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キ〇ガイマンション

 それからこんなこともあった。ある日曜日、僕は買い物をしていた時のこと、またM谷さんから電話があった。

「大家さん、あのね、僕、今まで履いていたズボンがもう破れて履けなくなったんで夕べゴミに出したんです」

 嫌な予感。

「でもやっぱり、あれじゃないとダメなんです。今朝ゴミ置き場見たらもう回収されててないんです」

「そら早朝には回収していきますからね」

「もう一度返してもらうことはできませんか?」

「ええ? 回収したゴミをですか?」

「ええ、そうなんですよ。何とか電話とかしていただけませんか?」

 もう無茶苦茶、無理だとは思ったが念のために毎朝衛生さんに電話をしてみました。普通はしないだろうなと思いつつ。

「オーナーさん、それは無理だっせ。もう焼却場に持って行きましたわ」

 まあそうでしょう。あまりに非常識です。それでM谷さんに電話して、無理ですと伝えました。ところが、一時間ぐらい経って再びM谷さんから電話があり、やっぱり無理なんでしょうか? 私が、ゴミ焼却場まで探しに行きますから、と、とんでもないことを言い出した。うーん、クレイジーだ。これにはさすがに僕も閉口した。ちょっと大きな声で「無理です!」と言うと、ズボン一着のために死んでしまうんじゃないだろうかと言うぐらい酷い落ち込み方で、一週間ぐらいは元気がなかった。水道屋の「あの人、おかしいですよ」が頭から離れなかった。

 

 自室内ならまだ良かった。いや、けっして良くはない。でも僕が胸の内に収めていればまだなんとかなった。だが、共用部分にある物はそう言うわけにも行かない。例えばゴミ箱、消火器、自転車置き場の自転車の位置など、元々決まった場所に置いてある物が、何かの拍子に少しずれていたり、自転車の駐輪位置が違っていたりした時、M谷さんは勝手に元の位置に戻したり、動かしたりした。消火器などの設置物ならばまだ良かったが、自転車を勝手に移動させたのはまずかった。自転車は住人の所有物であるし、何かわけあって所定場所以外に止めていることもあるだろう。中には若い女性が乗っている自転車や子供さんの自転車もある。

 ある時、M谷さんが二〇一号の浸水マダムの子供(小学生の女の子)の自転車を勝手に触っているところにマダムがばったり出くわした。そして当然ながら私のところへ苦情を言いにやって来た。

「大家さん、三〇六の人、勝手に娘の自転車触ったりしてすごく気持ち悪いんですけど、なんとかなりませんか?」

 最もだと思う。マダムは、部屋に蜘蛛が出た時にわざわざ電話で僕を呼びつけるぐらいちょっと神経質なところがある。小さな娘の自転車を中年オヤジに勝手に触られたら大騒ぎするのも頷ける。この時は、厳重注意しますと言って何とかその場を収めた。ところが、度々自転車置き場で自主的整理整頓にいそしむM谷さんの姿が目撃されるようになると、他の住人から「タイヤの空気が抜かれている。何回入れても抜かれている。M谷さんの仕業に違いない」などとあらぬ噂を立てられるようになってしまった。(実際はバルブのムシが劣化していただけ)

 それ以外にも「挨拶しようと声を掛けたのに、無視された」「こっちは何もしていないのにきつく睨まれた」「ドアを開けた時、部屋の中を覗かれた」「野良猫に餌をやっている」などなど、もう何かある度に、皆がM谷さんを疑い、そして怖がった。一つ二つ何か指摘されると、もう皆が疑心暗鬼になる。僕がいくら「あの方、ちょっと精神の病気なんです」と説明しても、それは返ってM谷さんに対する恐怖や不安を煽るだけだった。病気だから許される、は共同生活では成立しない。

 もちろんM谷さんにそのことは重々注意した。しかしその度に、自分は絶対に悪くないし、迷惑をかけているつもりもないと言い張る。

 そのうち「ボクはどこへ行っても、いつもみんなからそんな風に言われて誰にもわかってもらえない」と、とうとう泣き出す始末だ。これには困った。たしかに悪意のないことはわかるし、病気なのもわかる。

 しかしここを大家の立場から言えば、やはり放置はできない。そうこうするうちに、住民たちが団結して、M谷さんに出て行ってもらわなければみんなここを出て行くというところまで発展してしまった。もうこうなると社会問題だろう。僕自身もうどうしようもできなかった。藁をも掴む思いで、役所の福祉課にも相談したが、犯罪行為ならまだしも、ただの迷惑行為、それも故意ではないことならば、行政は手出しできない。そっちで解決してくださいとのこと。当然だ。

 たった一人の居住者のために、うちのマンションは存亡の危機だ。これは決して大げさではない。この頃から、M谷さんの奇行はうちのマンション内だけに留まらず、近所中でもかなり有名になっていた。

 商店街を誰かと大声で話しながら歩くM谷さんの姿が度々目撃されるようになった。もちろんM谷さんは一人きりだ。時には機嫌よく笑いながら、時には怒りながら、時には悲壮な表情で、まるで最近よく見かける携帯のハンズフリーよろしく、ちゃんとした会話が成立している。でも、M谷さんは実際には誰とも話をしていない。独り言だ。いや、彼の中ではいつも特定の相手がいたのだろう。

 またある時、駅前の不法放置自転車をめぐって警察沙汰になったこともあった。元々駐輪禁止場所に停めていた持ち主も悪いが、それを勝手に移動させていたM谷さんにも大いに問題があった。自転車の持ち主が、度々自転車の移動をしに来るM谷さんを待ち伏せして、そこで言い合いになり、誰かが警察に通報してしまった。マンション内の自転車だけでなく、公共の場所の自転車にまで手を出すとは。恐るべし!

 そんなある日、情報屋四〇一のおばちゃんが僕に言った。

「あのな、にいちゃん、三〇六のおっちゃんおるやろ。あの人な、この辺りでもう有名人やで。ちょっとアレやて。ほんでな、にいちゃん知らんやろうけど、みんなここのマンションのことな、キ〇ガイマンションや言うて怖がってるらしいで」

                                     続く

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