が挨拶にやって来た。年老いた母は、僕に何度も謝る。迷惑を掛けて済まないと頭を下げる。きっと今までこの人はこうやって息子のために幾度となく謝って来たのだろう。
「いえ、申し訳ないのはこちらの方ですよ」と言うと、年老いた母親は、目を伏せて泣いていた。
M谷さんが引っ越してから、住人から「やれやれこれで安心して暮らせる」と声を聞いたが、僕は心に何か棘が刺さったような気がした。
M谷さんがうちを出て、再び平穏な日常が戻った。
結局、野良猫に餌をやっている犯人もM谷さんではなかったし、自転車の空気漏れに関しては、「ムシゴムが劣化していますよ」と持ち主にいくら注意しても一向に修理しないので、夜中に僕がこっそり交換しておいた。それ以来、タイヤの空気漏れの苦情はなくなった。
結局、住人たちが苦情を申し立てていたそのほとんどが、M谷さんとは関係のなかったことがわかったが、もういなくなった今となっては彼らにとってはそのどれもが大した問題ではなかった。何も変わることのない平穏な日々が何よりも大切であると言うことだろう。
そしてあっという間に半年ほどが過ぎた。相変わらず三〇六号に入居はなかった。それは、応募状況を確認するために、Sホームを訪れた時のことだ。
M谷さんに懲りた私は不動産屋に入居希望者の条件を厳しくしてほしいと要望を出した。するとSホームさんの社長が、いつもの淡々としたビジネストーンで僕に言う。
「ああ、M谷さんね、オーナーさん、ご存じですか? 亡くならはったみたいですよ」
「え? いつですか?」
「つい先月のことらしいです。飛び込み自殺ですて」
「ホンマですかそれ!」
「ええ、N瀬駅で」
「N瀬て言うたら、たしかM谷さんの実家やなかったですか?」
「そうそう。私もあの辺に物件持ってますんでちょこちょこ情報は入って来るんですけどね、いやそれが不思議なんですわ」
「何か?」
「目撃者の話ではね、夜遅い時間やったからね、ホームはすいとったのに、M谷さん突然大声で、やめろ、押すな! って怒鳴って快速に飛び込んだらしいっすよ。誰に向かって怒鳴ってたんでしょうねえ」
――大家さん、僕ね、追われているんです……。
M谷さんは、うちに来た時、そう言っていた。彼の中に実際にそいつらはいたに違いない。ただ、誰にもその敵の姿は見えなかった。
僕は思った。彼を追い詰めていたのは、フリーメーソンでもカルト宗教団体でもない。今のこの社会ではなかったのか。この国、この街、ここに住む人々すべてから彼は追われていたのではなかったか。
僕の心は痛んだ。そんなもの僕には何の責任もない。どうすることもできなかった。しかしすっきりしない。M谷さんは本当に悪かったのか。
悪魔はどんな善人の心の中にも住んでいる、もちろん私の心にも。
そう言えば、最近、乱雑に止められている自転車置き場の自転車が、いつのまにか整然と並べられていることが良くある。
続く




