第1話 【雪の日】
灰色の空から、白い雪がボクの顔に降っていた。
覗き込む顔はぼやけていて、わからなかった。
温かい水滴が雪にまじり、赤ん坊の顔に落ちてきた。
「ごめんね・・・お母さん、もうすぐ死んじゃうの」
葡萄酒を思わせる美しい波打つ髪、雪空の薄暗い中でもその色の睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、強い意思を持っていた。
――――お母さん・・・?
赤ん坊が自らの意思で手を伸ばそうとしたが、頑丈な布で体が巻かれていた。
木の香りのするかごのような入れ物に寝かせられている。
母親はしっかりと大事な我が子が入ったかごを抱きしめていた。
はらはらと涙を零しながら、何度も愛しい我が子に謝り続けた。
最初はこの子を自らの手で殺そうと考えた、何故ならば、赤の他人に手渡したくはなかったからだ。
だが、思い留まった・・・子供の人生は自分の物ではないのだと、やっとの思いで自分に言い聞かせたのだ。
「あの戦争で誰よりも人の命を奪った私が、まさか子供を授かろうとは思わなっかったな・・・ねえ? アナタはまともに育ってね・・・私みたいにならないで・・・」
赤ん坊は窮屈なかごの中でもがいている。
小さな体は布で包まれ自由が利かず、その視界には雪降る空と女の泣き顔が視界に入っていた。
母親は頑丈そうな城の門の前で、そっと、端の方に我が子が入ったかごを地面に置いた。
ぐっと胸を張り、深呼吸をひとつすると・・・。
彼女は遠慮がちに門を叩いた。
上品なノックの音だ。
人気はない、薄暗い外、時刻は夕刻であった。
だんだんとノックの音は大きくなるが、どこからも返事は聞こえない。
「・・・ッチ!」
―――――え? 今、舌打ちしました?
「衛兵の手薄な時間を狙ったのが裏目に出たか・・・・・・」
――――え? 何その意味深げな独り言?
母体の中で聞いたその声は優しく語り続け、この世界に生まれ出でた直後も、寝ても覚めても新しい知識を与え続けていた。
「ごめんね。ネニュファール、ちょっと大きい音だすよ~」
母親はそう言って、赤ん坊の入ったかごを門から離れた隅に置いた。
一瞬、宙を舞った彼女の全身が赤ん坊の瞳に映り込み、轟音が鳴り響く。
巨大な木製の扉が風塵を起こし、観音開きの扉の片側が外れたのだ。
ただの一蹴・・・だが、細身の女が巨大な城の門を破るなど在り得なかった。
彼女は目にも止まらぬ速さで赤ん坊が入ったかごを抱え、扉の内側に入り、緑豊かな大樹の下、赤ん坊に雪がかからぬように、そっと葉の影に置いた。
「ごめん! もう会えない・・・」
彼女は風のように姿を消した。
置いて行かれた赤ん坊は母親を恋しがりもせず、泣き声も上げず、ただ・・・曇天を見詰めていた。
「なんじゃあぁぁぁ! 今の爆音はっ!?」
ガシャガシャという音が近づき、数人の話し声が聞こえてきた。
木製の扉といえど、それは城門の一部であった。
張り倒された扉は、下部の方がへし折れている。
その第一発見者2名は口を開けたまま一瞬固まったが、上司と思われる赤毛の鎧姿の男がいち早く正気に返った。
「見張りは何をしていた!」
重々しい野太い中年の声が響く。
「ダフネ隊長! ちょうど交代の者がトイレに・・・」
「くそ! ちょうど見張りがひとりの時をやられたか!」
――――おかーさーん! 誤解されてるっぽいよ~!
赤ん坊は上手く声には出せず、口をただパクパクとさせていた。
「んんん? なんじゃあれは・・・・・・」
ガシャガシャと金属がこすれる音が更に近づき、ダフネと呼ばれた兵士はかごのそばで腰をかがめ、ネニュファールとしっかり視線が合った。
――――なんか、記憶にある普段着とちがう・・・
「きゅはっ!」
軽い空気が口を通り、笑い声のような音を喉が奏でる。
「・・・うぬ、このままでは風邪をひいてしまうな」
皮手袋を外し、大きな手で赤ん坊を抱き上げ、ゆっくりと腰を上げた。
ネニュファールを包んでいた布を優しくゆるめた。
「きゅはっ、きゃっ!」
「え~!こんな状況で、笑ってらぁ!」
「なんと・・・木製とは言え、頑丈な扉を破り、この赤子を城の敷地内の孤児院に預けようとしたのか?」
ダフネは唾を飲み込み、蹴り破られた門を凝視した。
「隊長・・・これって、プロの仕業ですかね?」
「んなワケあるか! 捨て子のプロってなんだ?」
「だ、だって! この扉、先週金具を新品に交換したばっかりっすよ!!」
部下の兵士は冗談のつもりはなく、無残に壊された扉を指さした。
蝶番は確かに新品であったが、留め具はくの字に曲り抜け落ちている。
「一体どこの豪傑じゃあ!」
―――――・・・・・・きっと、それは愛の力ですよね? お母さん?
ネニュファールが入っていたかごには、名前の彫られた金のブレスレット、真珠のネックレス、産着が1組入っていた。
ブレスレットに彫られたのが親の名前なのかは不明であったが新品同然だった為、孤児院では赤ん坊をその名で呼ぶ事となった。
真珠のネックレスは出処が不明の為、孤児院にて一時預かりとなるが、盗品では無いと確認でき次第、破壊された旧東門の修繕費を支払い、その残額を孤児院への寄付とされる予定である。
そんな大人達の会話を耳にしたネニュファールは、頷いて納得するしかなかった。
ネニュファールという赤ん坊の特徴は葡萄色の髪と、琥珀色の瞳・・・だが、角度によって翡翠色にも見えた。
この国では珍しいと言えば珍しいが、それだけでは親の手がかりはない。
ただ、純金のブレスレットと真珠のネックレスは平民には手の届かない品であった為、役人たちは悩みに悩み、城内の敷地内にある孤児院にネニュファールを保護することを決定した。
「・・・・・・ええ、不思議なほど手がかからない子で」
灰色の神官服に身を包んだ女性がつぶやくように、革鎧をまとったダフネに言った。
ネニュファールが保護された孤児院は、ヌーヴェル城敷地内の教会に隣接している。
子供は30人ほどの規模で、孤児たちの世話は、城の下働きの女性たちと、シスターと呼ばれる灰色服の神官女性達が担っていた。
「そうですかぁ、シスターたちも心当たりのない子じゃと・・・」
ダフネは自分の整えた赤い髭をいじりながら、思案していた。
そういえば、と、シスターは顔を上げた。
「なぜあの日はダフネさんだけ金属の鎧を着ていたのですか? いつもは革鎧で槍でしたのに、珍しく剣を装備されていて不思議でした」
「ああ、神殿の式典の警備だったので正装が義務でしてなぁ、報告がてら戻ったら、旧東門があの状態で参ったのなんの!」
「神殿の式典の日に、捨て子・・・いえ、門を破って城に預けられた子供なんて、まるで・・・」
「“軍神フラーム”のご加護かの?」
「でも、人間から神になったフラームの話を城ですると、怒られちゃいそうですね?」
ダフネと話していた彼女の灰色の裾が重みを感じ、足元に視線を移すとネニュファールがいた。
「あら、ネレ、どうしたの?」
ネニュファールはネレという愛称で呼ばれるようになっていた。
その琥珀色の瞳はシスターとダフネを交互に見つめて、興味深々と、訴えていた。
「もしかして、軍神フラームが気になるの?」
ネレは四つん這いのまま、葡萄色の頭をコクコクと上下に振った。
「もう意思の疎通ができるのか! さすがはシスタープラタ!」
聖母のような笑顔で、小さな赤ん坊を見つめる。
上品な金髪をゆるりとまとめ、空色の瞳のプラタは孤児院では子供達の母親役であった。
「なんだか、この“教えて”の視線がわかりやすくて・・・ふふふ」
「では・・・コホン・・ネレや、軍神フラームとはな、その名の通り戦いの神でな、燃えるような赤く長い波打つ髪と、光り輝く双眸を持つ美しい女神のことだぞ・・・といっても、この地方に伝わる伝説みたいなものだな」
「そう、愛しい子供の為ならば、夫も殺してしまうという、こわーい裏伝説もありますものね・・・ふふふ」
“軍神フラーム” この世界では度重なる戦争に疲弊した戦士の士気を高めるために、戦場の女神の伝説が囁かれている。
金色の双眸は力強い意思を持ち、修羅場をくぐった戦士達さえも従えさせ、光輝く銅色の波打つ長髪は、人々を魅了する。
そして、もう一つの顔がある。
平和を願い剣を持つ女神は、子供たちの未来の為に戦い、敵を切り捨てる。
か弱き女性や子供を粗末に扱う男性に対しては、かなり容赦がないらしい。
自分の力を誇示するために実の子供を手にかけようとした夫を、成敗したという逸話もある。
だが、大っぴらには信仰できないので、ただの伝説ということになっている。
なぜならば、王や政治家が不穏な動きをし、死を迎えた暁には「フラームに粛清された」と言われ、何かあるたびに女神フラームのせいにされることが多いからだ。
戦場の兵士達の間では勇気と勝利の女神と讃えられ、高位の貴族からは蛮族の伝説だと忌み嫌われている。
ネレが四つん這いから、コロンと腹を見せ、自分の足指を触り始めた。
「なんじゃネレ、眠いのか?」
――――いえ、運動不足解消のため腹筋をしています
「ふむ、この太々しい態度といい、こないだの騒動でも泣き声も上げないとは・・・軍神フラームの加護でもあるのなら、おまえは立派な兵士になるであろうな」
ダフネが優しくネレを抱き上げた。
「あら? ダフネさん、ネレは女の子よ」
「なに・・・?」
今度はプラタとネレが同時に二回頷いた。
ダフネは残念そうに眉毛をハの字にした。
「ネレ・・・おまえの嫁入り先はワシが生きているうちに見つかるといいのお」
――――どーゆー意味でしょうか?
このヌーヴェル国には女性兵士もいるが、主流はやはり男性である。
赤ん坊のネレは口をモゴモゴ動かしはじめた。
「ん、く・・・ん・・・く」
「おお、そういえばオシャブリを土産に持ってきたのだ! プラタ殿、消毒してこの子に・・・」
「あ、はい」
プラタはダフネが懐から出したオシャブリを両手で受け取り、給湯室へ向かう。
「ん、だ・・・ん、だあぁぁ」
「よしよし、みんなのところで遊んでおいで」
ダフネはゆっくりとネレを床に降ろした。
四つん這いに再び体勢を整えたネレは、ハイハイで素早く2段造りの小さな本棚へ向かった。
シャカシャカと音が聞こえそうな勢いだ。
本棚と言えど、木の板に文字が書いてある程度の書物である。
四つん這い体勢から、低い本棚に手をかけ、つかまり立ちに成功した。
小さなネレの手が、頼りなげに板を取り出し、床に落とし、お座り体勢にて文字の書いてある板をズリズリと回し、上下左右を確認している。
戻ってきたプラタが、オシャブリをネレの口へ入れた。
抵抗もなく、ネレはすんなり口で受け取り、ムグムグとオシャブリを上手く口内で転がす。
本人曰く、口内筋肉の訓練である。
赤ん坊の口では、声を上手く出す口内の筋肉がまだまだであった。
プラタがネレのそばにかがみ、書物の板に手で触れる。
「ネレ、これはこっちが上よ」
「ん」
プラタには、まるでネレが返事をしたようだと思えた。
「今日は忙しくて読んであげられないの、ダフネさんをお見送りしてくるわ。いい子でいてね?」
「ん」
ネレは文字を右手でなぞりながら、左手を上げ、プラタに向かってニコリとした。
プラタはそれを了承だと認め、その場を離れた。
ネニュファールは生後1年足らずの0歳児。
ハイハイとつかまり立ちの時期である。
胎児であった間は母親のマメな話しかけにより、自分の知識とは異なる言葉はある程度理解できるようにはなっていたが・・・。
目に入る全ての情報が真新しく、何もかもが理解の範疇を越えていた。
周りの子供達はきちんとした言葉使いをしていないので、ネニュファールは軽く混乱する。
出来うる限り大人たちの会話に耳を向ける為、いつでもどこでも大人達の近くをキープするようになっていた。
だが、言葉はわかっていても、この世界特有の単語や名詞の意味がわからない。
情報が足りない、ネレは切実に思っていた。
腕組みをしようにも、腕の長さも足りない。
――――赤ん坊はただでさえも体力が足りないし、行動範囲も限られているし、これは困りますなぁ
板の文字を小さな指で辿りながら、ネレの身体は前後に舟をこいでいた。
だんだんと重くなる瞼は閉じていく・・・・・・。