一升瓶
「それでね、オーナーさん、一つお願いあるんですわ」
この期に及んでまだ何かあるのか?
「生活保護の住宅扶助で四万七千円しか出ませんねんて。せやから五万のとこ、なんとか四万七千円でお願いできませんか?」
できれば、できれば、お断りしたい! とはいえ、もう半年も空いている。おまけに来月もう一部屋空く予定だ。
「ほんまに大丈夫ですか?」
「ええ、何かあったらうちがケツ持ちますんで」
いつもながら軽いな、と思いつつ、不承不承、受けることにした。今思えばそんな目先の金に釣られて引き受けた僕がアホだった。
と言うわけで、H山さんは四〇六号に入ることになった。一見、人当たりの良い、どこにでもいそうな初老の男性だった。いつも水色の作業帽を被っている。脳梗塞と聞いていたが、歩き方に不自然さはない。太ってもいないので、階段の四階も、そう大変そうには見えなかった。これなら大丈夫だと思った。
一年経った。家賃はきっちりと払ってくれている。しかし、働いているようには見えなかった。正規雇用は難しいにしても、アルバイトぐらいならできるだろうと僕には見えたが、本人は働かない。福祉課の規定でハローワークには通っているらしい。でも毎月、福祉課に出す、生保用の家賃の支払い明細をもらいに来るところをみれば、やはり働かずに保護に頼っている。
ここでちょっと余談を挟みます。うちのマンションのゴミの収集は、大阪市の衛生局が回収しに来るのではなく、民間のゴミ収集会社に有料でお願いしている。ひと月約八千円から一万円ぐらいで月によって変わる。年末年始の大量にゴミの出る時期などは特別に三千円ほど高くなる。
一見、無駄なお金のように思えるが、実は、マンション管理でゴミの管理はけっこう頭の痛い問題だ。十五世帯もいれば、中にはまともに分別もせず、捨てられないようなゴミでも平気で捨てる人もいる。個人のマナー、倫理観の問題だからどうしようもない。それに市のゴミ回収は、一般ゴミは週に二回しか来ない。それに比べてうちが頼んでいる民間の業者は、毎日来てくれるので、いつでもゴミを出すことができる。昼でも夜でも関係なく出せる。これは新しい入居者さんに一番喜んでいただけるサービスだと思うので、少しぐらいお金が掛かってもここはケチるところではない。
さて話をH山さんに戻します。
うちのマンションではゴミの分別はせず、缶でも瓶でもいっしょに袋に入れて出すことができるのだが、なぜか、そのままむき出しで一升瓶だけ、あるいはワンカップだけと、ポンと捨ててある。もちろんゴミ屋さんは文句も言わずに回収して行ってくれますが、マナーとしては良くないことには違いない。
一体誰が捨てているのだろうと思っていた矢先、エレベーターの件の四〇一号のおばちゃんからクレームが入った。四〇一のおばちゃん一家は、うちのマンションが建つ、はるか昔からこの地に住んでいて、飲食店も経営している。だからこの辺りの情報にはものすごく精通している。
まあどこの街にも一人ぐらいこう言う情報屋さんみたいな人はいる。その情報屋四〇一号さん、例の口調で僕にわざわざこう言った。
「にいちゃん、四〇六のおっちゃんな、あんまりようない(良くない)のとちゃうか?」
聞いたところ、階段や通路で吸い殻のポイ捨てしているし、夏場などは夜でも玄関扉を開けっぱなしにして、テレビを大音量で掛けている。それが聞こえてうるさいのだそうだ。同じ四階で向かいの部屋なのでこれは迷惑なことに違いない。
「わかりました。ご迷惑かけてすみません。注意しておきます」
「いや、くくくっ、迷惑やなんて、、あ、うちが言うたことは……」
おばちゃんは口元を手で隠して卑屈な笑い声を出す。
「もちろんです」
「そうか、すまんよ。あ、ほんでな、あのおっちゃん、いつも酒飲んでるんかして、いつ会うても酒の臭いぷんぷんやで」
「そうなんですか?」
「そうやで、まあうちへちょくちょく餃子食べに来てくれてるからあんまり言うんもアレやねんけどな。よう外のゴミ置き場に酒瓶捨ててるやろ、あれ、あのおっちゃんやで。まあちょっとタチ悪いんちゃうかな、あ、いらんこと言うたな。すまんよ、くくくっ」
おばちゃんはニヤニヤしながら、右手の平をこちらに見せて、ひらひら。そしてそれだけ言ってすっきりしたのか、スタコラと去って行った。
ああ、そうか、やはりあの一升瓶はH山さんか。大体そんな気はしていたが、こうはっきりわかると、けっこう嫌なものだ。
この件についてはすぐに対応させてもらった。H山さんにも納得していただけた。でも、これはほんの始まりに過ぎなかった。
続く




