あの、虐待……
6、T田さんとS口さん
さて、いよいよ数いるマンション住人の中でも、大関、横綱級の問題児たちについて書いてみたい。
前述のY田さんも大概酷かったが、実は今から書く人々に比べればまだマシなのだ。なぜなら、確かに、僕への心理的ダメージはあった。けれども、お金さえ出せば、もちろん常識的な範囲内の額であると仮定するが、例えは汚いが、腹の中に溜まった便秘が下剤一発で治るように、溜まったトラブルを後腐れなく、すっと解決することはできる。大変容易である。
しかし世の中、お金で解決できない問題の方が本当に厄介である。経験上、トラブルの99%は金銭で解決できると思う。しかし、残り1%は、お金では解決できない。私情や怨恨が絡んでいる。いくらお金を積まれても、恨みは晴れない。人の恨みは怖い。だからこそ、そのわずか1%の中で怨恨による犯罪が発生するわけだ。
――ああ、憎い、憎い、殺してやりたいほど恨めしい。
人の情と言うものはいかに恐ろしいものか。それに間近で巻き込まれる方もたまったものではない。
さて、本題に入ろう。うちのマンションの構造上、二〇五、三〇五、四〇五の三部屋は、両隣を部屋に挟まれているので、左右に窓はなく、唯一あるベランダは北向きで日当たりが悪く、部屋はジメジメしていて灯りを点けなければ昼なお暗い。
そして決定的なことは、バストイレユニット一帯式であること。
ここで少しユニットバストイレについて書いてみたい。ご存じの通り、バストイレ一帯式は、一つの部屋の中に浴槽とトイレ、洗面の三点があり、トイレと浴槽をカーテンで仕切って使用する。
体を洗うためには、カーテンを閉めて狭い浴槽の中で洗うか、もしくは床が水浸しになることを覚悟で便器にでも座って洗うしかない。不人気の原因はそこにある。特に潔癖症の人は「えー、体を清潔にするお風呂と汚い排泄を同じ場所で?」と、いわゆる精神衛生上よろしくないと考える。まあ僕もけっこうきれい好きなのでわからなくもない。
しかし単純に物理的衛生面のみで考えるならば、下水の配管は風呂もトイレも炊事場も同じなのだから、よほど汚く使わない限り汚いと思うのは妄想だ。もっと言うなら、トイレのコックを流した時に、上からタンクに補水される水も、キッチンの飲料水も同じ上水道なのに。要は気にするかしないかだけである。お風呂場でこっそりオシッコしたことのある人だって絶対いるはずだ。
でも賃貸物件としては、その「気持ちの問題」は致命的になり得る。人は、バストイレ一帯か別かと問われるなら、もし同じ家賃なら間違いなくみんな別を選ぶ。
さて三〇五号に話を戻そう。窓無し、北向き、バストイレ一帯と、これだけ悪条件を揃えているので、一度空いたら、なかなか埋まらない。こんな造りにした、今は無きK工務店め! と、今更恨んでも仕方がないが、僕にとっては今後も悩みの種に違いない。
何とか方法はないかと考えて、そしてある時、三〇五号の住人の退居をきっかけに、問題だったユニットバスをセパレートに変える大リフォームをやった。その費用はなんと百万円。家賃は五万五千円だったので、回収するのに約十八ヶ月、つまり1年半。この期間は賃料が入らないのと同じだ。
この工事をやったかどうかは一目見ればわかる。
普通、ユニット一帯式のバストイレには、湯船の切れ目あたりの壁に、丸い小さな洗面台が付いていることが多い。 洗い場を確保するために、トイレ(便器)だけ移動しても、その壁の洗面台はそのままの形で残存してある。これはテレビバラエティ番組などの部屋探しコーナーで風呂場を写した時にちょくちょく見掛ける。
ああ、ここ、切り離し工事やったな、と僕にはすぐわかる。同時に、百万円掛けて苦肉の策だなと、同情を禁じ得ない。涙、涙である。
でもどうせやるなら洗面台も移動した方が見た目も使い勝手も良いに決まっているが、ここらへんはもう妥協ということになる。とりあえず、広告にバストイレ別を謳えれば良しとするわけだ。
百万円のバストイレ分離工事はいよいよ完成した。ついでにキッチンも2口コンロを置けるスペースを作った。今までこのタイプのキッチンは据え付け型の一口コンロだったので、二つの調理を一度にするためには、カセットコンロなどを使わなければできなかった。自炊される方に取って、「大家さん、便利悪いんですけど!」と、これも居住者からよく聞くクレームだ。
完成した部屋を見れば、なかなか良い出来栄えだ。残る205、405も余裕があったらぜひやろうと決めた。いつのことになるかわからないけれども。
そして募集を掛けたらひと月も待たずに応募があった。超お荷物物件は、一転して人気物件になったようだ。ただ、いつものSホームさんだったので、多少の不安はあった。
やって来たのは、T田さんと言う、三十五才のシングルマザー、小学四年生の娘さんとの二人暮らし。
一見ごく普通の小柄なお母さん。ちゃんと定職にも付いておられる。外見は二〇一の妖艶マダムには負けるが、まじめそうな女性なので一安心。きっときれいに住んでいただけるだろうと思っていた。
さて、一ヶ月が過ぎた頃。三〇六号室の方からクレームが届いた。三〇六号に住んでいるのは、S口さんとおっしゃる六〇代の一人暮らしの女性。以前はご夫婦でうちの三〇二号室(2LDKファミリータイプ)の方に住んでおられたが、不幸なことにご主人が病気で亡くなり、同じ階でたまたま1DKに空きがあったので、マンションを出ることなく、横にスライドされた。
本当は、不動産屋を通して、新しく契約書を交わし、敷金や礼金も新たに頂くことになるのだが、部屋は変わるけれど、そのまま住んでいてもらった方が、家賃の空白期間がなくて済む。だから僕は、Sホームさんには言わずに、個人的にお受けした。もちろん礼金も頂かなかった。S口さんにとっても渡りに船だったと思う。
さてそのS口さんが、僕のところへやって来て言った。
「家主さん、あの、お隣の方のことなんやけどね」
「はい、どうかされましたか?」
「夜な夜な、大声とか女の子の泣き声が聞こえますねん」
「なんですかそれ?」
「直接見たわけじゃないですけど、あの、虐待……」
「えっ!?」
続く




