そんな悠長なこと言うてたらあきません
ここでちょっと大事なことを書き忘れていた。T田さんのクレームを言いに来た三〇六号のS口さんのことについて触れておきたい。これを書かずして後述のT田さんとのやりとりは書けない。後先話がややこしくなって申し訳ない。
S口さんは以前三階の三〇二号にご主人と二人で暮らしていたと書いたが、実はこの亡くなられたご主人に大きな問題があった。重度のアルコール中毒だったのだ。そしてお決まりのDVだった。ご主人は元々宅配のドライバーだったが、無類の酒好きで、それが元で職を失った。アル中で車の運転を生業になどできる筈がない。
そしてご主人、仕事を辞めても当然、酒をやめることはなく、気の毒な奥さんはDVの被害に遭いながらも、朝から晩まで働いてアル中のご主人を支え続けた。ご主人、しらふの時は、いわゆる借りて来た猫のようにおとなしくまじめな人だったが、ひとたび飲むと人格が一八〇度変わる。絵に描いたような典型的なアル中だ。マンション内でもご主人が、時々、飲んで大声で騒ぐことがあったので、他の住人さんたちは随分と怖がって僕のところへ苦情を言いに来た。
その度に僕はS口さんの奥さんに注意をするために出向いたが、玄関口で、顔面を腫らした奥さんを見て、気の毒で(本当は恐れてか)何も言えなくなってしまった。
そんな日々が半年以上は続いただろうか。三階から大きな怒鳴り声が聞こえる度に、ああ、また暴れている! と、僕にとっても大きな悩みの種だった。
その間も奥さんはたびたび暴力を受け、警察にも何度も相談した。十分傷害罪が成り立つのだが、奥さんは訴えることはなく、じっと耐えるばかりだった。そしてもうどうしても手に負えないと言うところまで行き、いよいよ強制入院か、と思われたある日、ご主人が、マンションの前の道で吐血して倒れ、救急車で病院に運ばれた。結果、肝臓癌で、もうすでに手遅れだったらしい。それから三ヶ月も経たずして亡くなった。
毎日毎日、顔の形が変わるぐらい暴力を受けて、暴れて、その度に部屋は電車が通過して行ったみたいな惨状だったと聞く。そんな目に遭っても、ご主人が亡くなった後、奥さんの落ち込み様は相当酷かった。もしかしたらご主人の後を追うのではないかと僕は心配した。幸いなことに、少し経って奥さんは元気を取り戻し、部屋も三〇二から1DKの三〇六に移られた。元々大変気丈な方だった。
でも僕は心から思った。一人の人間が死んだと言うのに、周りの誰もが「ああ、亡くなってほっとした、良かった」と、陰で言う。確かにマンションもトラブルから解放された。つまり助かったわけだが、死んで良かったなどとは思われたくないものだ。
さて脱線が過ぎたが、S口さんの奥さんについての人となりを十分わかっていただけたと思うので、ここでT田さんの問題に戻りたい。
虐待の可能性を僕に訴えるS口さん。きっと自分もご主人からずっとDVを受け続けて来たからこそ感じるところはあるのだろう。ただこの問題は非常にデリケートな社会問題だ。
目の前で暴力を振るっていたり、暴言を吐いていたり、後、身体に明らかな痕跡が残っていたりすれば、それは虐待なので止めることはできる。しかし、そうではなく、ただ声や物音だけで注意したとしても、本人が虐待ではなくしつけの範囲でやっていると言われるとそれで終わってしまう。つまり現行犯か確たる証拠がなければ第三者は動けない。親子の問題に他人が口出しするな、と言うことだろう。
今回のケースもS口さんがT田さんの子供を叱る声を聞いただけなので虐待であるとは言い切れない。本当は少しでもその可能性があるなら動くべきだと思うが、現時点では監視の目を強化することぐらいしかできなかった。
それをS口さんに説明するが、やはりS口さん、虐待される側の心情がよくわかっているのかして、まったく納得してもらえなかった。
「そんな悠長なこと言うてたらあきません!」
そう言い残してS口さんは帰って行った。
ただ、この出来事が起こったのは今から十五年以上も前のことだった。現在、大きく事態は大きく変わって来ている。参考のために、以下少し引用しておきたい。
▼平成二十七年七月より、児童相談所全国共通ダイヤルが「189」(いちはやく)という3桁の番号になり、令和元年十二月に、「児童相談所虐待対応ダイヤル」へ名称が変更されました。「189」(いちはやく)番にかけると、お住まいの地域の児童相談所につながります。※一部のIP電話からはつながりません。※令和元年十二月から通話料が無料になりました。虐待かもと思ったら、ためらわずにお電話ください。あなたの連絡で子どもや保護者が救われます。
また、出産や子育てに関する悩みや相談がある方もお気軽にお電話ください。通告・相談は匿名で行うことができ、連絡した人や連絡内容に関する秘密は守られます。情報をもとに、関係機関を連携しながら、子どもの安全確認を行います。
子どもの状態により、子ども家庭センター(児童相談所)が保護の必要があると判断した場合は、子どもの保護を行います。また、その家族の相談に応じることで虐待が防止できると判断した場合は、市区町村もしくは子ども家庭センター(児童相談所)が、保護者や子どもへの支援を行います。▲ 引用ここまで。
要は問題が起こってからでは遅い。それは重々わかっている。すぐにでも行政に連絡すべきであったと思う。ただ、T田さんのケースは少し他とは違っていた。
続く




