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リムジンバス

 火曜日になった。

 当時、わが国全体がそうであったように、巷では、『二十四時間働けますか?』などと言う馬鹿げたフレーズが流行語大賞にまで選出される時代だった。つまりバブルだ。後から命名された。はじけたからバブルなのであって、はじけなければきっと違った呼び名だったのだろう。みんな小さな不満はあったけれど、その体制自体に何の疑問も持たなかった。話しを戻せば、僕の勤務先でも毎日の残業が通例となっていた。それも何時までだとか決まりはなくて、上司がやめなければいつまでも続いた。会社は残業なしでは成り立たない。しかしその日は、大分発大阪行きの最終フライトに間に合わせるためにどうしても定時で上がらなければならなかった。前もって上司にそのことを相談すると、不承不承ながら何とか許可を出してくれた。しかしよく考えると、何も無理やり早退するのではなく定時で上がると言うだけなのに、僕自身、他の社員の手前、大変申し訳なく感じていた。それも変だ。


 時間が来て、こちらから「お先に失礼します」と言わない限り、誰も何も言わない。黙々と仕事を続けている。仕方がないので遠慮がちに上司に伺う。

「おお、帰るか。母ちゃんのおっぱいたくさん吸わせてもらって来い!」

 などと上司は豪快に笑いながら言う。向こうは冗談のつもりだろうが、二十二才の僕はあまりいい気がしない。こちらの困り顔もまったくお構いなしだ。ふっと転職の文字が浮かぶ。とは言え、その時の僕には悩んでいる暇はない。さっさと着替えを済ませ、その足で大分空港行きのホバークラフトに乗り込んだ。

 天候は曇り。快調に走るホバーの船窓には白なのかグレーなのかよくわからない別府湾のぼやけた景色が広がっている。久々に家に帰ると言うのに憂鬱な気分だった。

 

 伊丹空港の到着ゲートを出た時にはすでに午後九時を回っていた。荷物らしい荷物もなく、母の好きなサヨリの干物を手土産にゲートを抜ける。これは今朝、例のおっぱい上司の奥さんがわざわざうちの母に気を遣って持たせてくれたものだ。下品な旦那に比べて良くできた奥さんだ。

 外に出ると、天王寺行きのリムジンバスはすでに到着していた。乗務員がバスのサイドトランクを開いて大きなスーツケースを押し込んでいる。その姿を横目に見ながら僕はバスのタラップを上がった。 機械油と有機物を混ぜたようなバス独特の臭いが鼻を突く。ざっと見渡すと、補助席を出すほどではないが、奥までほぼ満席だった。最終に近い時間なのだろう。さすがに混んでいる。

 ゆっくりと左右の席を見ながらバス後部へと進む。老若男女、乗客たちは皆一様に疲れた顔をしていた。たぶん僕もそう見られているのだろう。そして一番後ろから一つ手前通路側に一つだけ空いた席を見つけた。見れば茶髪の若い女の子が一人で陣取っている。後から来る誰かのために席を確保しているのかと思ったが、どうもそうではなくたぶん隣に誰も来てほしくないのだろう。僕は躊躇した。でもその女性と目が合い、彼女はすぐに席を開けた。僕は「すみません」と一言だけ声を掛け、ようやく席に落ち着いた。甘ったるいフレグランスがほんのり漂っていた。

 僕の勤務先は企業が経営する民間の水族館だった。その特殊な職業柄、早朝出勤は当然で、今朝は六時前から働いていた。普段なら今頃はもう寮でテレビを見るか、音楽を聴きながらうとうとしている時間のはずだが、今夜はまだバスの中にいる。長い一日だ。

 バスは阪神高速に入る。オレンジの照明に照らされた壁の向こうに滲んだ夜景が見える。金鳥と書かれたネオンサインを見たとき、ようやく、ああ、帰って来たんだなと思えた。そう、僕は帰って来た。それはいい。問題はなぜ、こんな時に帰って来たかということだ。

 ――どうしてもいっしょに行ってほしいところがあるんよ。

 あれからその言葉がずっと僕の脳裏に張り付いて離れない。今回、帰って来たくなかったのは、たぶんそのせいだった。普段なら、たとえ一日でも久々の帰省でほっとするところなのだろうが。

 天王寺駅から電車を乗り継いで、家に到着したのは午後十一時を少し回った頃だった。何とかその日じゅうに実家に戻ることはできたが、明日の夜には同じように大分まで戻らなければならないと思うと心が折れそうになる。でも玄関で僕を出迎える母は、割と元気そうで少しだけほっとした。しかしそれも束の間のことだった。

                                       続く  


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