唐辛子
マンションは、うちから歩いて十分ぐらいのところにあった。僕は大家さんなので、どうしても他の賃貸住宅を見ると、あちこちチェックするクセがある。もう職業病だ。
こんなところにこんなマンションがあったなんて知らなかった。と言うことは、最近建って間もないと言うことだろう。いわゆる今流行のレオパレス様式。おしゃれな張りぼて二階建て、昔で言うところの文化住宅だ。家賃を調べたところ、うちより少し安いかもしれない。間取りもうちの1DKと同等。バストイレ別。日当たりはうちの北向きの部屋よりはるかに良さそうだった。ただしオートロックは無し。誰でも部屋の前まで入って行ける。現に僕も入った。これは各戸でしっかりした戸締りが必要だろう。セキュリティ面で多少の不安がある。あと、壁は薄そうだ。きっと両隣、上下にけっこう気を遣わなくてはならないだろう。そこらへんでT田さんが、出ようと思ったのかもしれない。もし、僕が、うちとどちらに住むか? と聞かれると難しいところだが、やっぱりうちかな。
一通りチェックを終えたので、管理人室を訪ねる。呼び鈴を鳴らすと、オーナーらしき年輩のご婦人が出られた。
実は僕はこの方を知っていた。町内会の会合で何度かお見受けしたことがあり、向こうも僕の顔をご存じだった。その上、同じ大家さん同士と言うことで話が早かった。いきなり本題を聞く。
「すみません、つかぬことをお伺いしますが、以前こちらにT田さんとおっしゃる方が住んではったと思うんですが……」
一気に顔色が変わった。
「あー、T田さんね。今お宅に引っ越さはったんですか?」
「ええ、実はそのことでちょっとお聞きしたいことがありまして」
「何か問題起こさはりましたか?」
「ええまあ」
「そうですか。うちでも隣の住人と揉めて大変でした」
「やっぱり!」
「ええ、あの方、ちょっと病気みたいですよ。被害妄想言うんですか。あれが酷いみたいでしたわ」
「どんな揉め事起こしたんですか?」
「何かね、酷い臭いがする言わはってね、それで隣の人と大喧嘩ですわ」
「臭い? どんな臭いですか?」
「トンガラシの臭いや言うてね」
出た! 唐辛子! 僕はしばし絶句した。
「それでその言い掛かり付けられたお隣の方が、もうこんなおかしな人の隣には住まれへん言うてね、結局出て行きました」
「それってT田さんが、喧嘩して追い出したってことですか?」
「ええそうですよ。隣を追い出して満足したのか、一ケ月したら今度はT田さんも出はりました。ほんでお宅へ行きはったみたいですね」
あかん! 今まさに同じことが起こっている。T田さん、絵に描いたような賃貸住宅クラッシャーじゃないか。これはまいった。早急に手を打たないとやばい。周りからすべて人がいなくなる。
と、その時、携帯が鳴った。ちらりと見る。三〇六号 S口の表示だ。
「もしもし、どうしました?」
「助けてください! 家主さん。T田さんがエライ勢いで怒鳴り込んで来はって、私もう怖くて。すぐ来てください」
「部屋の中に入って来はったんですか?」
「いや、さっきから、出て来い言うてドアをドンドン叩いてはります」
「わかりました。開けたらあきません。すぐ行きますから」
目の前でY澤さんがじっと僕の会話に聞き入っていた。
「あの、T田さんですか?」
「ええ、隣に怒鳴り込みに行ってはるみたいですわ」
「ああ、うちとおんなじやわ。わかりました。私もいっしょに行きましょう。私がおったらT田さんも言い逃れできへんでしょう」
「あ、助かります。お願いします」
「いいえ、私も同じ大家としてこういう人は放っておけません。ずっと同じことを繰り返してはるに違いありませんわ」
心強い味方を得た。一人では大変心細かった。有難い。そして僕とT田さんのマンションの前のオーナーであるY澤さんは、今まさに勃発している事件現場へと向かった。
続く




