笹木京・白野無一の章 その1
どれほど時間が経っただろうか。
海の上では時間の感覚が曖昧になる。朧気な過去の記憶を手繰り寄せても、こればかりは一度も味わったことの無い物のように思う。黒い雪の発生を止めて陽堂真嗣の七瀬市への介入を阻止したのがおそらく数時間前、小型電動ボートの一室から外を眺めながらも疲れからか今にも微睡に導かれそうだった。空は晴れ、水面には月が映っていた。
「…京ちゃん。海の旅は初めてかい?」
その一言で目が覚めた。
「海の上は初めてかと思います。いかんせん、幼少期の事は覚えていないので…」私は答えた。
「…そうか。今はわざわざ船なんて手段を使わないしねえ…そうするのは我々のような怪しい者だけだよ」彼は肩をすぼめて言った。
怪しい者。確かに私と白野君は、いくら七瀬市を救うという大義名分があったとしても、奈落に与した者と思われてもしょうがないのだ。自分自身と自分の住む街を守るためとはいえ奈落の力を宿した≪闇のヤヌス≫を身に着け、こうしてその創造者と共に行動をしている。それを胡乱と言わずして何と言おう。それでも、私は姉を救いたいと言ったヴァリウスさんを信じて彼の旅について来たのだから、悔いは無いはずだ。
それにしても、自分がクエスターと呼べるかすら分からない私はともかく、奈落を異常なまでに憎んでいた白野君がついてきたのはなぜなんだろう。よく考えてみたらこの人は気付いたら「奈落を絶対殺す」しか言わない怖い人だったから、よく知らなかった。私は部屋の隅で無関心そうにしている白野君に、恐る恐る聞いてみた。
「しろの、君…聞きたいことがあるんだけど…い、いいかな?」
「答えられる範囲で何でも答えよう。まあ、奈落は絶対殺すけどな」
(この人、聞かれてもいないのにヴァリウスさんの近くで奈落殺すとか言ってる…やっぱりヤバイ人だ…)
私は息を深く吸い込み、呼吸を整えてから改めて聞いた。
「白野君って奈落が憎いんだよね?ヴァリウスさんについて来ちゃったけど、これでいいの?一応、ヴァリウスさんって奈落サイドの人間なのかもしれないけど…」
「………」
「いや、そのまあね!?気に障ったらごめんね、でも信条的に良いのかなとかさ!?だしほらほら、一応なんだかんだずっと一緒に戦ってきたし仲間じゃん!?!?だから気になるというか何というか…」
「まあまあ落ち着いて。耳を貸してくれないか」
私は内心穏やかじゃないまま、耳を近づけた。ボートの駆動音が小声を掻き消す。
「僕がヴァリウスと共に行動してるのは、真帝国とやらの事が知りたいからさ。奈落の指輪を研究して配ってたヤツを信用できると思うか?できないね。国家規模の研究の先にあるものは量産、つまり兵器利用だ」
自分が身に着けているものだから、考えた事が無かった。そういえばあの人は姉や私の心配をする暖かな側面を見せることもあれば、諏訪台さんや陽堂理事長を殺すように仕向けることもあったりと妙に冷血な部分も覗かせることもある。その二面性はいつもあった。
「ヤツはブルースフィアに来ていた。これがどういう意味か分かるか?」彼は続けた。
「最終的な奴らの目標はブルースフィア、もとい七瀬市の豊富なマナってことさ。殺せる奈落が増えるのはいいが、七瀬市に被害が及ぶのは御免だね。ヴァリウスとは情報を炙り出すまでの付き合いさ。どうせ姉がどうこうっていうのも嘘だろ。もしヴァリウスが奈落サイドだって言うなら、機を見て切り捨てるだけさ」
「…」
それ以上は口を噤まずにはいられなかった。心のどこかで引っかかっていた疑念を言い当てられたような気がしたからだ。確かにヴァリウスさんは奈落に侵された姉を救いたいが故に≪闇のヤヌス≫を研究していると言っていた。その言葉を信じて白野君と共に彼についてきたけど、冷静に考えてみたら彼が嘘をついていない確証はどこにも無いのだ。私達は言わば良心で行動しているような状態で、敵なのか味方なのかすら分からない男についてきている。しかし、奈落の影響を振りまく黒い雪を止めようとしていたのも事実。嘘かもしれないとはいえ、七瀬市の人々を傷つけるのは本意ではないと言ったのも事実。私はこの旅路の先に見えるものが何なのか知りたくなった。