おやそう、そっちがその気なら
「ねえ見てガーヤ! 私ここを渡れるのよ!」
「おやまあ」
「この前はナマズの揚げたのも食べたのよ! 美味しかった!」
「ようございましたこと」
姫さまは細い足場を軽やかに渡りながら、心なしかはしゃいでいるようだった。
そんな姫さまをよそに、砦の女たちが何やら不安そうに目配せしているのは、どうやら私の心中を慮ってのことらしい。
どうやら、乳母の私が姫さまの身を案じているのではないかと思っているようだ。
なんの、なんの。
私はどんと胸を叩いてやりたかった。
それくらいでひやひやしていたら、姫さまの乳母なんてとうていつとまりゃしませんでしたとも。
「皆さまに良くしていただいているのですね、なによりです」
私はそう言って、周囲の人々に軽く頭を下げた。
ひとつだけ心配だったことは、姫さまが慣れない暮らしと気候のせいで発作を起こしたりしてないかだったが、見る限り顔色もいいし、元気そうだ。ここの暮らしは、意外にも姫さまに合っているのかもしれない。
「ねえねえガーヤ、見て!」
「ヘイゼルあんたねえ……慣れたからって、落ちたら死ぬのに変わりはないのよ?」
「落ちなければ死なないでしょ?」
「その通りなんだけどさあ」
両手のひらを揃えたほどもないような細い足場の上で大きく手を振る姫さまに、私は手を振って応えてやった。
確かに気の弱い女官なら見ただけで気を失いそうな光景だ。
(そして私もここで暮らすからには、あれと同じことをしないといけないんでしょうね……いいですとも、やってやる)
怖くないといえば嘘になるが、ここの住人たちは長年あれを通路として使っているのだろう。
中には姫さまの倍も重い男だっているはずだ。彼らが通って無事ならば、姫さまが通ったところでびくともしないはず。
(そして、姫さまも勇気を出してはじめはあれを渡ったに違いない。それなら、私だって)
ふんっ。私はひそかに気合いの鼻息をもらした。
このくらいのこと、ここに来るとわかった時点で覚悟していた。
そう、冷や汗をかく思いをしたことなんて、これまでも何度もあったのだから。
◇◇◇
あれは女官長になって何年目のことだったろう。
確か十年は経っていなかったはずだが、私はある日何の前触れもなく、第五王女ヘイゼルさまの乳母に任命された。
「あの……」
とっさになにを言われているのか理解できなかった。
しかも彼らは、私と王女殿下を国外れのファゴットの森で暮らさせるというではないか。
いやいや、待て待て。
私は背筋が寒くなった。
仮にも王女殿下を? 乳母ひとりつけただけで辺境の森で育てる?
冗談じゃない。何かあったら私ひとりで王女殿下を守りきれるものか。
こちとら、女官長までのぼりつめたとはいえ、武器を持ったこともないただの女なのだから。
私はこっそり、新しい王陛下とその横の老人を盗み見た。
私が女官長を拝命したのと同じ年、オーファン・アンヘル・アクラム陛下は退位なさり、それに代わって王太子のイアン・ウィービング・アクラム様が王位につかれた。アクラム王家に代々伝わる緑色の瞳はお父さま譲りだが、控えめに言っても、名君と呼ばれる方ではないのを私は知っている。
「王命である。よいな、ガーヤ・バセット」
すぐに返事をするべきだとわかっていたが、できなかった。
だって、そんなの、捨てるも同然ではないか。
私はかろうじて口をひらいた。
「おそれながら、わたくしは子供を産んだことはございませぬ。そのような女に乳母が務まりますかどうか……」
現陛下は、先代の気さくに話すのを好んだ陛下とは違う。言い返すのもこれくらいが関の山だった。
じろり。陛下は私をきつくにらんで、隣の老人を見やった。
陛下の代わりにその老人が答える。
「差支えない。そなたであれば十分に働いてくれるであろうと推挙されておる」
「推挙、でございますか」
「ブーティエ・ド・ランセ大臣だ。そなたのことを非常に買っておられてのう」
(またあの男!)
私はカッとしたが、勿論、それを顔に出すような無様な真似はしなかった。
王宮勤めが長くなると、これぐらいの芸当は意識しなくてもできるようになる。
「よもや、断りはしないだろうな」
かすれた声で老人が言う。
「この王女を王宮に置いておくと、国が滅びる。そうはっきりと星が告げておる」
「さようで、ございますか……」
「であるからして、そなたは終生この王女とともに森で暮らしてもらわねばならない」
私はそっと陛下の顔を見た。
顔色ひとつ変えておられない。早くこの一幕が終わればよいと思っている顔だった。
しばらく前から王陛下のそばにあやしげな予言者が付き従っているのは知っていた。だがまさか、その予言者が告げたからという理由で王女殿下をお捨てになろうとは。
(正気の沙汰ではない)
「いかがした。返答をいたせ」
じれた陛下が強い口調でそう告げる。私は平伏した。
「謹んで、王命お受けいたします」
長年女官として生きてきた私にとって、王族の命令に異を唱えるということは思いもよらないことだったのだ。
とはいえ、大変なことになったというのはすぐに理解した。
なんと、命を受けたその瞬間から、ヘイゼルさまは私の腕の中にいともあっさり預けられたのだ。
ええっ、そんな簡単に? と念を押したい気持ちだった。
あれよあれよという間に、新しい暮らしは始まった。
森は静かで空気もよかったが、夕方になると床下から冷えてくるということも、住んでみて初めてわかった。
砂漠に近いから暑いのかと思っていたかそんなこともなく、持参した家財道具だけでは到底足りなかったので、私は姫さまをあやしながら、暇さえあればせっせと編み物と縫い物に励んだものだった。
思い返せば、この時期が一番つらかったように思う。
寝れないし、忙しいし、ひとりだし。
生まれたばかりの赤ん坊に必要なものも十分とは言えず、私は何度も城に手紙を送って物資を要求したが、それがすんなりかなえられることはほとんどなかった。
悠長に返事を待っている時間も惜しかったので、私は独断で姫さまを連れて馬に乗り、近隣の農家をまわって農家のおかみさんたちに知恵を拝借したものだ。
夜泣きが止まらない時はどうすればよいか、熱を出したらなんの薬草を飲ませればいいか、そして、数時間おきにミルクを求めて泣く赤ん坊と暮らすなかで、どうやったら自分自身も健康に暮らせるか。
「あらあら、かわいい」
「きれいな緑の瞳だこと! これは美人になるわねえ」
「なに、発作が起こるって? じゃあ伝手を頼って医者を探しておいてあげるよ」
「それまではあんたがしっかりするんだよ、ガーヤさん」
手紙を送ってから返事が来るまでに半月もかかる王宮とは違い、農婦たちは親身になって相談に乗ってくれた。
今はとにかくミルクが必要だろうからと、大切な雌牛を一頭貸してくれたのも近隣の農民だ。
なによりもあなたが倒れてはいけないのよと、女たちはいつでも赤ん坊を預かると請け合ってくれた。
お言葉に甘えて農家の納屋で大の字になって爆睡したことも一度や二度ではない。
この時期はとにかく気を張っていたのか、枕に頭をつけたら即座に意識がなくなった。牛が鳴こうが犬が吠えようが、起きることはなかった。農婦たちは何人も子供を育てたベテランだったので、姫さまを預けても何の心配もなかったし。
幸い王宮からは年間決まった額の金貨が下賜されていたため、世話になった農家へのお礼に頭を悩ませることはなかった。
彼らはなにも言わなかったが、なんとなく私たちが訳ありだというのは気づいていたに違いない。気づいていて、それでもなお親切にしてくれたのだ。
それからの私は、むきになって育児に励んだ。
あの予言者や、ブーティエ・ド・ランセの思惑通りになってやってたまるものかと思ったのだ。
姫さまは、この私が立派に育て上げてやる。
不安ももちろんあったけれど、姫さまの乳離れが済み、片言をしゃべるようになり、かわいいあんよでたっちができるようになってくると、それも少しずつ薄れていった。
バセット家の長女に生まれて、弟や妹たちのおしめをかえたり、抱いてあやしたりしていた経験がこんなところで生きるとはさすがに思わなかったけれど。
私はこの時学んだ気がする。
人生に無駄なことはひとつもないと。
身につけた技術や知識は、決してなくならないしいつどこで生きるか誰にもわからないということだ。
え、姫さまが最初に話した言葉はなにか、ですって?
もちろん、ガーヤに決まっているでしょうが。
◇◇◇
姫さまが少し大きくなって、家のまわりを走り回ったり、ひとりで遊んだりできるようになった頃。
近隣の砂漠ではちょっとした諍いがあった。
どうやら砂漠の部族とオーランガワードの兵が戦っているらしい。
姫さまを寝かしつけた夜など、夜風に乗って騎馬兵が争っている気配が流れてきたので、万が一にも姫さまが巻き添えになってはいけないと、私は王宮に便りを出した。
近衛兵をひとりよこしてくれるように頼んだのだ。
返事はにべもなかった。
『近衛をつけること、まかりならん』
ほうほうほう。
これはフクロウじゃない、私の頷き。
ほうほう、そう来ましたか、私の大事な姫さまに。
それからすぐ、私は蓄えのなかからいくらかの金貨を使って、少し離れた大きな町の武器屋であるものを注文した。
ひとつは女でも扱える細身の剣、もうひとつは革の持ち手のついたムチだった。
誰も親身になってヘイゼルさまを守って下さらないというのなら、それはそれで、了解した。
ならここはひとつ、私がなんとかするとしましょうかね。
なあに、近衛兵だって王宮に来たばかりの頃は重たい剣に振り回されてよろよろしてるのを、私は長年見てきたんですとも。
(彼らにできて私にできないことが、あるわけ、ないで、しょう、がっ)
姫さまが寝てしまってから、私は夜、外に出て剣とムチを練習した。
はじめのうちはひいひい言っていたけれど、そのうち、野犬くらいはムチで追い払えるようになった。
剣よりもムチのほうが私の手にはなじむようで、私はよくしなるムチをぴしぴし言わせながら、ふむっと鼻息を荒くした。
ほうら、言った通りでしょうが。
人間、その気になったら大抵のことはできるんですとも。