アイナメ
第一章 訳あって大家さんになりました
1、そいつは遠い世界の話なのか
一九九一年 一月十七日。
その映像がずいぶんと美しかったことを覚えている。激しくまくし立てる英語の音声とは裏腹に、十四インチの小さなブラウン管の中では藍色の闇に無数の白い糸くずのような閃光が次々と散って行く映像が映し出されていた。まるで燃え尽きかけた線香花火のようだ。でもこの光の到達点でいったいどのようなことが起こっているのか、僕には想像すらできなかった。
僕は一人、大阪の実家を遠く離れ、九州は大分にある社員寮の食堂で、すっかり遅くなった夕食を食べながらそのニュースを見ていた。
「とうとう始まったねぇ」
後ろでテレビを見ていた寮母さんがぽつりと呟いた。僕は冷めたアイナメの煮付けに箸をつけながら、その画面をぼんやりと眺めていた。
と、その時、一本の電話が鳴った。刹那、僕が席を立とうとしたら、「いいで、あたし出る。あんたで最後やけん、早よ食べんね」と寮母さんが言った。親切心ではなく、いかにも早く片付けて帰りたい気持ちが滲み出ていた。何も好き好んで遅くなったわけではないのに、とちょっとだけ心にひっかかった。
すぐに玄関の方から寮母さんの慇懃な挨拶と話し声が聞こえた。
「はい、はい、いえいえそんな、あ、はい暫くお待ち下さい……」
暫くして寮母さんが僕を呼ぶ。
「あんたにやった。大阪のお母さんからよ。もう食べ終わった?」
「あ、はい」
僕は箸を置いて速やかに席を立つ。依然としてテレビからは英語のやかましいアナウンスが流れていた。
「もしもし、わたし……」
受話器から聞こえる母の声はいつもと違ってどこか元気がなさそうだった。
「どうしたん、こんな時間に」
「あんた遅くまで仕事してるんやね?」
「まあな、今一番忙しい時やからな」
「そう。あんまり無理せんように」
「うん。それで何か急用?」
一瞬の沈黙の後、どこか改まった母の低い声が受話器から響いた。
「うん、それがな、あんたに、どうしても聞いてもらわなあかんことがあるんよ」
「それって、もしかして良くない話?」
「うん、まあ。あんた、確か水曜日が休みやったよね?」
「うん、せやで。なんで?」
「来週の水曜に一度こっちへ帰って来られへん? あれやったら火曜の最終便ででも」
「えらいまた急な話やな。電話じゃあかんの?」
「うん。どうしてもいっしょに行ってほしいとこがあるんよ。飛行機代ぐらい出すから、な?」
僕は嫌な予感しかしない。
「……わかった。何とかするわ」
「無理言うて悪いね、忙しい時に。じゃあ、体に気をつけて、おやすみ」
「おやすみ……」
それで電話は切れた。有無を言わせない切羽詰った母の声。受話器の向こうの今年七十になる母の暗澹とした顔が容易に思い浮かぶ。僕の心の中に言いようのない不安が広がった。
食堂に戻ると、すでにテレビのスイッチは切られていて、寮母さんの姿はもうなかった。テーブルの上に置いたままだった僕のトレーは片付けられていた。さっきの母の不安な声と食べ残したアイナメの片身が僕の心に混在していた。