第7話 【雪泥鴻爪(せつでいこうそう)】 その1
カラカラカラ・・・乳母車の軽い車輪の音が近づいてきた。
昼食のざわめきが過ぎ去った静かな兵舎の食堂内は、夕食を準備する野菜の切る音と、近づいてくる車輪の音が重なり、少しだけ共鳴した。
厨房にいる四人の調理師が、ぴくり、と反応し、同時に作業の手を止めた。
「あのぅ~、孤児院で注文していたパンを取りに来ましたぁ~!」
開け放たれた厨房の扉から女性の声が聞こえ、調理師たち四人が力いっぱい振り向いた。
「ルノンさ・・・」
「違います」
シスターカプシーヌがぴしゃりと言い放った。
見るからに全員が、がっかり感を全身で表現していた
「あ~すみませんねぇ~・・・シスタールノンじゃなくて!」
彼女は藍色の髪を二つに分けて三つ編にし、灰色の神官服を纏い、乳母車を片手でかまえて立っている。
丸メガネの奥に見えるラピスラズリのような瞳が、僅かな不満を訴えていた。
「いえ、こちらこそすみません。勝手に間違えて・・・」
ははっ、と、軽い笑顔で調理師のシャドンが謝った。
兵舎食堂の統括責任者・・・モーヴ料理長は金の日の午後には必ず、城内の料理長会議に出席して今は留守である。
「まあ、話は聞きましたよ。うちのルノンが少々やらかしてしまったようで・・・」
「とんでもない、やらかしたのはうちの副料理長です」
「ルノンさんのインパクトが強烈すぎて、神々しいお姿が刷り込まれてしまいました」
部下の調理師二人が付け足すように言った。
当の本人のニジェルはぐっと口を結んだ。
「あら、残像でも残していきました?」
「はい・・・今、まさに幻影・・・いえ、うわさをしていましたよ」
「重症ですね」
調理師達はカプシーヌに、かなりぬるい感じの眼で見られた。
とりあえずニジェルはシャドンをひと睨みする。
慌ててシャドンは本題に戻った。
「注文したパンを取りに来たんですよね? 焼いたパンを一度冷まして食料庫に入れてありますから、今お持ちしますね」
カプシーヌから乳母車を預かり、食品倉庫の方に急ぎ足でシャドンは姿を消した。
ああっ、と、カプシーヌが思い出したかのように手提げ袋から一枚の紙と、小さな巾着袋を取り出した。
「ニジェルさんはどなたです?」
ん? と、人参の皮をナイフで剥いていたニジェルが顔を上げた。
「オレだが?」
「まずはこの書類を渡しますね」
そう言われたニジェルが前掛けで手をぬぐってから、カプシーヌから一枚の紙を受け取った。
「お! パン作りの見学許可の申請書がもうできたのか? 仕事早いな・・・」
「この度は孤児院の学力向上にご協力いただき、ありがとうございます」
ペコリ、と頭を下げ、カプシーヌは改まった。
「いや・・・こちらこそ、“料理人”として目を覚まさせてもらった」
「はい?」
カプシーヌは頭に疑問符が浮いた。
そのやり取りに、部下の二人は楽し気に噴き出した。
渋めの中年のニジェルが照れている。
「う・・・コホン、“ありがとう”と、おじょ・・・シスタールノンに伝えてくれ」
「はい!」
茶髪で長身のニジェルを、背が低めのカプシーヌが笑顔で見上げる。
そして、彼女は小さな巾着袋を彼に渡した。
「シスタールノンから言伝です」
カプシーヌが巾着袋を渡したニジェルの掌をまじまじと見て頷く。
「これをニジェルさんにと・・・うん、この手だと確かに大きめに作って正解でした!」
「なんだ・・・これ?」
巾着袋からニジェルが取り出したのはワンサイズ大きいピューラーだった。
「ああ、使い方ですよね? ちょうどそこの人参を持ってみて下さい」
訳が分からないまま、部下に人参を手渡された。
こうします・・・と言いながらニジェルの手を取り、ピューラーを握らせ、人参の皮をすすーっと剥いて見せた。
『うおぉおおおおおっ!』
ちょうどパンを乳母車に詰めてきたシャドンと共に、野太い調理師達の声が揃った。
ささっ、とニジェルの大きめの手を離したカプシーヌが元気よく声を出した。
「“よろしければニジェルさんをはじめ、食堂の皆様でお使い下さい”と・・・アタシが作りましたが、作成費用やなんやかんやはルノンからですよ!」
ほうっ・・・と、ニジェルはピューラーを手に取りまじまじと見ながら、感心したようなため息をこぼした。
勘のいいシャドンは一言。
「副料理長・・・独り占めはズルいですよ?」
「これは俺が代表で貰ったんだ」
「使わせて下さいよぅ!」
揉めている調理師たちを見て、ああ、と、ポンっとカプシーヌは手を打った。
「確かにひとつじゃ不便ですよね? 作りましょうか?」
『なんだって!?』
やはり四人声が揃う。
ニッコリと首を傾げつつも、カプシーヌは控えめにすっと右手を突き出す。
「ひとつ大銅貨十枚です」
「え?」
無言の笑顔のままカプシーヌは再び、懐から注文書の紙と携帯のペンを取り出した。
「お名前を頂けます? ご注文承りますよ?」
「そーゆーことか!」
そんな現場に料理長のモーヴが戻ってきたのもあり、カプシーヌの実演販売が始まった。
料理長は興味を抑えきれず、注文書にピューラー5本を購入する旨を記入した。
最初の無料の一つ目は品が届くまでの間は共有し、その後は予備の備品扱いとなった。
「ねえ、これ本当に食べられるの?」
ルノンは採取の森の中で、笠が茶色く、内側から下が白いキノコを手に持ち、ネレに話しかけた。
おしゃぶりを咥えながらしゃがんで黙々と食用の植物を摘んでいたネレは「ぺっ」と、おしゃぶりを吐き出し、首にネックレス状に垂らした。
「だいじょうぶ、いつもおっぱいくれたひと、さんぽのとき、おしえてくれた。ルノン、たべたことある」
「ああ! “ちゃわんむし”のときね? 教えてもらったオムレツも美味しかったけど、あれもおいしかったわ〜!」
「ちゃんと、ちょうみりょう、あれば、もっとおいしくできる」
ネレのたどたどしい口調には理由がある、ちゃんと発音できない単語を、細かく区切って調整中なのだ。
ルノンに正しい言葉と文字を教わる代わりに、ネレはルノンに料理を教えていた。
「干した小魚で旨味のある“だし”を作るのかぁ〜、この辺の街じゃ魚は滅多に手に入らないわね・・・」
今回は仕方なく鶏ガラスープから作る、洋風茶碗蒸しをルノンに教えた。
道具が足りない孤児院の調理場で“蒸す”という作業は実は困難を極める。
だが、ネニュファールは確信していた。
ルノンの水魔法を使えば、きっと・・・最高の煮干しが作れると!
――――よし! とりあえず今はシイタケで出汁作りに挑戦だ! でもやっぱりシイタケは天日干しだよね?
現在、ネレは前々世のおばあちゃんの知恵が全開中である。
料理の複雑な過程をルノンに克服させるために、ネレはメレンゲをきちんと作る“撹拌”を、“生卵の液体”を“水”としてイメージさせ、空気をどのように混ぜ合わせるか細かく伝えた。そして“ミロジェ”という魔法が生まれた。
次に、大雑把なルノンにトマトピューレを焦げ付かせず、繊細なトマトケチャップをいかに素早く作らせるか考えた結果、水魔法の応用で“生乾き”というイメージを作り出し“セッシェ”という魔法が生まれた。
更に、魔力のバランスによって火加減がブレまくる魔道コンロでは、卵に均等に熱を通すのは難しかった。
その為、水と熱を利用する“蒸気”によって食材を蒸し上げる魔法“ヴァプール”を完成させた。これは元々存在する魔法らしいが、料理を通じてルノンが初めて使いこなせるようになったらしい。
はっきりって、通常ではハズレ魔法(役立たず)と呼ばれる分類でもある。
魔力と手先の器用さは微妙なルノンだが、何故か知識だけは豊富な才女。
ルノンとネレのコンビは、少々似た者同士だったが、お互いの知恵を寄せ合えば、料理限定で役に立つ魔法が確認できた。
こうなってはごく普通の“料理の才”を持つ調理師は、裸足で逃げ出すしかない。
しばらくして、採取の森から見える渡り廊下から降り立ち、食用の草花を採取する二人に向かってくるカプシーヌが見えた。
大量のパンを乗せた乳母車を引きながら、ニンマリしながらこちらに近づいて来る。
「カプシーヌ、上手くいったの?」
「ふっふっふ! ちょうどモーヴさんが会議から戻って来まして・・・・・・同じ男性用サイズで五本も注文を頂きました」
「おお!やったわね!」
二人はハイタッチをして見せた。
「ええ、ルノンさんにお聞きした“実演販売”の威力はすごいです。あんなアイディアはどこから・・・・・・」
眼鏡の奥のラピスラズリの瞳を大きく開き、ルノンに祈りを捧げるように胸の前に掌を組んだ。
「そこでキノコを引っこ抜いてる赤ん坊からだけど?」
木の根っこから生えているシイタケを黙々と抜いているネレを指さす。
「ええ! やだぁ、ルノンさんでも冗談言うんですねー!」
聞こえてくる二人の会話に特に気にも止めず、ネレはシイタケの採取に精を出している。
「それでですね、モーヴさんがこの乳母車を譲って欲しいって言ってるんですよ〜」
「それは・・・」
と、歯切れの悪いルノンがネレに振り向く。
ネレはチロり、と翡翠色に反射した瞳をルノンと合わせたが、立ち上がりカプシーヌの方に真っ直ぐ向き直した。
「それ、カプシーヌ、さん、もうひとつ、つくる」
「ええっー! ネレちゃんもう喋れるの? 成長早いのね〜、へええ〜・・・・・・え? もう1台作るの? アタシが?」
「ニジェルさん、やさいが、おもくて、たいへん?」
「はあ、確かにニジェルさんもシャドンさんも野菜の納品で苦労してるみたいね」
「じゃあ、しょくどうせんよう、つくる、いい、よろこぶ」
「ちがう乳母車かあ〜」
「ううん、そのハコ、はずしたやつ、つくる」
「このついてる囲いを?」
「かわり、いた、のせる。やさいのハコ、のせる、そのうえ、べつのハコ、かさねる。さらにそのうえ、こむぎこのせる、きっとできる」
「つまり・・・・・・積載重量を増やす為に、ジャマな箱をはずして、荷物を重ねられるように、って? ――――キミは天才かっ!」
「ではさっそく取り掛かります!」と言い残し、カプシーヌは“ハハカート1号”と名付けた乳母車をひいて飛び跳ねながら渡り廊下へと戻っていった。
この国には荷車や馬車は存在していたが、人が手で押す“台車”はまだポピュラーではなかった。
ネレは前世のかなり偏った知識を生かし、運搬時にガタガタしないハハカートの基本設計図を作っていた。
「この部品、交換効くんだぜ!」という感じでである。
それがまさか、18世紀後半に製造された大型馬車にも、戦争時の移動式兵器にも応用できるボール型ベアリングとは知らずに・・・。
視線だけで、廊下の向こうで段々小さくなっていくカプシーヌを見送った。
「いいの?」
と、ルノンは尋ねた。
「なにが?」
「図面引いてあげなくて」
「こんかいは、カプシーヌが、ヒントをもとに、さいしょからつくる」
「時間がかかる上、失敗するかもよ?」
「しっぱい、けいけん、まなぶ、とてもだいじ」
「なるほど・・・て、どんだけ精神年齢が大人なのよおぉぉぉぉぉぉ!」
ルノンのツッコミが採取の森に響いた。
心地よい晴れた日、森の木々を抜ける爽やかな風によって、ルノンの声は採取の森の中心部に届いた。
「んん〜? だれの“精神年齢が大人”だって? いったい森の中でどんな会話を・・・」
木の陰で、仰向けに寝転び、顔に伏せていた報告書の冊子を落とした。
「ふう・・・・・・」
少々寝ぼけたヘーゼルの瞳を、兵舎側に傾けた後、ため息混じりに本城側に顔を向けた。
「いかん、少し根を詰めすぎた、執務室に戻ってから風呂にでも行くか」
面倒臭そうにのっそりと起き上がり、寝癖のついたミルクティー色の髪を手櫛しで整えてから立ち上がると、ヌーヴェル城の本館側に足を踏み出した。
彼は城の側面にある低い柵を越え、ベランダの窓から文官用の執務室に入る。
「ちょっとトレフル様!どこから入って来てるんですか!」
「執務室の窓?」
見事な金髪碧眼の少年が、本と書類の散乱したトレフルの専用執務室で書類と格闘していた。
「予算の回答書ができたから、清書しといてくれ」
トレフルは素っ気なく持っていた書類の冊子を助手のロティスに渡した。
「え?どの回答書ですか!兵士装備、兵舎設備、渡り廊下の修繕費、孤児院補助金、それと食堂の必要経費については予算追加の要求書がついていたはずです」
「全部だ、清書よろしく頼む、だが兵舎の水場の修繕費について検討項目があるので、それは別予算で振り分けると回答しておいた。予算オーバーだからな」
「え・・・全部って・・・その書類が揃ったのは、今朝の会議ですよね?」
「ああ、だから本日中に清書を頼む」
彼は受け取った書類の冊子を青ざめながら眺めた。
項目ごとの書類の裏側に、懇切丁寧にびっしりと文字が書いてあった。これなら書類が多少バラけても、何についての回答かすぐに分かる。
ロティスの記憶が正しければ、孤児院の最高責任者はついこないだ亡くなったはずだ、にもかかわらず孤児院の決済が短期間にすべてきれいさっぱり処理されている事になる。
しかも、兵舎食堂は過酷な労働条件の上、常に人手不足のはず・・・だが、きちんと予算明細が提出されたという事だ。
兵士の装備諸々については平民の経理担当者がきちんと書類を作っているはずだが、ここにきて最近各部門の仕事の流れが円滑になりすぎている。
トレフルがすぐに結論を出せたという事は、優秀な人材が明確な書類を提出した事になる。
「えええ~! これ全部今から清書するんですかぁ!?」
「当たり前だ」
「そんな・・・・・・本日中って今、夕方じゃないですか!」
「とりあえずやり始めろ、私は風呂に行く、戻るまでできる限り進めておくように」
トレフル経理官の新人助手ロティスは、ハラハラしながら額に汗を流し始めた。
「わ、わかりました。今から西側地区の貴族浴場まで行くんですね? それなら一時間ぐらい戻らないって事で・・・・・・」
「何を言っている。自分の担当する兵舎の風呂の設備点検を兼ねて行ってくるんだぞ? 一時間もかからず戻る。ついでに夕食の注文もしてくるから大丈夫だ」
「は・・・はあ、よろしくお願いします・・・」
ロティスの顔には「大丈夫じゃないです」と書いてある。
トレフルが自分の手荷物から巾着袋に入ったタオルと着替えを取り出し、執務室を素早く出て行き扉が閉まった。
ふと、ロティスは冷静さを取り戻しつつ、書類を力の限り握りしめて、トレフルが出て行った扉に向かって声を出した。
「はあぁぁぁっっ? ちょっと待って下さいよ! どこの世界に仕事だからと言って、平民の共同浴場に入る貴族がいるんですかあぁぁぁっっっ!?」
時刻は午後の四時過ぎ、兵舎の共同浴場が女湯から男湯に切り替わる時間である。
兵舎にある共同浴場は女湯・男湯は区別されてはいない。
男の幼児が物心がついて“恥ずかしいから男湯の時間帯に風呂に入る”ぐらいのものだった。
ちなみに、そういうことを気にしない女兵士は、男兵士と混浴するような曖昧な取り決めである。
山の中で野生動物と温泉に浸かる程度の感覚だ。
「やはりこの時間帯は湯がきれいで空いているな」
身体を洗い流してさっぱりとしたトレフルが、頭の上に手ぬぐいを乗せて湯舟に浸かっていた。
「トレフル様、お久しぶりです」
早番で上がったジャンが、洗い終わった身体を湯舟に沈めながら挨拶をした。
「ジャン・・・ご苦労、兵士の装備の件、あの計算書はお前が作成したのだろう?」
「おや、バレましたか。作成者は違う名で提出したはずですが」
「当たり前だ、兵舎の雇われ会計士は武器の正確な価格など書いたことなど一度もない」
「はあ、そんなに酷かったんですね・・・ポレーン様が余計なことをしていた時は・・・」
「ああ、あれは酷かった。とても巧妙な手口だったな・・・私が武器商人に明細書を再度作成させたほどだ」
「少しはお役に立てましたか?」
「大いに結構! お陰で私の残業が減ったよ。感謝するよ、ジャン」
「お褒めに預かり光栄です。トレフル様」
その時、脱衣所と浴室を隔てる引き戸を開ける音が二人の耳に届いた。
心地よい桶のぶつかる音が湿度の高い浴場に響く。
「ジャン、この浴場の石鹸の質や減りには問題はないか?」
「あ~、たま~に手癖の悪いヤツがいますねぇ」
十二分に補充しているはずの石鹸が足りなくなったり、設置してある桶の数が足りない事がしばしば発生している。
「そうか・・・、タイルのヒビなどで怪我人は出ていないか?」
「女性は分かりませんが、兵士の怪我は自業自得と考えていますから、そんな気にしてませんねぇ」
「女性か・・・ここの浴場を掃除しているのは下働きの女性だからな、湯舟がキレイなのもよくやってくれている証拠だ」
「まあ、城内で不潔な姿で働くのは言語道断ですからね。あ、そういえば!」
「ん、なんだ?」
「孤児院の石鹸でよく子供達がイタズラするから、石鹸の真ん中にキリで穴をあけて紐を通して、蛇口の首に引っかけてましたよ。それで石鹸の減りが少なくなってました」
「・・・見てきたのか?」
「ええ、たまに行くので」
「孤児院の中にか?」
ジャンの視界の端に、見覚えのある人物が映った。
「あ・・・やっば・・・」
「ん? どうした?」
ジャンが口を左手で押さえながら見つめていた先は、洗い場で素っ裸で仁王立ちしているニジェルだった。
その裸体は兵士顔負けの肉体美である。
「おや、ニジェル。大事ないか?」
トレフルは風呂のリラックス効果で、緩み切った笑顔でニジェルに挨拶をした。
「お陰様で相変わらず無病息災ですよ! しっかし平民と風呂に入るなんて、トレフル様は風変わりなお貴族様だなあ・・・」
「ああ、ちょうど良かった、今日は残業が決定なので食事を注文しに行こうと思っていたところだよ、今日の遅番は誰だい?」
「俺さ!」
キメ顔で、ニジェルは親指を自分に向けた。
“ウザッ!”という表情をジャンは面に出す。
激しい水音を立てて、ニジェルはジャンの横に乱暴に片足を突っ込んだ。
「ちょっとニジェルさん! ちゃんとかけ湯は浴びたんでしょうね?」
「あ~はいはい、洗ったし、かけ湯もしたし、その前に酒も浴びたしな!」
「うわ! 仕事の前に呑んだんですか?」
「ばーか、遅番明けに呑んで、昼まで仮眠室で寝てたんだよ」
「紛らわしい言い方しないで下さいよ」
「ぐは~」・・・と、大きなため息と共に、ニジェルは全身を湯舟に浸からせた。
この広い兵舎共同浴場で、約三名の貸し切り状態となった。
理由は簡単だ。
ジャンは早番でたまたまだが、貴族のトレフルの姿を見た時点で兵士達はほぼ退散した。
そして、気迫も体格も隊長格の目立つニジェルが現れたことで、浴場入口までたどり着いた兵士たちは180度方向転換をしてしまったという結果である。
「トレフル様、今夜のメニューは具沢山スープと、プレーンオムレツと普通のパンですが、 いつも通り一人前で?」
「いや、二人分を頼む。あとできれば黒糖の干し葡萄のパンがいいな、プレーンオムレツの味付けはなんだい?」
「白ワインのホワイトソースにしますよ、お好きでしょ?」
ふむ・・・と、トレフルは顎に手を当てて少々思案をした。
「私はそれでいいのだが、新しい助手が学院を卒業したばかりの子供でな、酒の類はまだ慣れていないから、ソースは別のものを頼む」
トレフルの注文を聞いたニジェルは、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「承知しました、お子様向けですね? トレフル様のオムレツとは別に調理しますので、酒が入る作り方はしませんよ」
「ああ、手間をかける。すまないな」
「いえいえ、二時間後でよろしいですかね?」
「大丈夫だ、よろしく頼む。ニジェル」
そう言い終わると、トレフルは湯舟から上がり脱衣所に去っていった。
「いやぁ、相変わらず貴族の文官とは思えないぐらいのスマートな体型してますよね? トレフル様は」
肝心な事を忘れていたジャンは、にこやかに右手にいるニジェルに話しかけた。
「さて・・・」
ニジェルが左腕を湯舟から出し、ジャンの首を腕でがっちりと固定した。
「二、ニジェルさん・・・何を・・・」
兵士であるジャンであったが、毎日食堂の厨房で大鍋を振るっているニジェルの腕力には敵わない事を悟った。
「オマエだろう? 兵舎食堂よりルノンお嬢の料理の方が美味いって言い出したのは・・・」
「ぐ・・・ぐはっ! ニジェルさん、止めて! 絞まってるから! 首絞まってるかっらぁ~っ――――」
兵舎共同浴場で激しい水音がした後に、ジャンの声にもならない悲鳴が響き、後から来た同僚に脱衣所まで救出された――――。