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第9話 【雪萼霜葩(せつがくそうは)】

 ネニュファールがヌーヴェル城に来てから四度目の春が来た。

 ヌーヴェル城本館と、兵舎をつなぐ長い渡り廊下の左右には見事な桜並木ができている。

 華美な人工的装飾のある西側地区とは違い、平民が多く駐在する東側地区ならではの、美しい風物詩であった。

 本館から兵舎へは渡り廊下が設置されていたが、元々、ヌーヴェル城と孤児院を結ぶ廊下は存在しない。

 まったくの別の建物の為、兵舎玄関から孤児院へと続く道と、渡り廊下からは孤児院へと続く石畳が整備されていた。


 採取の森の、比較的手入れをされている箱庭のように見える部分を大きめの窓から覗ける一室――――。

 東側地区担当の経理官トレフルと、孤児院副院長のソールは紅茶を飲みながら今後の孤児院の活動についての打合せをしていた。

「・・・で? 今度の院長候補は大丈夫なのでしょうね?」

「はい、今回の人物は上層部の息がかかっていません」

 孤児院は、ネレが来てから三人目の院長を迎える予定である。

 ポレーンが死去し、しばらく間を空けて二人目の院長を迎えたが、ソールの判断で「チェンジ」を申し渡された。

 今回は孤児院創立以来、初めての女性院長の誕生でもあった。

「ワケありですか?」

「はい・・・私と同じ“算術の才”の持ち主です」

「なんと! 貴重な人材ではありませんか・・・しかし何故?」

「なんというか・・・頭が良すぎて、気が回らず、上層部のジジイどもに逆らってしまい、煙たがられまして」

「どこかで聞いた話ですね? トレフル坊ちゃま」

「はい・・・他人とは思えません・・・」

 トレフルは眉間に皺を寄せて思わず眼を瞑った。

 女性であるにも関わらず、孤児院院長になり、聖騎士に準ずる特権を有する者など、前代未聞である。

 決定後しばらくの間は、貴族のお茶会と晩餐会などはこの話題が中心となるであろう。

「調査書を見せて頂戴」

「ご内密に、本当は見せてはいけないものですからね」

 トレフルはおずおずと、テーブルの下から書類を出した。

「分かっています。だからこの場所で打合せをしているのでしょう?」

 二人が打合せをしているこの部屋の窓は大きく、他に人影はない。

 美しい庭園を眺める事のできる造り、広々とした空間に古風で品のあるテーブルセットが三つと、壁際にはバーカウンターがあった。

 そこには酒用の背の高い棚が取り付けてあったが、今は六本ほど並んでいるだけだった。

 食器類もまばらであったが、それなりの価値のある物のようだ。


「なるほど・・・ぱっとしませんね、女性としては」

 ソールはほぼ確定の次の院長の調査書をよく眺めてみた。

「その通りです。地味な方が良いかと思いまして」

「よろしい、この方・・・ウェメレス様でお話を是非進めて下さい」

 いつも無表情が多いソールの口角が上がった。

「おや? ソール先生が珍しく乗り気の様ですね」

「ええ、面白そうな人材だわ。今までになく孤児院の象徴として役立ってくれそうね」

「・・・・・あんまりイジメないで下さいよ。彼女は貴重な人材なのですから」

「推してきたのはトレフル坊ちゃまでしょう? 最後まで付き合って貰いますよ」

「おお、怖い!」


 古びた扉が開くと、内側から経理官のトレフルと、孤児院副院長のソールが姿を現した。

 そこは兵舎食堂の厨房の裏側から続く、廊下の突き当りにある扉であった。

 食堂の地下食糧庫の上の部分に位置する部屋だ。昔は貴族達が密会に使っていた秘密の多い部屋であったが、現在は城での管理は放棄されているので、兵舎食堂の副料理長のニジェルが掃除と維持を担っている。

 食堂から直接繋がっていたはずの廊下は、古い扉で遮られその鍵は行方知れず・・・、現在は封鎖されたままだ。その為、直接厨房を通る方法でしか入室は不可能となっている。

「ニジェル、シャドン、お茶ご馳走様」

 トレフルが調理師達に労いの言葉をかけ厨房を横断していく、その後ろをソールが静々とついて行った。

「ニジェル、いつも気遣い痛み入ります」

「恐れ入ります」

 ニジェルが二人の貴族に頭を下げ、部下の三人がそれに習い頭を下げ、二人を礼儀正しく見送った。

 食堂の出入り口を出て行った二人を確かめ、厨房内にいる調理師四人は胸を撫で下ろす。

「ニジェルさん・・・あの部屋いつから政治的陰謀に使われるようになったんですかぁ?」

 調理師のシャドンは眉尻を下げて瞳を潤ませる。

「うるせぇよ・・・、いいかお貴族様の会話なんか俺達は聞いていないし、ここは城の一部だ、俺達に拒否権はねえ!」

『ですよねぇ・・・』

 部下の三人は同時に溜め息まじりの声をそろえた。

「さっさと、ジャガイモの下ごしらえを済ますぞ!」

『は~い』

 四人は定位置につき、洗い終わったジャガイモの皮を剥きはじめた。


 兵士のビーヴは、咲き乱れる桜景色の中に、葡萄酒色の小さな頭を見つけた。

「はあ~、天気いい~!」

 本の最後のページを読み終えたネレが、本を閉じ、思いっきり伸びをした。

「よお、ネレ! 元気か?」

 渡り廊下を歩いていた兵士のビーヴがネレに気がつき、渡り廊下から逸れ、ネレの座っているベンチに近づいた。

「ビーヴさん、こんにちは!」

 ネレは四歳、ビーヴは今年で二十一歳となっていた。

 ビーヴはネレが持っている本の背表紙を見て、顔を引きつらした。

「おい・・・普通の四歳児はそんな本は読まないと思うぞ?」

「え? 結構面白いですよ、コレ」

 どさりと、ネレの隣に彼は座り、足を組んで背もたれに体重を掛けた。

「ネレ・・・まさかお前“偽装の才”とか持ってないだろうな?」

「偽装? なんですかそれ?」

「魔力値とか才を他人に悟られないようにする“レアな才”だよ」

 ――――“才”って、ゲームとかで言う“スキル”持ちってことなんだろうな・・・

「そんなのあるんだ」

「まあ、ジャンがないって言うんだから、ネレには本当にないんだろうな」

「え? ジャンさんの才ってなんですか?」

「さあ、正式名称は分かんないけど? ジャンは嘘を見抜く才があるみたいなんだ」

「うおぉ! ジャンさんすごい!」

「まともに使うと魔力切れ起こして倒れるらしいぞ?」

「・・・残念な才ですね」

「普段はカンがいいって程度だな、元々頭良いし、なんで兵士になったんだか」

「ふうん?」

「くぉらっ! ビーヴ、サボってんじゃないよ!!」

 ビーヴの金茶の頭を見つけたジャンが、渡り廊下から直角に曲がり、肩で風を切って大股でベンチに向かってきた。

「うぉ! やっべぇ!?」

 ジャンがベンチの横に回り、ビーヴの後ろ襟首を掴んで持ち上げた。

「今日は早番じゃないからさっさと定時で上がる約束だろう?」

「あ、そうだった! スマン、ルノンの夕食当番の日だったな? ネレ」

 そんな二人のやり取りを「へっ」と、半開きの生暖かい目で見守った。

「そうですよ~、今夜はデザートが特別に付く予定ですよ~。でも早く来ないとなくなっちゃうかもねぇ?」

「ひゃあああ! よし! 絶対仕事終わらす!」

 一度持ち上げたビーヴの襟首をジャンは離し、その動線で頭にチョップを食らわせた。

「オマエのせいで仕事が滞っているんだろうがっっ!!」

 ジャンに引きずられながら、手を振っているビーヴに、ネレは手を振り返した。


 

 孤児院の執務室に静かなノックが響いた。

「どうぞ」

 孤児院の伝票などを確認していたカプシーヌが机に向かいながら返事をした。

 扉が開き、孤児院副院長のソールが入って来た。

「お疲れ様、カプシーヌ」

「お疲れ様です、ソール様」

「伝票などに不手際はなかった?」

 そう言われたカプシーヌがにんまりと指で丸を作った。

「もう、バッチリです! 最近はネレがお手伝いをしてくれるようになったので、書類仕事に集中できるようになりました」

「まったく、幼児使いのひどいこと」

「そんなあ~、ネレは自分からやってくれるんですよぉ」

「ネレはあんな小さいのに、何故そんなに一生懸命なのでしょう・・・」

「それはネレの魂の核に元々そのように刻まれているのだと思います」

「“魂の核”・・・それは聖伝の引用ですね? カプシーヌ」

「あ、やっぱりバレました? あははは!」

「いえ、良い表現だと思いますよ」


 二人はしばらく執務室の机で、帳簿と経費の報告書の確認業務を行った。

 一区切りがつき、ソールが別の仕事に取り掛かろうと本棚の前へと歩み寄った。

「あら、ここにあった“生物解体新書”はどうしました?」

「ネレに貸出中です」

「まあ、おませだこと。気分で眺める程度で貸し出してはいけない貴重な本ですよ」

「いえ・・・ちゃんとネレは読んでいると思います」

「そんなバカな・・・十二歳の子供でも理解し難い内容ですよ?」

「理解できなくても、ネレは単語を覚える為に読みますよ? そういう子ですから」

「単語を? 専門書の・・・・・・孤児院の子供の為の本はどうしたのです?」

「そんなのとっくにネレは全部読んでいますよ」

「四歳児がですか? 中には十歳児以上の対象の本もあるのですよ。なんの冗談ですか」

「ネレがわからないところは、シスタールノンが教えていますから」

「ああ、そういうことね・・・とりあえず調べ物があるので“植物分類学”を借りますよ」

「返却予定はいつ頃ですか?」

「あら? どうしたの? 誰かの予約でも・・・まさか・・・」

「その・・・まさかです。“薬草調査学”と同時に借りたいと言っていましたので・・・」

「・・・同時に借りる理由は?」

「はあ、え・・・とぉ、キチンと見比べて、薬草の効能が加工時にどのように変化するのか確認したいとか言っていましたけど?」

「ルノンではなく、ネレがですか?」

「はい、ネレが私に直接そう言っていました」

「ネレは四歳児ですよね?」

「ソール様、しつこいです」

「確かネレの魔力値は・・・」

「ゼロです」

「測定時に確認できた“才”は」

「ありません」

「“偽装の才”の可能性は・・・」

「あり得ません。トレフル様は“神判の才”をお持ちですよね?」

「・・・やはり今日のところは聖なる伝承にまつわる“才の起源”を借りる事にします」

「あの、たかが子供の言う事ですので・・・お気遣いなく・・・」

「そのうちネレは・・・貴族院の図書館に行きたがりそうですものね」

「さすがはソール様、そこまでご理解戴けるとは思いませんでした」

 ソールは本棚から“才の起源”を取り出し、ふらつきながら、机に身体をぶつけ、椅子につまずき、ドアノブを一度に回せず、ドアノブをガチャガチャと二回まわしてようやく執務室から出て行った。

 扉が閉まるまでのソールの一連の動作をカプシーヌは黙って見送ったが・・・、隣の院長室の扉が閉まった音が聞こえた後、バタン!と、確実に何かが倒れた音がした。

 ガタガタ――――。

 カプシーヌは椅子を臀部(でんぶ)で押しのけ、黙って椅子から立ち上がり、急ぎ足で院長室のソールの介抱に向かった。



「――――ちゃん、ケイちゃん!」

 肩を微かに揺らされた気がして、自分のデスクに突っ伏していたケイコは目を覚ました。

 心配そうに彼女の顔を覗き込む茶色いつぶらな瞳が見えた。

「梅さん・・・いえ、事業部長! 済みません。私、寝てました?」

 彼女の上司が両手を腰に当てて大きなため息をついた。

「ウメでいいわよ・・・。も~う~、あんた会社に泊まる気?」

 顔を上げ、ケイコは自分の顔を指でなぞって確かめた・・・。

 ――――キーボードの跡がついてるぅ!?

 パソコン画面はいつの間にかスリープモードになっていた。

 三十九階のガラス窓からは、夜のお台場の美しいイルミネーションが控えめに灯されていた。

「い、いえ! 帰ります。でも、終電まで大丈夫です!」

「・・・もう、明日は出勤しちゃだめよ? ちゃんと帰って休みなさいよ」

「あと・・・少しだけ頑張ります。今、被災地に向かえる大型トラックのドライバーが三名つかまりました!」

「本当!! それはありがたいわ! 積み荷の用意は?」

 ケイコはデスクの上にあるFAXをバサバサと退かし、パソコンのメール受信の画面を開いた。

「飲料水・紙パックの野菜ジュース・食品缶詰・アルファライス・缶入りブレッド・サバイバルフード・カップ麺・男性用下着・女性用下着を三百人分手配済みです! 明日一番の八時の便で当社の倉庫に納品予定です」

「くおお! ナイスだケイちゃん! 私は浜松町のホテルに泊まるから、アンタは帰って娘さん抱きしめて寝てなさい! 震災の時は帰宅できなかったんでしょうが」

「ぶ・・・部長・・・すみません!」

「ああ! ついでにセクハラ支店長は本社にチクって青森の端っこに強制出向させといたから、安心して働き続けなさい!」

「あざーすっ!」

 LED蛍光灯が明かりを灯す近代的オフィスのフロアー内には、連日の残業でボロボロになった熟女二人が抱き合っていた。

「あ・・・、ちなみにSCビルの高層階における設置義務のある防災用品ですが、引き続き保存食と簡易毛布の件も二百人分追加発注いただきましたので、手配完了しております」

「ええ~! うちの在庫は大丈夫なの?」

「実は、震災の一週間前にちょうど・・・私が三十人分を発注単位ミスって三百人分でやっちまった商品を・・・キャンセルしないで注文を進めちゃいましたぁ!」

「ふおお! 奇跡のドジっ子めぇっ!」

 再び、涙ぐみながら背中を叩きあう熟女二人であった――――。

 高層ビルの美しい夜景など、お互いに見飽きて見向きもしない。

 ほんの少し先に見える湾岸の高速道路には、渋滞した車が照らす赤いテールランプが煌々と連なっていた。


 ネレの身体は大きめの男性の手で揺らされていた。

 重い瞼をようやく持ち上げると、散りゆく桜の花びらが視界に入ってきた。

 優しげなヘーゼルの瞳と視線が合った。

「こんな所で昼寝をすると、風邪をひくぞ?」

「ん・・・トレフル・・・さま?」

 やれやれ、と言う感じで、トレフルはベンチでうたた寝をしていたネレと、ネレのお腹の上に乗っていた本を一緒に抱き上げた。

 トレフルは寝ぼけたネレの耳元に囁くように言った。

「その本をしまって」

 そう指摘されたネレは、慌て自分の服の中に“王制軍事論”を隠した。

 抱き上げられたネレは肩越しに、トレフルの後ろに立っていた二人に気がついた。

 一人は騎士の正装をした凛々しい銀髪の男性。

 もう一人は、その騎士に背中を護られるように一歩その前にいた。

 背は低めで、全体的にぽっちゃりとした女性であった。

 茶色の長髪をひとつに引っ詰めて、おでこをスッキリと出し、髪と同じ色の瞳は子犬のようにつぶらで、鼻はちょこんと顔に乗っかっている感じだ。

「う、梅さん!?」

 ネレは夢の続きでも見ているのかと目を見開いた。

『ウメサン?』

 トレフル、ケイル、そしてウェメレスが首を傾げた。

「あああ・・・す、すみません、ボク、寝ぼけてたみたいで」

「トレフルさん、孤児院の子ですか?」

 質問されたトレフルがウェメレスに向き直した。

「ええ、一応今は孤児院で一番年下のネニュファールです。言い(にく)い名前なのでネレと呼んでいます」

「孤児院は人手不足の為、現在は二十五名しか受け入れられないと聞いています」

「ええ、希望者はいるのですが、衣食住の他に、基本教育も施さなければならないので、普通の孤児院と同じにはいきませんよ。ネレ、新しい院長先生のウェメレス様ですよ、このままご挨拶をなさい」

 ――――え? トレフル様に抱っこされたままで挨拶するの? ・・・あ、本を見られたらまずいのか!

「あの、この体勢のままで失礼します。ウェメレス院長先生、ボクはネレ、今年で四歳になります」

 ウェメレスは小さな瞳をパチクリさせつつ、平静を装った。

「はい、はじめまして、ご紹介に預かりましたウェメレスです。よろしくね」

「これからよろしくお願いします」

「凄いわね、四歳でもこんな立派な挨拶ができるのね!」

 ウェメレスの驚きに、騎士のケイルが自慢気に言った。

「ソール副院長の教育の賜物(たまもの)ですよ」

 トレフルは無言の笑顔で「別にソール先生は、あなたの家族でも恋人でもないでしょう」と、心の中でツッコミを入れていた。


 四人が孤児院の入り口へと到着すると、ソールとプラタが出迎えの準備をして立っていた。

 トレフルが抱えていたネレを降ろし、頭を撫で、孤児院の中へ戻るように促した。

「それでは、お先に失礼させていただきます」

 床に着地したネレが、腹と衣服をしっかり押さえつつ、ソールとプラタにも一礼をして孤児院の中へと姿を消した。

「はじめまして、ウェメレス様。私は孤児院副院長のソールと申します。こちらは私の補佐役を務めていますプラタでございます」

「お会いできて光栄でございます。プラタと申します。以後よろしくお願いいたします」

二人は深々と敬意を表して頭を垂れた。

 ウェメレスは二人の金髪と銀髪、そしてその容姿に見惚れてしまい、言葉を失った。

「シスターソール、シスタープラタ、出迎えご苦労様です。こちらが新しい孤児院院長のウェメレス様です」

 ウェメレスの方に振り向いたトレフルは、肝心の彼女がポカーンと口を薄っすら開けている様子にぎょっとしてしまい、咳払いをし、慌てて彼女に返事を促した。

「あ・・・は、はじめましてウェメレスです。不束者(ふつつかもの)ですが・・・」

 挨拶の為に頭を下げようとしたウェメレスを、トレフルは制止した。

「ウェメレス様! “不束者”は使わない、会釈しない、ここではあなたの方が高位ですから」

「あ、よ、よろしくお願いいたします」

『・・・・・・』

 ウェメレスの第一印象は「なんか思ったより腰の低い貴族がきた」である。

 その様子を陰からネレはひっそりと覗き込むように見ていた。

 ――――なんか、外人顔っぽいけど、まんま梅さんだなぁ・・・


「――――で? どういうことでしょうか。トレフル坊ちゃま?」

 ソールはウェメレスに孤児院内の案内を終わらせ、ウェメレスと騎士のケイルを見送り終わったところであった。

 その直後、トレフルは院長室に呼び出しを食らっていた。

「そのう・・・、ウェメレス様の護衛予定の新人騎士が急病だとかで、取り急ぎケイル様がその代打として来られたようでして」

「ちょっと待って下さいな? 新人でもできる護衛なら他にいくらでも人材がいるはずでしょう? 何故そこに“幻影の騎士”であるケイルが出てくるのです!」

 騎士のケイルは“名誉騎士”の位を持つ騎士団の代表格だ。

 普段は城内で護衛も担っているが、急きょ新人騎士の代打・・・とは、ならない人物であった。

「そこは、ケイル様に訊かないとちょっと・・・」

 なんとも歯切れの悪い返答をするトレフルである。

 ケイルはウェメレスの案内の途中で、一瞬でも皆の視線が外れた間に、ソールの指をつついたり、ソールの耳元に何か囁いたり、そっと肩に手を添えたりしていた。

 ソールは案内をしている時間は平静を装っていたが、現在は耳まで真っ赤である。

 後日トレフルがケイルに、ソールの様子を報告すると「ムキになるところが可愛い」と、何故かケイルを喜ばせてしまう結果になったという。



 ケイコが勤めていたのは、浜松町にある超高層ビル39階オフィス――――。

 その高層ビル内には常勤の従業員約一万人が在籍している。

 男女比率は7対3、食堂や施設管理人員、警備員、納品専門業者、スポーツクラブ、託児所、医療設備などを含めると約一万五千人の多種多様な人間が出入りしている。


 朝のエレベーターホールはちょっとしたアトラクションレベルの長蛇の列となる。

 高速エレベーターを乗り継ぎ、彼女は自分の職場に出勤した。

 ケイコはロッカーで紺色の制服に着替え、自席のパソコンのスイッチを入れ、隣の営業部の数名が集まって立ち話をしていたのを視界に入れた。

「梅さん。おはようございます」

 ケイコはその中の事業部長に向かって挨拶をした。

「おはよう、あ~そうだ!」

 営業部のメンバーが事業部長と同時にケイコを一斉に注目した。

「どうしました?」

 事業部長の梅原がチョイチョイと、ケイコを手招きした。

 彼女はそちらに足を進めた。

「ケイちゃん大変だ! 芝田が胃腸炎で倒れて入院した」

「まあ、大変! わかりました。芝田先輩の通常事務処理はお手伝いしますし、営業部の方が不在の時は電話を・・・」

 ケイコが自分のできる限りの業務を確認しようとしたが、梅原は分厚い資料の束を彼女に手渡した。

 ズシンと、ケイコの腕がその重さに下がった。

 かなりの重量級だ。所々にピンクやイエローの付箋がつけてあった。

「では、任せた!」

「え・・・何を?」

 ケイコが渡された資料に視線を落とすと、ベビーカーのカタログが1番上に乗っていた。

「確か、ケイちゃん・・・清水は百貨店のベビーグッズの販売員だったよね?」

「はあ、確かに前職はそうでしたが」

「スマン! 来週の芝田のプレゼンやってくれぇっ!」

「ええぇ! 私、調達部ですよ! 本気ですか?」

「でも、販売士だよね?」

「そ・・・そりゃ資格持ってますけど」

「接客接遇も簿記もカラーコーディネーターもあと・・・」

「わ、わかりました。事業部長としてのご命令ですね? 何からやればいいか教えて下さい」

「先ずは素人でもわかるように、プレゼンでこのベビーカーの性能を説明できるようにしておくれ」

「仕様書ぶあつぅっ・・・」

「それが終わったら」

「終わったら?」

「来月は電動自転車プレゼンがある。それもやって!」

「マジですか!」

「マジだよ! 芝田以外みんな出張予定なんだよ~っ!」

 ――――泣きたい・・・

 営業部メンバーも全員泣き顔であった。

 ケイコはその日から通常業務と入院中の芝田の事務処理と、プレゼン資料作りに大忙しとなった。

 プレゼンを任されたからには、売上目標が紐付けされる。

 売れるためのベビーカーのプレゼン作りは、ケイコが母親目線でのQ&A方式にした。

 通常のベビーカーより更に上を行く車輪部分の安全性と軽量化を説明する為に、メーカー担当者に問い合わせ、わかり易く簡易の図面を書き上げ、更にメーカー担当者に相違がないかプレゼン資料の確認を繰り返したのだった。

 あくまでピンチヒッターだったのだが、その母親目線のプレゼンの甲斐あってか、売り上げ目標を見事達成したのであった――――。



 『クォケコッコーーーっ!』

 孤児院で育てている鶏のひと鳴きで、ネレはパッチリ目が覚めた。

「夢かぁ・・・どっちが夢やら(うつつ)やら・・・」

 ――――忙殺されていた前世が懐かしくてたまらない・・・ワケでもないな・・・

 隣のベッドから、子供のすすり泣く声がしたので見ると、他の子供達が熟睡している中、小さな男の子がシーツに地図を描いてしまい、泣いていた。

「オネショか・・・」

「ネ・・・ネレ、言わないでぇ~」

「あ~、セレポレ、今タオルを水で濡らしてくるから、着替えの準備は自分でできるかな?」

「うん・・・」

「それと、みんなを起こさないように、上掛けカバーとシーツをはがして? ボクも手伝うから大丈夫だよ」

「うん」

 外は薄っすらと明るくなっていた。

 ネレはタオルを持ち出し六人部屋から出ると、廊下にある一つだけの蛇口をひねった。

 まずは自分の顔を洗い、顔を拭い、そのタオルを濡らして絞った。

 ――――この蛇口の水は手汲みだから、そんなに量は使えないな

 孤児院の建屋の中にある蛇口の水は、毎日二階の水瓶にわざわざ人間が水を運んでいるものだった。

 部屋に戻り、服を脱いで裸になっていたセレポレの身体を拭き、新しい服に着替えさせ、自分のベッドに寝かせた。

「トイレは行かなくで平気?」

「うん」

「じゃあ、このままボクの寝床でもう少しお休み、オネショはボクがした事にするから」

「え? でも・・・」

「ふふっ、キミは昨日もしたじゃないか? たまにはボクがしてもおかしくないだろう?」

「で・・・でも」

 と、言いながらもセレポレはウトウトと眠りについた。

 自分も服を着替え、はいだ上掛けカバーとシーツ、セレポレの寝間着を木桶に入れて持ち、孤児院の外の井戸に向かった。


 朝食の準備をしていたプラタに石けんを借り、井戸のすぐ横の洗い場でシーツなどを洗っていた。

 ネレの身体では、井戸から水を汲み上げるのも一苦労だ。

 ハアハアと、肩で息をしながらシーツやタオルを洗濯板で丁寧に洗っていた。

 早番で警備に回っていた赤髪のダフネを見かけて、挨拶の為に声を掛けた。

「ダフネさん、おはようございます!」

「おお、ネレ、朝早くから洗濯か?」

「はい・・・ちょっとオネショをしてしまって・・・」

「ん~? おぬしじゃないだろう? 本当は」

 ダフネは洗濯をしているネレの横にかがんで膝をついた。

「そ・・・そういう事でもいいですけど・・・」

 ダフネにそうはっきり言われると、ネレは反論ができなかった。

「まったく、この孤児院は一番幼いおぬしが一番しっかりしておるな」

 ゴシゴシと手を動かし、ネレは額に汗をかいていた。

「せ・・・せめて院内の蛇口で洗濯できれば楽なんですけど」

「う~ん、貴族院レベルの予算はこちらにはないからのぉ・・・」

 ぴた、と、ネレの手が止まった。

「貴族院・・・西側地区は汲み置きではなく、水道設備があるのですか?」

「おお、あるぞ? ただ浄水機能など魔力を食うからの、人件費もそれなりにかかっているんじゃよ」

「人件費・・・」

 ネレが強く反応した。だが、すぐに手を再び動かし始める。

「まあ、こちらには設備工事ができても継続的に“浄水の才”のある人間は雇えないからの」

「設備工事・・・あの、もしかして井戸の水を貯める設備ぐらいは予算でできますかね?」

「井戸の穴を掘るぐらいで良いのか?」

「いえ、井戸を増やすと増築や建て替えの時、連鎖的に撤去作業が余計にかかりますし、同じ水路から水を汲んでいると他の井戸の水が濁ることもありますからね」

「ほお、物知りだな!」

「だから・・・今使っている井戸の水を、二階の水瓶に直接外から汲み上げられるように、今ある建物のすぐ横の一階に貯めておけば楽なのではないかと思いまして」

「つまり・・・一階から二階の水瓶まで直接水を汲み上げる方法があるという事か?」

「ズバリ! その通りです、人件費も今までの半分以下ですね」

「なんと! 今まで二階まで水を運び上げていた労力が・・・」

「階段を使う回数がほぼゼロになります」

「それ・・・誰かに言ったかのぅ?」

「たった今思いついたので、ダフネさんがはじめてですよ?」

 ダフネはため息をついて、切り揃えられた口ひげをいじった。

「ネレ・・・すまん、今、ワシ、おぬしを引っかけてしまったの」

「え・・・あっ・・・その・・・」

 ネレの手が止まり、シーツの汚れ落としに夢中になっていた眼と頭が、ゆっくりとダフネの方を見た。

「すまんの、“誰かにきいた”とか“どこで知った”ではなく・・・」

「あぁあぁあぁ~!?」

 ネレは泡だらけの両手で頭を抱えて悶えたのだった。

「あ~、スマンが朝食が済んだら兵舎の執務室に来てくれんかの? 今の話を詳しく説明しておくれ、な? 悪いようにはせんから」

 ぽすん、とネレの肩を叩いたダフネは立ち上がると、手を振りながら警備業務に戻って行った。

 ――――や、やっちまった・・・


 コンコンコン

 孤児院の執務室に控えめなノックが響いた。

「はい、どうぞ~、おやん? ネレもう“王制軍事論”読んじゃいました?」

 ネレがカプシーヌの所に本を返しに来た。

「はい、とても勉強になりました」

「じゃあ、返却カードに記入しておくね。次に借りたい本とかあったら図書館の方から貸りときましょうか?」

 ネレの顔が急にぱあと明るくなった。

「本当ですか! 嬉しいな」

「あるのね?」

「あの、井戸や水道技術などの建築関係の本があったら借りたいです!」

 本の返却カードを記入していたカプシーヌの笑顔が固まった。

「あ、相変わらず予想の斜め上にジャンルが飛びますな」

「図書館の本って次はどれぐらいで借りられますか?」

「今返却してもらったのも図書館のだし、ネレが希望するのはマイナーなヤツだから今日の夕食前には持って来れると思うわ。貸出期間は二週間よ」

「うわぁ、早くて助かります! あと、ボクこれから兵舎のダフネさんの所に呼ばれているので、行って来ますね。昼食までに帰れるか分からないんですけど・・・」

「ああ、じゃあ厨房の方でネレの分は別に取っておくわ、行ってらっしゃい」

「ありがとうございます。それじゃ行って来ますね」



「ジャン、それはなんだ」

「ネレです。二ジェルさん」

 兵士のジャンは爆睡しているネレを抱えたまま、昼の騒ぎが静まった厨房を訪ねてきた。

「うん、大きくなったな、ネレ・・・て、まさかネレの成長具合を見せに来たわけじゃないだろう?」

 いつもの部下二名は、奥のキッチンテーブルで(まかな)いを食べていた手を止め、ニジェルとジャンの方に視線を向けた。

「こっちの仮眠室貸して下さい。孤児院じゃネレが落ち着いてお昼寝が出来ません」

「なんで? 兵舎の仮眠室じゃダメなのか?」

「・・・・・・あんな野生動物の寝床に、こんな可愛いの寝かせとくんですか?」

「無理だな」

「みんな()()()()()()()大変なんです」

「何故そうなった」

「ダフネさんに頼まれた仕事をしたら、疲れちゃったみたいです」

「オマエらは四歳児にどんだけ無理させとんじゃ!」

「俺達じゃ無理めの頭脳労働をお願いしました」

「そうか・・・()()だもんなぁ」

「ジャンさんいいですよ、俺が仮眠室でネレちゃん寝かしときますから、孤児院には伝言だけお願いします。ついでにネレちゃんに夕飯の賄いも準備しますから」

 野菜の入ったカゴを、食料庫からちょうど運んできたシャドンが答えた。

「シャドンさん、お願いします」

「やっぱ、俺んとこか?」

「ネレちゃんは、おもらしなんかしませんよ?」

「はあ、どうぞどうぞ・・・ネレには賄いと同等の頭脳労働を・・・」

 シャドンがニジェルを“キッ”と睨んでみせた。

「二ジェル副長こそ、四歳児に何をさせる気ですか?」


 天井にはシンプルなシャンデリア、壁はアイボリー地にグリーンのペイズリー柄、家具はホワイトとナチュラルブラウンで統一されていた。

 目を覚ましたネレは大きく瞬きを、二、三回繰り返した。

「ラブホ・・・ではないよね、高級ホテル?」

 自分の寝ているベッドを見ると、自分の身体のサイズを除外しても、かなり大きめの作りだ。

 ベッドカバーはベージュとグリーン、部屋に合わせた品の良い組み合わせだ。

 ――――天蓋(てんがい)がついてる・・・

 部屋の中をキョロキョロ見回していると、ベッドのサイドテーブルに飴玉と小さなメモ書きがあった。

 メモには「ネレちゃんへ、起きたら厨房においで“シャドン”」と・・・。

「・・・う~ん・・・極甘な罪深いメモだな」

 大きなベッドから、ずりずりと抜け出し、足元に自分の靴が揃えられていたので履いてみた。

 ベッドルームの境のパーティションを恐る恐る越え、隣のティールームを覗いた。

 そこには・・・大きなガラス張りの窓が美しい庭園を眺める事のできる造りで、広々としたティールームのようだった。バーカウンターには背の高い棚があり、がらんとしていたが数本の酒の瓶が並んでいた。

 食器類もまばらであったが、それなりの価値のある物のようだ。

「おお! あれはもしや・・・お酒では? しかもガラスボトルなんてすご~い!」

 ネレは(すり)り足で猫足のテーブルセットに近づいた。

「ふぉお! こ・・・このテーブルは大理石がハメ込んである! 本体は金属製かなぁ?」

 思わず椅子に上ってテーブルを撫でまわしてしまったが、直ぐに床に着地し、今度は舐めるように椅子を隅々まで調べ始めた。

「これは!! 木目の切り替えがない! テーブルと同じ色の木を・・・まさか一本くりぬいて!? ああ、逆か!コレきっとテーブルセットの主役は椅子の方だ。これはまさに匠の技、芸術の領域――――」

 鑑定に夢中になっているネレだったが、背中に刺さる視線に気が付き、ゆっくりと振り向いた。

「あの・・・ネレちゃん・・・大丈夫?」

 ドアノブを握ったままフリーズしているシャドンが、ネレを凝視していた。

 静かに扉を開けたらしく、ネレは開いた事にまったく気が付かなかった。

「あ・・・騒いじゃってすみません・・・家具、好きなもんで・・・」

「なんと言うか・・・家具が趣味の四歳児って、ネレちゃんぐらいだよね?」

 乾いた笑いが二人の間に吹き抜けていった。


「あのう、シャドンさん」

「え、なに?」

 何故かシャドンに抱っこされたまま、ネレは廊下を移動していた。

「棚にあったボトルってお酒ですよね?」

「そうだよ」

「あのガラスボトルってどうやって作るんですか?」

「ん~そうだな、“器用の才”が“加工の才”に変化して、修行を積んで“職人の才”までいくとガラスボトルが作れるようになるとは聞いてるよ」

「そっかぁ・・・やっぱり魔力がないと何もできないんですね・・・」

 ネレは肩と視線を落とした。

「ネレちゃん・・・大丈夫だよ! 魔力がなくてもネレちゃんなら、いい所にお嫁に行けるよ!」

「え? 別に嫁に行く気ないですよ」

「ひえ! 四歳で人生諦めちゃダメだよ!」

「・・・・・・・・・」

 ネレはシャドンとの意思の疎通を諦めたのだった。

 二人は良い香りが充満する厨房にたどり着いた。

「ネレちゃん起きてたよ~」

「おう、そうか、俺とネレで先に食べていいか?」

 ニジェルが食堂の方から戻ってきた。

「どうぞ~、部屋借りちゃったしね」

 それを聞くと、調理師二人がいそいそとキッチンテーブルに夕食の賄いを準備し始めた。

「ネレ、アスパラは大丈夫か?」

「うん、大好き!」

「そうかそうか、今日の賄いはアスパラのポタージュ・チキンソテー・スライストマトだ。トマト食べられるか? パンは特別に焼き立ての柔らかいの出すぞ!」

 ニジェルのレアな“デレ”を見たシャドンをはじめとする三人は同じ考えが過った・・・「副長がお父さんモードに入ってる!?」

「トマトも大好き・・・あ、生のトマトなら、ボクは塩よりマヨネーズが好きだな」

 ネレのそのひと言に厨房に緊張が走った。

『まよねーず?』

「あれ? 知らない?」

 調理師四人は無言でそろって頷く。

「ネレちゃん、良かったら教えてくれる?」

 シャドンがようやくネレを床に降ろした。

「卵黄・マスタード・オリーブオイル・酢・塩・胡椒があるとできますよ」

 ニジェルのアイコンタクトでシャドン達が素早く低めの脚立と材料を並べ、ネレは厨房の作業台がちゃんと見えるように脚立に上った。

「では、シャドンさん、油分と水分をきちんと取った清潔なボールに、室温に戻してある卵黄一つと、マスタード小さじ1を白っぽくなるまで混ぜて下さい」

「はい、ネレ先生!」

 シャカシャカシャカ・・・

 シャドンが言われた通りに材料を泡立て器で混ぜ始め、白っぽくした。

「では、オリーブオイルを120㏄・・・まあ、このコップ半分ぐらいで大丈夫ですね。シャドンさん、混ぜ続けて下さい。ボクが少しずつ足していきます」

「はい、ネレ先生!」

 シャカシャカシャカ・・・

「オリーブオイルを半分ぐらい足したら、塩・胡椒少々と酢を大さじ1」

 シャカシャカシャカ・・・

「そして残りのオリーブオイルをゆっくり足していくと・・・乳化が進んでいき、はい出来上がり!」

『ふおぉおおおっ!』

 パチパチパチパチパチ・・・拍手喝采。

 それぞれが味見しつつ、はじめての調味料の味わいに、いつもはテンションの低い夜の厨房が活気づいた。

 その直後である、勢いよく厨房の食堂側につながる扉が開かれた。

「ネレーーーーっ! なんだこれはっ!?」

 ネレが昼間に描いた図面を握り占めたトレフルが立っていた。


 くうぅ~、きゅるるるる~・・・。

 突然トレフルが飛び込んで来た為、厨房は静まり返ったが、ネレは空腹の音で返事をした。

「トレフル様、そんなことよりボクはごはんが食べたいです・・・」

 食堂にある子供用の椅子をシャドンに用意してもらい、温かいスープがニジェルとネレの前で湯気をのぼらせていた。

「え・・・いや、私のこの件も急ぎなのだが・・・」

「ボク・・・今日、お昼ごはんも食べてないんです・・・」

 フルフルと震えながら、ネレは瞳に涙を浮かべはじめた。

「いや・・・水回りの兵舎の工事については前々から予算の関係で課題が多くてな?」

「ご・・・ごはん・・・」

「はあぁ~、トレフル様。大人げないですよ!」

 ニジェルがワザとらしい大きなため息をついた。

「ニ、ニジェルまで・・・」

 今度はトレフルが泣きそうだ。

 シャドンがささっとトレフルのすぐ横に、厨房にある丸椅子よりも多少はマシな椅子を出してきた。

「トレフル様、今はこの椅子でご勘弁下さい。今夜の賄いはアスパラのポタージュ・チキンソテー・スライストマトのマヨネーズ添えでございます」

 コホン、とトレフルは咳払いをひとつして、椅子に座った。

「もらおうか・・・帰宅寸前にダフネの書類とメモを見てな・・・ネレを捜して、駆けつけて来たんだ」

 ふん、と、鼻の頭を少し赤くしてトレフルは席に着いた。

「シャドンさん、トレフル様にお勧めのワインなどありますか?」

「ちょっ! ネレ!」

 慌てるニジェルを横目に、シャドンはニヤリと嬉しそうに答えた。

「赤のネグロアマーロがございます」

「こら、シャドン! それは俺の・・・」

 今度はニジェルが涙目になっている。

「もらおうか」

 トレフルとシャドンが意地悪気な笑顔をこぼした。

「あああ~・・・俺のネグロ・・・」

「シャドン、勧めるからにはニジェルはもう上がるんだろう?」

「左様でございます」

「では、その支払いは私に個人的に付けておいてくれ、この食事代もだ。そしてネレには何か子供向けの物を頼む」

「承知しました」

 ――――え? ここ、食堂の厨房だよね?

 ネレは何故かその雰囲気が、花でも生けていそうなレストランの一場面に見えた。

 だが、そこで怯むネレではなかった。小さな手でさっと、挙手し。

「すみません! 今後の料理の研究の為に、ボクにもそれ味見させて下さい!」

『ええっ!?』

 シャドンが驚きつつも、身体を翻して秘密のティールームに向かおうとしたが、その背中にネレがひとこと。

「葡萄ジュースでボクは誤魔化されませんからね? シャドンさん?」

 と、付け加えた。


 ネレの目の前で、グラスに透明感溢れる赤ワインが注がれた。

 グラスの中の液体がネレの葡萄酒色の髪色と重なり、遠目からしか判らない不思議な一瞬だった。

 トレフルの奢りだと知り、ニジェルは上機嫌で一杯目を飲み干した。

 先ほどまで血圧が上昇していそうな勢いだったトレフルは、今は静かにグラスを傾けている。

「トレフル様、先ほどは興味本位でついワインをおねだりしてしまいましたが・・・」

「ん? やはり飲めそうにないか?」

「いえ、法的にボクはこれを飲んでも大丈夫でしょうか?」

「・・・なんだ、知らなかったのか?」

「ええ・・・もしかしていけないのかな? と思って」

「ああ、問題ない。この国では飲めるようになったら何歳であろうと飲めるんだ。ただし、自己責任だぞ?」

 ――――おう! ボクにはラッキーだけど・・・子供の肝機能だしなぁ

 ゆっくり、手慣れた仕草でネレはグラスを手に取り、一口ワインを含み、飲み込んだ・・・。

 鼻から抜ける香り、ほのかな甘味と苦み、口に含んでいたチキンの脂身が折り重なって、ネレはため息をこぼした。

 その子供らしからぬ表情に、誰もが息を呑んだ。

「美味しい・・・けれど」

「けれど?」

 トレフルがネレに続きを促した。

「このチキン、焼いたのは誰です?」

「俺っす!」

 “調理師その1”が手を上げた。

「すみませんが、脂を取り除きながら焼けばもっと皮がパリパリにできたのでは?」

「ぐはっっっ!」

 ネレから“調理師その1”への会心の一撃が放たれた。

「ま、まあ、このトマトにかけてあるソースは中々美味だぞ?」

「うぐっっ!」

 “調理師その2”へのダメージが半端なかった。

 トマトは切ったが「塩でいいや」と判断をした張本人である。

「ふふっ! 焼き立てパンにこのソースをつけると、ワインにもすごく合いますね」

 ネレが嬉しそうに言った。

「なに!」

 声を出したニジェルとトレフルがすぐさま試した。

「こ・・・これは、チーズよりしつこくなく、なんと上品な味わいだ!」

「酒が止まらん!」

「シャドンさんが撹拌(かくはん)してくれたおかげです。すぐ疲れちゃうボクには作れないソースです」

「いや、照れるなぁ~!」

 シャドンが山吹色の頭を掻いた。

「でも・・・」

『でも!?』

 男子五人がネレの言葉に耳を傾ける。

「オリーブ油より癖がない油にすれば良かったかなぁ?」

 ネレの疑問に、ニジェルが答えた。

「トウモロコシ油という手もあったが、あれはあれで油っこいからな、俺は酒の友って言ったらこっちかな?」

「なるほど! 勉強になります、ニジェルさん」

 へへっ、と、ニジェルは赤い顔をしながら照れ笑いをする。

 調理師の三人は、食堂の夕食のオーダーをこなしつつもヒソヒソと意見を交換した。

「なあ、シャドンさんアレどう思う?」

「う~ん、最初のネレへのコメント? 単に早くマヨネーズを食べたかっただけじゃないの?」

「あ~、それもあるけど、ネレが寝てる時にプラタさんが心配して様子見に来てたよね!」

「うんうん、プラタさんへの下心と・・・ネレのおだてのせいで、今ニジェルさんご機嫌だから、そっとしといてやれば?」

 三人は無言で頷き合い、最終結論はまとまったようだった。


 美味なるワインに、本物の料理人が作った食事・・・ネレの心は満たされつつあった。

 だがしかし、彼女は理性を取り戻した。

「シャドンさん、ボクはやっぱりお水が欲しいです」

「はははっ! そうだよね」

 酔っている中年二人はいざ知らず、シャドンはネレの様子に胸を撫で下ろした。

「やっぱりチェイサーはいるよね・・・」

「え? ネレなんか言ったか?」

「なんでもありませ~ん! てへ!」

 ――――目標! “長生き”!! 子供で急性アルコール中毒なんて笑えないし・・・でもワイン美味しいなあ・・・



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