M口さんの場合
3、M口さんの場合
こちらは涙無くしては語れない例。
今からもう十年以上も前になります。ある時、周旋屋(不動産紹介屋)さんのSホームさんから、三階三〇三号室、2LDKファミリータイプに応募が来たと連絡がありました。当時の家賃は確か八万円だったと思います。そこは前の住人が出てから三か月ほど空室でした。
入居希望者は、三十代女性独身、一人暮らし。仕事は飲食接客業――つまりアレです。お水さんですね。それも北新地のクラブ勤めでした。今までも何人か夜のお仕事の方が入居されていましたが、大体はパトロンさんが家賃を入れてくれることが多かった。仮に名前をM口さんとしましょう。M口さんもご多望に洩れずやはりパトロンさんがいらっしゃいました。そして一つだけ入居するに当たっての希望がありました。
「大家さん、仔猫がいるんですけどかまいませんか?」
お水系のお姉さんはなぜか仔猫とセットのことが多い。淋しいからかもしれません。うちは、本来ペットはダメなのですが、まあ仔猫ぐらいならば、それも退居時にきれいに修復する、他の部屋に迷惑を掛けないという条件で受けることにしました。
初めてM口さんにお会いした時は、メイクもそこそこに普段着でしたからこの平凡なお姉ちゃんが? と個人的な疑問を持ちましたが、ご出勤前にばったり玄関で出くわした時は別人でした。前述の二〇一さんも美人でしたが、ケタが違う。愛想も良く、品があってこれはパトロンの一人や二人はいてもおかしくはない。逆にこれはうちにとっても上客だと思いました。
その予想通り、入居後は月末の家賃支払いは、まったく遅れるどころか、二カ月分前払いしてくれることもあり、周りに悪い噂も苦情も出ず、会えばいつも愛想良く、おまけに超美人。もう店子の鏡のような存在でした。たまにパトロンさんらしき上品そうな紳士が出入りしていましたが、それも入居時にそういう人がいると聞き及んでいましたので、まったく問題はありませんでした。また、連れて来た仔猫は高そうな猫で世話もしっかりされていたようなのでこちらも問題はありませんでした。
さて入られて一年は過ぎたでしょうか。ある月の末日、初めてM口さんは家賃を持って来ませんでした。忙しいのか、たまたま忘れたのか、まあ、また持って来るだろうとそのまま放って置きました。
ところが、月が開けて、一日たっても三日たっても音沙汰がありません。いよいよこれはどうしたことかと、部屋を訪ねると鍵が閉まったまま、インターホンを押しても反応はありません。そこで携帯に電話してみました。残念ながら留守電でした。一応留守電にメッセージを残しておきましたところ、夜、電話がありました。
「すみません大家さん、お家賃ですよね」
「ええ、どうかしはったのですか?」
「それがちょっと病気になってしまいまして、先月末から急遽入院することになりました」
「病気? 大丈夫なんですか?」
「ええ、いずれわかることなんでお話します」
「はい」
「私ね、どうやら白血病になってしまったみたいなんです」
「ええ! それは大変です。それで……」
次の言葉が見つからなかった。
「一応抗がん剤治療と免疫治療とかやってますが……」
僕は言葉を失ってしまった。それでも頭の片隅に、家賃と猫と今後のことが浮んで来る。こんな時なのに、それを心配する自分も嫌だった。それが伝わったのか、M口さんは言う。
「大家さん、お家賃は必ずお支払いいたしますのでもうちょっと待っていただけませんか? それと猫は友達が預かってくれています」
「わかりました。どうぞ治療に専念してください」
「有難うございます。本当にご迷惑おかけしてすみません」
M口さんは毅然と言ったが、言葉が心なしか震えていた。早く支払ってくださいね、とは言えなかった。
その後、僕の心配をよそに、M口さんから直接の連絡はなかった。病院に問い合わせても個人情報を理由に詳しくは教えてもらえなかったが、M口さんをうちに紹介したSホームさんの話によれば、どうもあんまり調子がよくないらしい。Sホームさん曰く、溜まった家賃に関しては法的措置を取ることもできると教えていただいたが、そんなことできるわけはないと感じた。僕はやはり商売人としては失格なのかもしれない。
それから数カ月が経ち、M口さんのお姉さんと言われる方から電話があり、残念ながらM口さんはもう三〇三号室に戻ることはないと告げられた。
その次の日曜日に、お姉さんが郷里の山口県からうちにやって来られた。M口さんの部屋をきれいに片付けて、溜まった家賃もすべて支払われた。
僕は、退居時の部屋確認で初めてM口さんの部屋に入った。ほとんど後片付けの済んだ部屋は、まるで入居時と変わらないぐらいにきれいだった。ドアを開けた時、気密性の高い部屋の中にはまだ半年前の空気が残っていた。ほんのりと甘い香りが漂っている。それは玄関で彼女とすれ違った時と同じ香りだった。僕は心なしか、香りだけではなく、いる筈もないのに、まるでまだ彼女がここに居るような気配すら感じていた。
ざっとすべての部屋、洗面、バスルーム、トイレなどを見て回る。本当にきれいだった。住んでいる時だけでなく、退居時もM口さんは百点満点だ。煙草を吸わないM口さんの部屋の壁紙も貼り替える必要がないほどの白さを保っていた。 そのリビングの壁にたった一枚のポスターだけが貼られたままになっていた。「壁に貼られたポスターだけうまく剥がせないのでリフォーム屋さんにお願いしていいですか?」とお姉さんが尋ねられたので、僕は快く了承した。
それはエメラルドグリーンの海の上に掛けられた白く長い橋のポスターだった。お姉さんはそのポスターを前にして、「これ、あの子の好きな場所なんですよ」と泣きそうな声でぽつりと言った。それは彼女の生まれ故郷を代表する観光名所、角島大橋だった。M口さんは、たった一人、この都会の片隅で、つらい時はこの景色を眺めながら頑張って来たのだろう。
そう言えば彼女は、僕の知る限り、うちに引っ越して来てから一度も山口へ帰っていなかったように思う。もしかしたら何か帰ることのできない事情があったのかもしれない。僕は最後に残されたポスターをじっと見ていた。角島大橋、美しい風景だ。M口さんは、きっと帰りたかったに違いない。
そういえばパトロンさんの顔を見なくなって久しい。もちろん今日も顔を見せなかった。彼女の病気が発覚した途端に手を引いたのだろうか。夜の女とそれを買う客とのドライな関係なのだろうか。切ない。
そしてお姉さんは、大事な遺品といっしょに、小さな箱に入ってしまったM口さんを連れて郷里に帰られた。
お姉さんが帰られた後、僕はもう一度部屋に入った。再びポスターを見たところ、うまく剥がせば業者に頼むほどでもなさそうだったので、そっと剥がそうとした。と、その時、「ミャア」と鳴き声が聞こえた気がした。
僕は驚いて部屋中を探したが、猫はいなかった。もしかしたら猫が、挨拶に来たのだろう。M口さん、あなたは本当によく頑張った。どうぞゆっくり休んでください。僕はポスターに手を合わせて彼女の冥福を祈った。
午後五時を回り、僕は薄暗い部屋の南側の窓から外を眺める。ここからハルカスがきれいに見える。夕暮れの空の下に、完成間近のハルカスの頂上付近に、滲んだ光が点滅している。M口さんもここから日に日に上へと伸びて行くビルをずっと見ていたのだろう。でも結局、彼女は完成を見ることはなかったのだ。
その時、僕はふと気付く。部屋にはまだ微かに香水の匂いが漂っていた。
続く




