必殺の猫パンチ
フローレン家の家訓は『 出る杭は打たれる』である。
出なければ杭が打たれる事は無い。
なのでそこで争いが起こる事もない。
自分が我慢さえすれば穏便に済ませられるような事は、敢えて何も言わずに許容する事を選ぶ人達だ。
使用人達はその反対だが。
ソアラは特にそれを強く望む傾向があった。
だけど……
どうしても我慢出来ない理不尽な事が起こる時だけは、最大限のエネルギーを要して立ち向かうのである。
今、ソアラの前に……
手には籠を持ってピンクのドレスを揺らしながらルーナが現れた。
その姿は、まるで天使が籠から取り出した幸せを、辺り一面に蒔いているかのように可憐だ。
誰もが見惚れる程に。
まだソアラとルーナが幼い頃からそれはあった。
その天使に周りの者達は皆釘付けになった。
大人達は……
その天使の横にいる少女の事を誰も気にする事は無かった。
誰からも見られる事も無く、話し掛けられる事も無い。
まるでそこに誰もいないかのように、背を向けられ続けた少女は……
普通である事を何よりも求める大人になっていた。
何事も仕方無いと諦めれば傷付かないで済む。
諦めれば……
また、普通の日常になるのだからと。
***
「 ルシオ様~わたくしがお夜食を作って参りましたぁ 」
ソアラは拳に力が入った。
彼女のその次の行動を想像する事が出来た。
ルーナはルシオの腕に飛び付く筈だ。
ルーナは男女問わず誰にでもフレンドリーである。
自分のテンションが上がると、腕に絡み付いて来たり、抱き付く所為をよくするのだ。
可愛い自分にそんな所為をされたら、誰もが喜んでくれるだろうと言う自信の元に。
周りの者がどう思うかなんて、彼女は決して考えてはいないのである。
ルーナが近付いて来る。
ソアラは拳に最大のパワーを込めた。
ルーナの前に飛び出たソアラは……
その可愛らしい顔にグーパンを食らわせた。
「 私の殿下に手を出すなーーっ!!」
形の良い鼻からはみるみる血が吹き出し、自慢の可愛らしい顔は血まみれになった。
勿論、それはソアラの妄想だ。
だけどその勢いのままに……
ルシオに駆け寄って来るルーナの前に、ソアラは両手を広げて立ちはだかった。
思わぬバリケードに、慌てて立ち止まったルーナはその時初めてソアラの存在に気が付いた。
ソアラはルーナが持っている籠の中身が目に入った。
ルーナのお手製のクッキーだ。
これを配れば大抵の殿方はメロメロになると言う代物だ。
経理部の男達や、騎士団の男達にもルーナは何時もクッキーの差し入れをしていたのだ。
お手製を誇示しているが、昔はシェフが焼いていた。
今は捏ねる事は自分でするようになっていたが、難しい焼きはシェフにお任せだった。
自分で焼くと焦げてしまうからだ。
ルーナのクッキーを見てソアラはいけると思った。
殿下はクッキーよりも饅頭を食べてくれたのだからと。
そして……
甘いものも苦手なのを知っている。
「 殿下はお饅頭が好きなのですわ。そして甘いものは苦手ですわ 」
ソアラはフフンと勝ち誇った顔をした。
辻褄の合わない事を言っているのには、気付いてはいない。
ソアラはマウントを取りにいったのだ。
自分の方が殿下の事をよく知っているのだと。
「 ソアラ!? ……どうしたの? 寝る時間はとっくに過ぎているわよ? 」
「 !? 」
ソアラの言葉は全くルーナには響いていなかった。
響いていない所かスルーされ、自分の心配までされて。
そう。
ルーナは良い子なのだ。
気配りや気遣いの出来る優しい天使みたいな子なのである。
「 ……眠れ無くて…… 」
「 まあ! 珍しいわね。でもあんな事があったから仕方無いわ 」
わたくしも怖かったわと、ルーナは籠を持って無い方の手で自分の胸を押さえた。
「 でも……遅くまで起きてると、体調が悪くなるんだから、早く休まないと駄目よ。皆が貴女の心配しているのだから 」
バリケードと化して、両手を広げたままのソアラをルーナが見つめた。
ソアラの方が背が高い。
ルーナは背が低いのが悩みだと言う。
ソアラの、スラリとしたスタイルが羨ましいと何時も言っていて。
だけどそれは違うとソアラは思っている。
彼女は小さくて可愛い天使のような自分を、演出する術を持っているのだから。
「 ………分かったわ…… 」
ルーナに諭されてソアラは小さく頷いた。
皆が心配しているのだと言われたら……
寝るしかない。
そして……
こんなにも優しいルーナから、マウントを取ろうとした事を恥じた。
固く握っていた拳を解いて、ルシオの前で広げていた両手を下ろした。
そして……
ルーナはソアラの後ろにいるルシオを見やった。
***
「 駄目だ! 歯が立たない 」
客間のシリウスの部屋にいたシリウスとフレディが、部屋のドアの前からこっそりとその様子を見ていた。
フレディはディランの格好のままに。
帰ろうとしてドアを開けたら、この状況だったと言うわけだ。
ソアラちゃん頑張れと応援している。
「 あれは猫パンチだな……弱過ぎる…… 」
フレディは声を殺して、肩を揺らしながら笑っていて。
フレディの横にいるシリウスは額を押さえている。
女官として仕事をしている時は……
あれだけイキイキとしていて、弁も立つと言うのにと思いながら。
ソアラを押しやり、ルシオの前に進み出たルーナはルシオに籠の中身を見せるようにしてニッコリと笑った。
「 フルーツを多めにして、甘さを抑えましたわ。ルシオ様のお好きなお酒にも合う筈ですわ 」
ルーナが持っている籠の中には、クッキーだけでは無く、お酒の瓶も入っていた。
流石は気配り上手なルーナだわとソアラは感嘆した。
何もかも完璧だと。
それに私は……
殿下のお好きなお酒なんて知らない。
ソアラはルーナにマウントを取られた。
ソアラの出したパンチは猫パンチだった。
ハイエナには全く効果なしの。
「 早くご自分のお部屋にお入りになって下さい 」
ルーナが促すようにルシオの腕に手を掛けた。
何時もならば……
ここで諦めて退くのだが。
負けたく無い。
言わなければならない事は……
言葉に出して言わなければ何も解決はしない。
今、自分の目の前で……
愛しい人が、他の女と自分の部屋に入ろうとしているのだ。
ディランの言葉が頭の中でリピートする。
『 肉食女は、もう侍女としてルシオちゃんの寝室にも出入りしているのでしょ? 彼女は何時でも夜這いが出来るのよ 』
ソアラはルシオの腕に手を添えているルーナの手首を握り、ルシオの腕から離した。
「 殿下はわたくしの……ものなのですから……気安く触らないで! 」
わたくしの……から後の語尾が、消え入りそうな程の弱々しい声になってしまったが。
ソアラは最大限の勇気を爆発させた。
顔は真っ赤になっている。
「 ソアラ……どうしたの? 貴女らしく無いわよ。わたくしは侍女なんですから、ルシオ様のお世話をするのが仕事だと言う事は分かっているでしょ? 」
ルーナは再びルシオの腕に手を掛けようとした。
しかし……
ソアラはルシオの手の指を掴んで自分の方に引っ張った。
頑張っている。
めちゃくちゃ。
その時……
「 ルーナ嬢! 今日はもう下がりなさい。カール! ルーナ嬢から籠を受け取っておけ! 」
ルシオがルーナとカールに命じた。
手はソアラに握られたままで。
「 僕は今からソアラと散歩をするから、今日は飲み会は中止だ 」
「 御意 」
頷いたカールはルーナの側へやって来た。
「 でも……折角ルシオ様の為にクッキーを焼いたのに。それに……普通ならソアラはもう寝ている時間なんですよ? 連れ歩くのは可哀想ですわ…… 」
ルーナはソアラを心配そうに見つめ、直ぐにルシオを見上げた。
上目遣いで。
「 本音はどっちかな? 」
「 前者ですね 」
「 だろうね 」
「 猫パンチは効かなかったですね 」
「 いや、効いてる輩が一人いるわ 」
フレディとシリウスがルシオを見た。
ルシオは……
惚けたままに、ずっとソアラを甘い顔で見つめていた。
蕩けそうな程の熱い眼差しをして。
ソアラが両手を広げて自分の前に立った姿に感動した。
心臓の鼓動がドキドキと激しく波打つ程に。
そして……
「 殿下はわたくしのものなのですから気安く触らないで! 」
消え入りそうな程の小さい声だったが……
ソアラの直ぐ後ろにいたルシオには、その声がはっきりと聞こえた。
ルシオは……
ソアラの猫パンチに、完全にノックアウトされたのである。
「 ルーナ嬢! 殿下の命に、でもは必要ありませんよ! 」
カールはルーナから籠を手に取った。
「 国民ならば当然の事であり、侍女として王族に仕えるのなら尚更です 」
……と、強い口調で。
「 ……はい 」
ルーナは……
去って行くルシオとソアラの後ろ姿をぼんやりと見ていた。
カールが更にルーナに忠告をする。
「 それに、何処の誰が作ったか分からない料理は、王族は食べませんよ 」
「 そんな……わたくしはソアラの友達で、ルシオ様の侍女……で…… 」
「 これからはソアラ嬢にも食べさせないで下さいよ 」
彼女は既に王族の一員なのですからと言って、カールは持っていた籠を侍従に渡して、自分の部屋に向かって歩いて行った。
侍従はワゴンをカラカラと押して、元来た廊下を引き返して行く。
ソアラが既に王族?
ルーナの心がザワザワと揺れた。
どうしてこんなにも全てが上手く行かないの?
何故わたくしが優先され無いの?
こんなにも努力をしてるのにと、ルーナは下唇を噛んだ。
ルーナは、常に自分が最優先される人生を生きて来た。
自分では何もしなくても。
しかし……
今はこんなにも努力をしている。
なのに何故思うようにならないのかと。
この夜は……
ルシオと、より親しくなるつもりだった。
ルシオの侍女として側に近付けたのは良いが、バーバラの監視が激しかった。
ルシオの着替えだって、後ろからこっそりと覗いただけの。
なので……
侍女としてじゃ無ければ、一緒に酒を飲めるのでは無いかと思っていたのだ。
まさか……
ソアラに邪魔をされてしまう事になるとは、思ってもみない事だったのだ。
ソアラは……
気が付けば何時も自分の側からいなくなっていた。
今回もおとなしく自分の部屋に戻るものだと思っていたのだ。
ルーナにとってソアラは……
何時も自分を優先してくれる存在だった。
他の誰よりも……
***
「 彼女は、本当は侍女になんかなりたく無いんだろうね 」
「 でしょうね。王太子妃になりたいのなら……殿下は彼女は如何ですか? 」
「 まさか……あんなあざとい女は嫌いだ 」
小賢しいだけの女は、妃には相応しくないからねと言って。
「 それに……私はもう心に決めた令嬢がいるから 」
「 !? ……えっ? 殿下…何を…… 」
ディランはそう言ってドレスの裾を揺らしながら、帰って行った。
「 ……ソアラ嬢を本気で……? 」
まさかなと、首を大きく横に振って、シリウスは自分の部屋に入った。
一方……
ソアラの猫パンチが効いたルシオは、ソアラと2人で庭園を歩いていた。
これから大事な事を伝える為に。




