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大阪梅田館の殺人

作者: 一期大福

第一章

 令和二年度の司法試験は、8月12日、13日、15日及び16日に実施されることになった。14日は中休みの日となっており、試験自体はない。15日までは、論述試験と呼ばれる六法を使って問題を解く問題が出題され、16日は択一試験と呼ばれる、いわゆるマーク式の問題が出される。六法は試験の初日に配布されるが、15日の論述試験が終われば、持って帰って良いことになっている。

 試験三日目の15日、朝からうだるような暑さの中、司法試験の大阪会場である大阪梅田館の前には多くの受験生が列を成していた。それは受験生の柴田も例外ではない。

 柴田は、令和二年度の司法試験を自身の初の司法試験とする受験生だ。体格は中肉中背、まん丸な目に黒縁眼鏡をかけており、丸い顔で良く笑う。性格も勤勉で温厚だが、時々周りの度肝を抜く突拍子もない行動を取るときがあり、またそのギャップからクラスの人気者だった。言わば笑顔の仕立て人である。当然クラスの優等生に分類されていた。

 暑すぎるやろ。はよ建物の中に入れてくれ……そう思いながら、柴田は建物に入る列に並んでいた。中休みを一日経たといえども、疲労は蓄積していた。そのうえ、柴田は二日目のテストが終わった直後、同じ試験室にいた他の受験生が「先生が予想してたとこ出たやんね! やっぱりあの先生すごいわ! ばっちり当てたよ! めっちゃできた!」と話しているのを聞いてしまったのだ。もちろん柴田は自分の解答に自信などなかった。そのせいで二日目が終わった後も、中休みの日もまともに寝られなかった。試験を受ける前から既にグロッキー状態という有様だ。

 しんどい……そう思いながら額の汗を何度か拭った頃、ようやく柴田は建物の中に入った。

 試験を受ける部屋や席は、初日から変わっていない。大阪梅田館の八階、第三試験室だ。長机に二人分の椅子が置かれている。長机一つにつき、受験生が二人座って受験するという形だ。柴田は自身の席である、試験室の一番前の長机の右側席に座り、一息ついた。

「きっつ……」

 荷物を床に置いて、たまらず愚痴る。

 柴田の受験番号は最後の方ということもあって、同じ部屋の受験生はかなり少なかった。柴田が受験する部屋は、他の試験室と違って、机が部屋一面に並べられているということはなく、長机が縦に四つ並べられているだけで、部屋には八人しか受験生がいなかった。長机の上には試験用六法が二冊、縦に並べて置かれている。その机に座る二人の受験生が使用するものだ。六法は試験の時間が終われば、机の真ん中に戻さなければならない。つまりどちらの六法がどちらの物だという決まりはないので、好きな方を使うことができる。

 さらに、この六法は試験時間中にしか触れてはならず、それ以外の時間に触れてしまった者は違反行為をしたとみなされ、受験資格を失うことになる。

 柴田は、隣の受験生が触った六法を使いたくなかったので、初日の試験中に六法の背表紙にわざと爪で傷をつけておいて自身の物と分かりやすいようにしていた。それで、試験が始まるとすぐに、マーキングしていた方の六法を自分の方に手繰り寄せるという目論見だ。柴田が背表紙に傷をつけた六法は、初日に付けてから傷がついたまま三日目に突入していた。

「中休みの日を挟んだけど、六法が二日目に戻した位置からずれてない……、試験が終わるまでは試験官も触ったらあかんってことになってるっぽいな」柴田はそう思いながら少しにやけた。

試験の時間が迫る。柴田は、試験前にトイレを済ませておこうと試験室の中にある男子トイレに向かった。

「お、柴田君! お疲れ!」

「え? おお! 谷君やん! 同じ部屋やったんや! 気付かんかったで、お疲れ! あとちょっと頑張ろ!」

 咄嗟に顔をあげた先にいたのは谷だった。谷は、柴田の法科大学院のときの同期で、体格は中肉中背、性格はよくホラを吹くお調子者で主張が強く、誰といてもそのスタンスは変わらず、何と混ぜてもその存在感をはっきりと感じさせるカレーみたいなタイプだ。またお調子者といっても、クラスに一人や二人いるようなレベルではない。インモラルなギャグを好んでおり、並のお調子者が不謹慎だとしてブレーキを踏むところでアクセルをベタ踏みする、言わば暴走カレー人間だ。それ程までに主張が強くてぶっとんでいるのだ。丸い目をしているがいつもふざけているため、谷の目は三日月の弧を上にしたような形のままである。大抵の者が、その性格に辟易として付き合いをやめるが、柴田はその自身にはない純粋な悪意に興味を持っており、谷との付き合いを続けている。単純に飽きさせない彼独特の魅力もあった。もちろんクラスの劣等生に分類されていた。

「あら気付いてなかったんかいな、柴田君一番前の席におるやんね。俺一番後ろの席におるで。ま、あとちょっと頑張ろ! てかさ聞いてや、今おしっこしてたら個室でゲロ吐いてる奴おってさ、まじで汚いよな、流石に笑ったわ!」

 初の司法試験で、緊張という文字がないのかそれとももう慣れたのか、はたまた脳のそういう部分が先天的に壊れているのかは不明だが、谷はいつも通り三日月の目で下品なことを声高に叫んでいた。ほんまにそんな吐いてる人がおるならでかい声で言わんねんなぁ〜。まぁたホラ吹いてんなぁ〜、そう思いながら、谷のそんなバカな発言から少し緊張がほぐれた。二人はそれぞれの性格から笑顔のまま、軽い挨拶を済ませ、谷は自席に戻って行った。

 柴田がトイレに入って小便をしていると、後ろの個室から「オエェッ!」という声と吐瀉物が便器を叩く音が聞こえた。

「いやほんまやったんかーい!」


 第二章

 司法試験の受験資格は、法科大学院を卒業することで得られる。そのうえで試験は五回しか受験できない。もちろん試験は一年に一回だ。つまり、五回司法試験に落ちると、再び法科大学院に入学し、更に卒業しなければ受験資格は得られなくなる。落ち続けることで失う経済的損失と時間的損失は甚大ということになる。五回目の受験となると後がなく、受験生の心的負担は計り知れない。これが、司法試験は人を狂わせると言われる所以だ。

 もちろん、法科大学院を卒業しなくても司法試験を受験できる道はあるが、その道の方は猛者が多いうえに確実に受験資格を得られるわけではないので、大抵の人は法科大学院を卒業して受験資格を得ようとする。「あの吐いてた人、五回目の受験生かな? まぁ何回目の受験だろうと気持ちは分かるな、いや五回目の人の気持ちは五回目の人にしか分からんな、ていうか集中しろ!」そう思いながら柴田は今日の第一科目の勉強をしていた。

間もなくして三日目最初の科目である、「刑法」の試験が始まった。二時間の間に問題文を読み、約五千文字近くの文章を書かなければならない。もちろん問題は単純明快という訳にはいかない。それ相応のひねりがある。多くの者が時間いっぱいいっぱいまで文章を書き殴る。

 柴田は、終了時刻ギリギリになれば、焦りから文章が支離滅裂になりがちになることから、必ず五分前には試験を解き終わるようにしていた。本番ではあったが、自分なりに書きたいことが書けてしかも三分前に書ききることができた。三日目は、まずまずの出だしだ。刑法の試験が終わり、解答用紙が回収された。試験官が、離席してもよいが試験用の六法に触れてはいけない旨のアナウンスをする。受験生は、そのまま昼食をとる者、外の空気を吸いに行く者等々、それぞれが自身に合ったリラックスをし始める。当然その際も試験官は試験室に在中していた。

 柴田は、外の空気でも吸おうかと立ち上がったとき、ふと谷はどうしているか気になり、振り返った。視線の先にいた谷は、一番後ろの席で大きな欠伸をしながら、椅子に浅く座り、足を前にだらしなく延ばした状態で参考書を読んでいた。その様子は法科大学院の自習室で勉強していた彼の姿勢そのものだった。同期の宮本が谷のその様子を「疲れたチンパンジー」と言っていたのを思い出した。谷の隣の受験生は、少し怪訝そうな顔をして疲れたチンパンジーを見ていたが、いつもと変わらないその姿を見て、柴田はフッと笑った。視線に気付いたのか、まん丸だった谷の目が三日月に変わり、チンパンジーから獲物を狙うチーターに変わり、ヌッと立ち上がってササッと柴田の方に近づいてきた。

「柴田君……、ふふふ、刑法余裕やったな? ていうか犯人バカ過ぎたよな。青酸カリが入ったまんじゅうを相手方に送って殺すのはええとしてもさ、送り主書くの忘れてるのはアホ過ぎるよな。送り主不明の饅頭誰が食うねん!そりゃ相手方は不審に思って食べずに捨てるわ! あはははは! サクッと殺人未遂罪認定したったわ! ぜってぇ受かった! 余裕! あ〜まんじゅうこえー!」

「え?」

「ん?」

「いや……」

「どうした柴田君、ミスったんか?」

「いや谷君、問題文最後までちゃんと読んだ? 『被害者は無酸症だった』って記載あったやろ?」

「無かったで?」

「いやあったんよ」

「ムサンショウ? ってなに?」

「あ、絶対読んでへんな! 文章の最後に『青酸カリは胃酸と反応して人を死に至らしめる』って書いてたやん! それで今回の『被害者は、無酸症すなわち胃酸が出ない体質で、そもそも青酸カリ飲んだとしても死ぬことはなかった』って書いてたで!」

「……あ、そうやったんや、え、ごめん、でも結果変わらんくない? どういうこと?」

「だから今回は『不能犯とするか、それとも殺人未遂罪が成立するか』の論点を書く問題やで?」

 不能犯とは、犯罪行為の遂行がそもそも不可能である相手に対して、当該犯行と思われる行為を行っても、その行為に犯罪は成立しないというものである。

 例えば、既に亡くなっている者を滅多刺しにしても、その行為に殺人罪は成立しないし、砂糖を毒だと思いながら他人に飲ませてもその行為に殺人罪は成立しないといったことが挙げられる。

 要は、谷は書かなければならないことを丸々書かなかったのである。

「あーうん、不能犯ね。知ってるよ? 知ってる知ってる。ていうか書いたわ、うんうん。大丈夫!」

 そう言って谷は笑うが、その目はいつもの三日月ではない。今度は間違いなくホラであることを柴田は確信した。司法試験、もちろん問題は単純明快という訳にはいかない。

 柴田の後ろの席の人は黙々と次の科目の勉強をしていたが、騒がしい二人をチラチラと見ていた。その隣の人も同様だ。柴田としては、自身が二日目の試験が終わった際に喰らったダメージを他の人に与えるようなことしたくなかったので、早々にこの暴走カレー人間との話を切りあげた。

 そうこうしている内に、第二科目の刑事訴訟法の試験が始まった。刑法と同様に二時間の中で大体五千文字程度の論述をする。もちろん多くの受験生が刑法のときと同様に悪戦苦闘しながら、書き終える。

 第二科目の試験も終わり、試験官が解答用紙を集めて、今日は帰ってよい旨のアナウンスをする。試験室にいる者たちが帰り支度を始める。

 今日で六法を使って解く試験が終わった。そのため、六法は机の上に置いて帰っても良いし、自分の物として持ち帰っても良いことになった。大半の受験生は記念に持ち帰ることが多い。例に漏れず、柴田も同じ試験室にいた受験生たちも、六法を持ち帰ろうとしてそれぞれカバンの中に入れていた。

 そのとき、男子トイレの方から擦り切れた細く高い声が聞こえてきた。それも害獣駆除で殺される猿の断末魔のような叫びであった。

 部屋中の誰もが一斉にトイレの方向を向く。

 柴田は、何事かと思い、急いで男子トイレに向かったが、人はいない。

「大丈夫ですか!?」

 個室が閉まっていたことから、個室に声の主がいると判断した柴田は大声で声をあげ、個室のドアを叩いた。

 しかし、中からの返事はない。

「大丈夫ならノックだけでもしてください! 大丈夫ですか!?」

 それでも返事はない。すかさず柴田は個室の扉の上部に手をかけ、懸垂のように自身の体を持ち上げ、個室の上の隙間から中を覗いた。そこには、泡を吹いて横たわる男性の姿があった。

 柴田は覗いていたその隙間から体を入れて個室の中に入った。少し白髪まじりの30代中盤くらいの男が、泡を吹いて倒れていた。顔は真っ赤になっており、喉は掻きむしった痕があった。その倒れている人物の左手の甲には、人差し指と小指の付け根辺りに2箇所小さい怪我があった、更に左手自体は少し濡れているようだったうえに、便器には吐瀉物が浮いていた。

「大丈夫ですか!? もしもし!」

 慌ててその横たわっている人物の背中を叩きながら柴田は声をかける。

 しかし、その横たわる男からは何の返事もないどころか、息をしていなかった。

「柴田君! ……あれ? 柴田君どこ!?」

 柴田の次に駆け込んできた谷が叫ぶ。

 キィという扉が開く音と共にトイレの個室から柴田が出てきた。

「おぉ柴田君……え、その横たわってる人大丈夫? 個室におったん?」

「……谷君、あかん……多分死んではる。急いで警察と救急車呼ぼ」


 第三章

 しばらくして警察と救急車が来た。被害者が死んでいることがその場で確認された。

 亡くなった人と同じ試験室で受けていた他の七人は、その場に留まることを要請され、事情聴取されることになった。

 一つの部屋にまとめられた七人の内、柴田と谷はすぐ隣に座っていたが、それ以外の五人はバラバラに座っていた。試験が終わって開放感に浸れるどころか、同じ試験室で受験していた者が死に、今から事情聴取を受けることになったのだ。どの受験生たちも陰鬱としていた。もちろん一人だけを除いてだ。

「あー、柴田君? 俺これ分かったわ。殺人やわ。しかも犯人も分かったかも知れん。あかん俺才能あるわ」

 こんな状況でぬるっとした口調で谷は柴田に語りだす。どうしてこの状況で、この人間だけは、あっけらかんとしていられるのだろうか。自分とは関係のないことかも知れないが、自身と同じ試験室で試験を受けていた他の受験生が、今しがた亡くなったときの話のトーンのそれではないのである。心底から柴田は感心した。

「え、嘘やん」

「嘘じゃないで犯人分かってしもたわ……犯人は」

「いや違う違う! 谷君のその、人が死んでも尚ブレない生き方に対して嘘やろ? って思って言った! なんでそんなあっけらかんとできんねんって驚いてん! 何ら尊敬までしてる!」

「あ、そっち!? いやそりゃそうやろ~! なぁんで俺が自分の人生と関わりのない奴のためにテンション下げなあかんのさ! どんな有名人が自殺しても自分が別に推してる訳じゃ無かったら、『自殺? あぁ自殺成功して良かったね! 自己実現じゃん!』ってなるやろ?」

「いやならんならん! ならん過ぎる! 別に推してなくてもちょっと知った有名人が自殺したら「おわマジか……何が辛かったんやろ」とか思ってまうわ。ていうか自殺を自己実現っていう人初めて見た」

 この人物は、自分の世界にいない人物がどうなろうと知ったことではなく、自身の生活に仇をなすかどうかだけが自身の感情というリトマス紙に変化を起こす要因なのだろう。大体の人がこんな谷を気味悪がるが、柴田は、こんな不謹慎ながらもどこか新しい視座を与える谷に興味が尽きなかった。もちろんその面白いというのは、檻の中のチンパンジーを見て楽しむというような意味である。谷は、自身の推理を披露しようとして出鼻を挫かれたようだったが、仕切り直して話し始めた。

「あのな、個室で亡くなってた人って、今朝俺が柴田君に言った、個室でゲロ吐いてた人やねん。俺が朝トイレでションベンしてたタイミングで、バーン! ってすごい勢いでトイレの扉開けて入ってきたからさ、咄嗟に顔見ちゃったんよ。でね、実はその人がトイレに入ってくるよりも先に、個室に入ってた人がおってん。そいつが犯人やと思う。今俺の右の方に座ってる色黒の頭ボサボサなやつ。あいつやわ。多分個室の内側の取っ手かどこかに毒でも塗って個室を出たんやろな。それを知らずにさっき亡くなった人が個室に入って、毒塗られたところ触ってさ、その手でお昼ご飯のおにぎりとか食べちゃったもんやからそれでお陀仏よ! だから犯人は、亡くなった人の前に、個室に入ってたマッチョやわ。パーペキやわ。怖いわ自分の才能が」

 パーペキとは谷が作り出した言葉で、パーフェクトと完璧を併せた造語である。大学院時代から使っているが、谷に影響を受けて使っていた者はもちろんいない。谷はしたり顔で自身の推理を披露したが、柴田は全くもって納得いっていなかった。

「え? 次に誰が個室に入るか分からんねんで? 何なら、誰も入らへん可能性だってあるしさ、そう考えたら殺すのは誰でも良かったし、殺さなくても良かったってこと? そうやとしてもさ、トイレした後って普通手洗うし、そんな個室のどこかに毒塗るってあり得んくない? しかもおにぎり食べるかなんて犯人知らんことやろうし、そもそも本当におにぎり食べてたん? ていうかていうか、そんな一か八かの賭けで人って殺さんくない?」

 その通り過ぎたのか、谷は黙りこくった。

「いやギャグやん! 他殺でもなんでもないって密室やん! こんなん心臓麻痺とかちゃう? ははは! あ、いや柴田君にとっては笑い事ちゃうんやんね、ごめんごめん」

「……いやでも谷君、実は俺もこれは殺人やと思ってるし、犯人分かったかも知れへん」

 ぼそりと谷の耳元で柴田は言った。

「え? ……心臓麻痺とか自殺やろ? 殺人?」

 柴田の小声に呼応せず谷は大声で答える。

「うん、殺人で間違いないと思う。あと、少し声のボリューム落として」

「待ってや! 鍵しまってた個室で死んでたんやろ? しかもここ八階やし、窓もそんな全部開くような建物じゃないんやからさ、外から誰かが侵入して殺すとか無理やん、その状況を犯人が作り出したってこと? 自殺って考える方が自然やん! 自殺やって自殺!」

 声のボリュームの大きさを諦めて柴田は答える。

「うんうん、確かにそうやね、でもさ司法試験の期間中に自殺ってまずせんと思うねん。せめて、試験やり切って合否見てからでも遅くないと思わん? あと喉かきむしってた痕あったから心臓麻痺でもないと思う。心臓麻痺なら胸おさえると思うから」

「あー……なるほどね、でも司法試験が憎くて、試験もあんまりできひんかったらさ、もう諦めて派手に自殺でもして、試験をパニックにしようとかする考えもありじゃない?」

「もちろん、それもあり得るかも知れへん。けど、そうやとしたら、試験中にするんんやない? 試験が終わってからトイレの個室で自殺って、パニックを起こしたい人からしたら少し弱いと思うし、他殺の方がしっくりくる。多分犯人はこの試験室にいる七人のうちの誰かやと思う」

「おい俺も柴田君も犯人候補かい! い、言っとくけど俺じゃないで!? ていうかさっき、犯人分かったかも知れへんって言ってたやん!」

 谷は、ひどく慌てた様子ですごい勢いで首と手を振った。

「それは分かってるよ大丈夫! あと勿論俺でもないで、とりあえずって意味!」

 少し柴田が微笑んだことで、谷はほっと胸を撫で下ろしたようだった。

「犯人は分かったかも知れへんけど、確定はしてないねん。でも谷君がおれば確定的に犯人が誰か分かると思う」

「え、俺犯人知らんのに、俺がおると犯人分かるん? 柴田君壊れた? ま、確かに司法試験は人を狂わせるって言うもんなぁ」

「いや、うるさいな。谷君に一つ聞きたいんやけどさ、亡くなった人がどこに座って受験していたか分かる?」

「もち! 俺の前の席やで」

「おっけ、じゃあ犯人分かったわ」

「まっじ!? はや! 勿体ぶらんで教えてよ!」

「谷君、今日あの死体を見た時、死体の左手見た?」

 柴田は谷の要望を無視して話し続ける。

「見る訳ないやん! 泡吹いて死んでたんやで? そんな余裕ないって!」

「やんね。いや亡くなった人の左手にさ、吐きダコがあったんよ」

 柴田は自分の右手の人差し指で、左手の甲の人差し指と小指の付け根あたりをそれぞれツンツンと指差した。

「吐きダコ? 吐きダコって何?」

「吐きダコは、無理に吐こうとして指を喉の奥に入れることで、歯が手の甲に擦れてできる怪我の痕みたいなやつやで。大体人差し指と小指の付け根辺りにできるねん」

「あぁなるほどね。自分の喉に指突っ込んで吐きまくってるせいで、その部分がずっと怪我してる感じか。でもその吐きダコと今回の事件って何か関係あんの?」

「大あり!」

 ピシャリと柴田は谷の疑問を吹き飛ばす。

「叫び声が聞こえた後、俺すぐに個室の中に入ってんな? そしたら便器に吐瀉物があって、更に死体の左手は濡れててん。自分の喉に指突っ込んで吐いてたんやと思う」

「なるほどな。試験のストレスとかで胃がムカムカしたりして常習的に吐いてスッキリしてたんかもね。でも柴田君、他殺なんでしょ? どうやって殺したん? ゲロ吐くだけで死ぬ魔法なんかないで?」

 谷は納得したような顔を見せつつもまだ、真相が分かってない顔をしている。

「犯人はそれを利用して、青酸カリを使って殺したんやと思う。」

「んん? 犯人は、被害者がゲロを吐くことを知ってたってこと?」

「そう、犯人は、被害者の吐きダコ見てて、左手の指を喉に突っ込んでゲロ吐いてることをおよそ知ってたんやと思う。それで被害者の左手の指に毒を塗って、喉の奥に指突っ込むことでゲロの胃酸と反応させて殺したんやと思う。何なら被害者は、常習的に吐いてる人やったやろうから、恐らく試験の初日とかにも吐いてたんやないかな? それで犯人は今日の犯行を思い至ったんやと思う」

「そういうことか。でもさ、どうやって犯人は被害者の左手に毒を塗ったん? 俺亡くなった人がトイレに行くところ見てたけど、試験終わった後すぐ行ってたし、左手の指に毒塗るタイミングなんて無かったんやと思うけど。ていうか本人に気付かれずにどうやって指に毒塗るん? トイレに毒塗るのは無理なんやろ?」

 谷は、鼻息を荒くしている。柴田の推理の粗を少しでも探そうとしているのだろうか。

「そう、タイミングは無かってん。だから犯人は試験時間中に被害者自らに毒を塗らせる方法をとってん」

「え? 被害者自らに塗らせる方法? どういうこと?」

「よく考えてみて、試験中に必ず触れるものがあるやろ?」

「あー、そういうことか! 分かったわ、ペンに毒塗ってたんか!」

「違うよ! どうやって誰にも見られずに他人のペンに毒塗るんさ! 一つだけあるやん! 試験中に必ず触れる物で、かつ、被害者自身の物ではない物!」

「え……、何やろう」

「『試験用六法』やで。試験室で誰にも気にされることなく触れられて、かつ、被害者にもバレずに『試験用六法』に毒塗れるからね。犯人は六法に毒を塗ったにちがいないよ」

「そうか! 六法はどの受験生も試験中に確かに触るし! そうか六法に……いや待ってや、六法って言ってもめちゃ分厚いで? その六法全部に犯人は毒塗り込んでたってこと? 触るのは分かったとしても全部に毒塗るとかできる?」

「あはははは! そんな訳ないやん! 犯人は、被害者が試験中に六法のどこを触るか知ってたに決まってるやん! 今日の科目は刑法と刑事訴訟法やで?」

 柴田の声のボリュームも段々と上がる。

「んー! 刑法と刑事訴訟法のページに塗ったことで意図的に毒に触らせたんか! なるほどな〜!」

「そう、多分被害者は右利きやったんやと思う。そうなると利き手の右手にはペンを持ってる。じゃあ大体左手で六法を触るやろ? しかも、まともに時間も無い中で六法にべったり触れるから、手は汗ばんだりもする。実際俺めちゃ汗ばんだし、それで少なくとも左手の指にはたっぷり毒が付着したって訳やね」

「ごめん柴田くん、毒を塗って触らせたこと自体はなるほどなって思ってんけど、そもそも毒を塗ること自体はどうやってやったん? 毒塗ろうにもさ、試験中以外に六法は触ったらあかんことになってるんやで? 触ったら失格になるリスク冒して誰が毒塗るん? しかも、六法は長机の中心に二冊縦に並べて置かれてたやん! その長机に座っている受験生二人が、試験が始まる直前にどっちを手に取るかも分からんねんから、被害者に毒のついた六法を掴ますためには、犯人は二冊ともに毒を塗らなあかんくなるんやで? そんなん試験官が見てる試験室でやってる奴おらんかったし、俺一番後ろやったからよく見てたけどそんなやつがおったらすぐ気付くと思うで?」

 しかし、谷はそれを言い切ったあとでハッとなって目を見開いた。

「柴田君……」

 谷も犯人が分かったらしく、声が震えている。流石に声も少し小さくなった。

「そう、試験官が見ていないタイミングで六法に毒を塗ることができて、かつ、被害者に毒の付いた六法を掴ませることができた人が一人だけおるんよ。おそらく犯人は試験用六法が試験の期間中は回収されたりすることがないことを知っていたんやと思う。それで、司法試験の二日目の試験時間中に自身が使った六法にあらかじめ持ち込んだ毒を塗り込んで、毒を塗った六法がどっちかは、自分だけが分かるように爪で六法のどこかに傷でもつけたんちゃうかな。そんでもって、三日目の試験の際に、あらかじめ傷をつけていた方とは違う方の六法を手に取り、そうすることで必然的に被害者は、毒が塗られた六法を手に取ることになる。もちろんそんなことができるのは、被害者と長机を共に使って受験していた隣の受験生しかおらへん。そうやろ? 谷君、被害者の席の隣に座ってた人、教えてくれる?」

 谷は柴田に耳元で更に声を小さくして呟く。

「この部屋の隅の方で座ってる青い半袖の服の人……」

 柴田は、部屋の隅の方で椅子に座っているその受験生に視線を向けた。三十代中盤と言われてもおかしくないような雰囲気の男性だった。

「柴田君、でも必ずしも左手を喉の奥に突っ込むとは限らんくない? その時は右手で吐いたかも知れへんやん?」

 急に同じ部屋のすぐそこに殺人鬼がいることを認識したからか、谷は震えながら柴田の腕にしがみつきながら声をり出した。

「左手に吐きダコがあるんやから、今回も左手を使うと確信してたんじゃない? それに右利きの人やったし、トイレの扉とかも右手で開けてたやろうから、そんな右手を口の中に入れるのも心理的に嫌やったんちゃうかな?」

「うぅ、それもそうか。でもさ、殺した動機は分からんくない? その二人って多分初対面やろ? そんな急に殺す必要ある?」

「谷君あの受験生よく見て、俺らと同じような司法試験一回目の受験生に見える? 三十歳くらいに見えるやろ? もうここからは弱い推測やけど、犯人は今回5度目の受験で後がなかったんやと思う。それで初日か二日目の試験のどこかで大きなミスをしたんちゃうかな。しかも二日目の試験が終わった後に、昨日勉強したところが出た!とか騒ぐ他の受験生の話し声とか聞こえたりしたらさ、どうにかして司法試験そのものがでかいニュースにでもなって、試験そのものを流れるようにしたろって思ったんやない? 多分そんなことで試験は流れへんやろうけど、少なくとも同室の受験生には何かあるかもってぐらいは考えたんかも……。だから、受験会場であるこの大阪梅田館で殺人をしようと決意したんちゃうかな。今度は青酸カリでちゃんと殺人罪が成立するね。はは、ほんまに笑えへん。青酸カリはどうやって入手したかは分からへんけど、もしかしたら今年の試験に落ちたら自殺するためにずっと前から用意してたかも知れへんね」

 柴田はそう言い終わると、フーっと長いため息をついてうなだれた後、顔を下に向けたまま少し首を横に振って、ぼそりと続けた。

「司法試験は人を狂わせることがあるって聞くけど、ここまでとはね……」

 その年の司法試験で柴田は首席で合格した。この事件がきっかけとなって柴田は検察官になった。谷は最終順位で合格しギリギリ滑り込んだという噂を柴田は聞いた。刑事事件専門の弁護士となったらしい。

 二人が、別の事件で鉢合わせするのは、また別の話だ。


おしまい


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