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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

緊張の扉 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 おお、こーらくんじゃないか。珍しいところであったね。

 いや、さっきまで駅伝を見ていてね。ちょっと遅めの昼ごはんの買い出し、といったところだ。君も同じような感じだろ?

 うーん、こういう風にテレビで中継されるっていうの、君はうらやましいと思うかい?

 僕は、あんまりって感じだね。どうしてこの面を、全国レベルで流さなきゃいけないのか。知っている人に見られたりしたら、ツッコミを入れられる恐れもある。

 それが活躍しているシーンならまだしも、青息吐息で苦しんでいる様なぞ流されたら、恥をかくのもいいところだ。うう、想像すると緊張で胸が痛くなってくるくらい……。


 こーらくんは大丈夫かい? 君も昔はだいぶあがり症で、本番の30分前とかだと、やれトイレに行きたいだの、お腹や頭が痛いだのと苦しんでいた覚えがあるけど……。

 ――余計なお世話? はいはい、懐かしんだだけですよ。

 でもね、この緊張による不調。時には、ただごとじゃないケースもあり得るようだ。

 僕が昔、体験した話になるけど、聞いてみないかい?


 僕もあがり症な人間だった。特に学生の頃なんか顕著だったよ。

 始まってしまえば、なんてことはない。覚悟が決まっちゃうからね。だが、寸前までは、今まさに荒波にもまれて決壊を待つばかりの、堤のごとき頼りなささ。

「五分前」とか、具体的にアナウンスされたら、なおさらだ。逃げ出したくなる。体調不良の波に身を任せて、流されたくなる。

 同時に理解している。ここで逃げ出しちゃいけないと。みんなに迷惑がかかってしまうからと。

 逃げ出したいのに、逃げ出すわけにはいかない。だからこそ、身体も心もこわばるんだ。

 

 その時も、学級で演じる劇の出番を控えていた。ワイシャツと長ズボンを身につけた僕は、舞台袖で神経質に、床をトントンと踏み鳴らしていたんだ。そばにいる人しか聞き取れないくらい、小さめにね。

 任されていたのは、貴族のお嬢様のお使い役。前を呼ばれると共に、舞台袖から出て、お嬢様にひざまずく。密書を届ける使命を仰せつかい、それを受け取って舞台袖へ引っ込んでいく。

 それで、出番は終了。時間にして、10秒あるかどうか。

 セリフも「お呼びでございますか、お嬢様」と「はっ!」の二つだけだ。

 役どころと同じ、ほんのお使い。それなのにどうして、こうも落ち着かないんだ。


「静かにしてもらえる?」


 一緒に舞台袖で待機している、クラスメートの女子が冷ややかな声音で、いった。

 お嬢様の敵役にあたる人物役の担当。このシーンでは、僕が密書を受け取った後、入れ違いで袖から姿を現し、いぶかしむようにお嬢様へ最初の牽制球を投げる、腹黒な令嬢を演じるんだ。

「ごめん」と返すものの、催しているのを我慢するものだから、今度は口が「へ」の字に曲がって、そわそわせざるを得ない。

 劇の進み具合から、ここを出るまで一分もないだろう。トイレに向かっている余裕はなかった。

 ――ひざまずいた瞬間に、漏れたりしやしないか。

 そんな不安さえ、首をもたげかけてきた時。


「まったく、少し楽にしてあげようか?」


 あの敵役の女の子が、目の前まで来ていた。

 道具役が仕立てたゴシックドレスと、孔雀の羽根を意識して――もちろん、本物じゃないが――作った扇子を手にしている姿が、高めの身長にマッチする。憎まれ役を演じるにふさわしい、性格のきつさを醸し出している。

 その彼女が、僕の膝元にかがみこんだかと思うと、両手をサムズアップ。その立てた親指で、だしぬけに腎臓の辺りをぐっと押してきたんだ。


「何すんだ、アホ!」


 劇の待機中じゃなきゃ、叫んでいたね。今にも爆発しそうで耐えに耐えている薄壁を、外から突き崩すような真似。してくるかい、普通?

 太ももを手でバシバシ叩いて、「やめろ」の意思表示。「暴発したらどうすんだ」とばかりに力を入れたが、じきに違和感を覚えてくる。

 彼女の指圧は、僕が知るような「ぐうぅ」っとゆっくり押し込むようなものじゃない。

 小刻みに、跳ねるような感じ。場所をちょこちょこずらすこともあれば、同じ場所を何度も連打することもある。

 そんなことをされれば、内側の温水が漏れ出るのは必然のはず。なのに、その気配が一向に出てこない。

 腎の内側をなぞり、時には音さえ出てしまうかと思うほどの、水気のくすぐり。溜まり切ったそれが、下へ出ていくわけでもなく、消えていく。

 彼女が触っていたほんの二十秒ほど。その短い時間で、便意はすっかりなくなってしまったんだ。

 短いため息をついて、「楽になった?」と立ち上がる彼女。すぐに舞台を見やって、「ほら、スタンバイ」と肩を叩いてくる。

 もう二つほど先のセリフが終わったら、僕が呼び出されるタイミングになっていた。


 無事に劇は終わってひと段落。片付けとホームルームが済むと、僕は彼女に改めて礼をいう。危うい事態をどうにか避けることができた。

 彼女曰く、あれが自分の見つけた、緊張緩和法なのだという。

 尿意だけじゃない。頭痛、腹痛、心臓の動悸……これらにもすべて応用できる指圧らしいんだ。おそらくお世話になることが多いだろう僕は、その教えを乞うたよ。

 それから学校の帰り道。一緒に帰る機会があると、僕は彼女の緩和術を学んだ。

 あのリズミカルな指圧は、独特のテンポと力加減を必要とする上、本当に痛みや苦しさを感じる時に行わないと、かえって吐き気が出てくるほどだった。


 なので僕はもっぱら、尿意を催した時を、訓練時間とする羽目になった。

 学び始めは悲惨だ。「おむつをはいた方がいい」という彼女の助言を素直に容れられなかったんだ。せっかくトランクスを履き始めたのに、ここでしょんべん垂れに逆戻りなど、プライドが許さない。

 そうやって意地を張った結果、何枚もパンツを汚した。温かいものがしたたった感触ですぐに止めるから、大洪水にはならなかったが……表情まで隠しきれなかったようで、そのたび彼女が申し訳なさそうな顔をする。

 逃げたい気持ちでいっぱいだったけど……これを身につければ、あがり症な僕にとって大きな助けとなるのは間違いないんだ。

 大人用のおむつに手を出し、回数を重ねる。手本である彼女のタッチとリズム。あれを再現するために、何度も何度もやったよ。

 グッ、ググッ、グッ、グッ、グググッ、グッ、グッ……とね。思い出すなあ。

 半年くらいかけて、ようやく僕は学び取った。あの忌まわしい尿意を、内側へ引っ込めることに成功したんだ。

 自分の身体のことだから、自己申告でしか成功を示せない。彼女にその旨を伝えると、嬉しいような、さびしいような複雑な表情をしていたよ。そりゃあ、付き合った訓練が訓練だしねえ。


「喜ばしいだろうけど、あんまり多用しない方がいいよ」


 それが彼女からの、この件に対する最後の教示になった。


 僕は晴れ舞台を前に、体調の不良が見られると、決まって彼女直伝の指圧をした。

 効果は最初に聞いていたものに違わない。尿意以外のあらゆる不調に適用できたんだ。場所を変えて、痛みや動悸の源の上で、グッ、ググッ、グッ、グッ、グググッ、グッ、グッ……とね。

 時々、失敗してしまうこともあったけど、おおむね、「つかえ」は取れる。そして始まるまで持たせればいいんだ。僕は回数を重ねるうち、無意識的に使っていた。

 ――何? 教えて欲しい?

 ああ、だめだめ。

 彼女も言っていた通り、多用するべきじゃないよ、この指圧。

 それがはっきりしたのは、バイトの面接に行こうとした時だった。


 そろそろ小遣いも不足してきた僕は、近所のコンビニでバイトしようとしたんだ。

 だが、知らない人に電話をかけるのにも、僕は大いに縮こまる。ダイヤルする指がぷるぷる震えて、お腹がグルグルとうなり始めてしまうんだ。困ったものだよ。

 耐えられず、一度、取り上げた受話器を元に戻す。落ち着こうとして、例の指圧を下腹部に。

 グッ、ググッ、グッ、グッ、グググッ、グッ、グッ……。

 お腹の虫がかすかにうずくが、指圧が進むうちに、その震えは弱くなっていく。今まで何度も経験したものだ。

 ――これが終わったら、これが終わったら、電話をかけよう。

 電話をかけることを先延ばしにしている、自分がいた。「これが済んだら、終わったら」で正当性をでっちあげ、逃げ続ける。

 結局、僕は緊張から逃げる術を学んだだけで、打ち勝つ術を持たない、弱虫のままだった。

 一セット終わったら、もう一セット。更にもう一セット……。

 劇などの時と違って、僕の背中を押してくれるリミットはない。このまま電話をかけずに日が終わったって、誰にも迷惑をかけないんだ。ただ、感じるのは無為な時間をかけた自分だけ。

 また一セット。もうお腹のうなりは止んでいて、痛みしか感じないのに、僕は指圧を続けている。

「このまま終われ、終わっちまえ。過ぎちまえ」と思い始めた矢先。


 服がブチりと破ける音がしたと思うと、その下からお腹が「開いた」。

 開腹手術の光景を思い浮かべちゃいけない。まるでお腹の皮が、肉が観音開きの扉のように開いたんだ。

 その穴からコポリと、手のひら大の赤い塊がひとつ。カーペットの上へこぼれて、弾けた。

 元の形をすっかり失い、辺りに赤いシミを飛び散らせた後、「お腹の扉」はひとりでにしまってしまう。残されたのは、血らしき赤いものが飛び散った現場と、不自然なへそ出しルックセーターを身にまとう僕だけだった。


 飛んだものは拭ったたけど、カーペットに染みついたものはどうにもならず。

 目にした親に、喀血したと思われて、すぐ病院送りになったよ。異状は見られなかったが、自宅で経過観察と相成り、僕はバイトどころではなくなった。間接的に願いは叶ったんだ。

 でも、僕はそれ以来、彼女の指圧を封印したよ。

 あれはある意味でノックだったのかもしれない。身体を蝕む緊張が住まう、扉のね。

 いつもは居留守を決め込んで、引っ込んでいた「緊張」が、ついに腹を立てて、扉を開けたんじゃないかと、僕は思っているんだ。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] すごく面白かったです。 確かに無理やり押し込めてきたものは、いつか噴出する恐れがありますね。腎臓の辺りをと……あったので、一瞬そのひとつがどうかなってしまったのではないかと、怖かったです。 …
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