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ぎりぎりセーフ

 そして九月になり、H山さんは引っ越して行った。最後に一月分だけ家賃を頂いたので、残金は丸三ヶ月分、十四万一千円になった。しかし滞納金よりも、まず出て行ってくれたことによる、精神的苦痛からの解放の方が大きかったことに僕は気付いた。毎日毎日、どれほど頭を悩ませていたことだろう。 

 部屋が空いたらリフォームも必要だし、当然収入もなくなる。大損害ではあるが、取り敢えず先のことは何も考えたくはなかった。結果的にその後、四〇六号室が埋まるのは翌年三月まで掛かってしまった。

 ところが、H山さんの話はこれで終わらなかった。大変な続きがあった。H山さんが九月に出て行って約二ヶ月が経ち、翌月末、結局、分割で払ってもらえるはずの一回目の滞納金は、入金されなかった。そして翌月も翌々月も支払いのないままだった。携帯は幸い繋がったので、催促したところ、いろいろと理由はあるだろうが、要するに、「払いたいが、金はない」の一点張りだ。開き直ってどうする? こちらには念書がある。だが、そんなものただの紙切れであることにようやく気付く。

 金額にも寄るだろうが、高々、十万やそこらのお金。それでも回収するとなるとその手続きにかかる費用も下手したらそっちの方が高い。仮に少額訴訟を起こしても、何より本人が無いと言っているのだからどうしようもないし、差し押さえる財産などあるはずもない。刑事訴訟なら、刑務所に入って労働で返してもらうこともできるのだろうが、これはささやかな民事だ。今は本当に金でも部屋でも、貸主よりも借主が強い。

 それでも僕は引かなかった。年が明け、いよいよ返済期日の二月がやって来た。そこでもし、これで返してもらえなかったら、家まで取りに行ってやろうと考えた。

 そこで携帯に電話を掛けてみると……。

「お客様の都合によりお繋ぎできません」と冷たいコールが流れる。

 都合? 何だろう。もしかしたら僕の番号がブロックされているのだろうかとauに聞いてみる。もうどこまでも疑心暗鬼になる僕も嫌だったが、どうやら携帯代金未払いで止められているとのことだった。

 そして二月末日の夜、僕は教えられた住所のところへ向かった。 

 大阪市南部の大きな市営住宅群の一角、その一階にH山さんの部屋はあった。

 思っていたよりも立派な住宅だった。おそらく築は古いが、徹底的にリノベーションしたのだろう。公営やURなど、昔に比べるとずいぶん住み良くなっている。これで家賃激安なのだから民間では敵わない。部屋番号を端から見て行くと、あった。ネームプレートもH山と書かれていた。間違いない。

 ブザーを押す。がしかし、返事がない。というか、この人、うちに居る時もそうだったが、呼んで出て来たためしはない。ドアの横に小さい窓があるが、真っ暗だった。やはり無駄足だったのか。いやしかし、ここまで来てそのまま帰るのも癪だ。ふと隣戸の方を見れば、ドア上のネームプレートに「班長」との表記があった。そして横の窓から光が洩れている。こちらは在宅なのだろう。ためらっている場合ではない。僕は隣のブザーを押した。

「はい」

 返事に少しいら立ちが感じられた。まずかったかと躊躇していると、すぐに六十代ぐらいの男性が顔を出した。

「すみません、あの、お隣のM山さんのことを少しお伺いしたいのですが」

「え? あんた、M山さんの身内か?」

 男性は険しい表情で僕を睨む。思わず怯んでしまいそうになる。

「あ、いえ、私は以前、H山さんが住んでいたマンションのオーナーなんですが、数日前から電話が繋がらなくなって……」

「ほんな知らんのやな」

「知らんとは、何かあったんですか」

「あったも何も、昨日の晩や、警察やらレスキューやらいっぱい来てな、引き上げて行ったで。死後一週間やったらしいわ」

「え」

「せやから今日も朝からずっと質問攻めやで、俺、関係ないわ。H山さんなんかここへ引っ越して来てまだなんぼも経ってないし、ほとんど話したことないわ。迷惑な話や」

 こんな結末誰が想像できたのか。僕は唖然としながら家路へ向かった。悲しいことだが、H山さんが亡くなったことより、十四万一千円が頭の片隅でちらちら光って見えた。同情より悔しさが勝っていた。修行が足りないのか。

 しかしそのことをSホームさんに話すと、彼はこう言った。

「まあ回収できなかったのは残念やったけど」

「そうですね」

「良かったですやん、お宅じゃなくて」

 確かに。ぎりぎりセーフだった。よくよく考えたら、まったくその通りだ。

 ――事故物件! この言葉が、僕の心の片隅にずっと居座っていた。だから役所にまで足を運んだ。H山さんには大変気の毒だったが、これも母が、マンションを守ってくれたのかと思って、僕は家に戻って仏壇に手を合わせた。

                                       続く

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