恋路
ずどん
衝撃音が現実だと、すぐにわかった。
外着のまま寝転ぶ自分の、ほんの数時間前の記憶が蘇る。
とび起きて音のほうへ走ると、リビングには叔父さまと佐喜彦さんがいた。
佐喜彦さんは、壁に寄りかかるような体勢で倒れこんでいて、その正面では、無言の叔父さまが彼を見おろしていた。
佐喜彦さんに駆け寄ると、唇が切れていて、鼻からは血が垂れていた。
彼と同じ視線から見上げる先で、叔父さまが、今まで見せたことの無い冷たい表情をしている。その冷たさの奥で、ふつふつと湧きあがる憤りを、握りしめていた拳から感じとれた。
叔父さまは何も言わず、出ていった。
「怒らせちゃったよ。」
彼が退場してすぐ、佐喜彦さんは参ったとばかりに頬をゆるませた。
けんか、したの? おそるおそる聞くと、まあね、と鼻血をぬぐいながらの返答があった。
鼻血はなかなか止まりそうにない。手持ちのハンカチをあてがうと、じんわり赤が滲んだ。
何、したの? 彼から説明しそうになかったので、続けて聞いた。
「文也の指輪、朝から見当たらなくてさ。僕がトイレに流したんだって白状したら、このとおり。」
まず、何かの冗談だと、頭が真っ白になった。
次に、台無しになった佐喜彦さんの顔が、ありありと映る。
やっと出血の止まった鼻周りには乾いた血がへばりついていて、唇はまだ生々しい鮮血と内出血の赤黒で染まり、頬は腫れ始めていた。
「なんで……そんな嘘、ついたの……」
蚊の鳴くような声がやっと出た。
視界がにじんで、佐喜彦さんが霞んでしまう。
彼は私の、涙がたぷんたぷんに溜まった目元に手を伸ばし、親指でなぞり取りながら、
「本当、頭が良くないんだから、」と茶化した。
「文也は僕だったから殴ったんだよ。依世じゃ、怒ってもくれなかったんだからね。」
涙が止まらない。
次から次へと勝手に溢れてくる。
佐喜彦さんはその一粒一粒を、丁寧に親指でぬぐった。
「ほんと、ばかな子だな。笑美子さんの代わりなんて、いないのに。」
親指じゃ拭いきれないくらいに濡れた私の顔を、両手で包み込む。
そのまま、まるで子供に言い聞かせるような仕草で、
「僕の代わりも、依世の代わりもいないんだよ。」
確と言い切った。
言い切られて、私は泣いた。声をあげて泣きわめいた。
ごめんなさい、なんて絶対言わなかった。
なんでそんなことするのよ。わざわざ嘘ついたのよ。余計なことしないでよ。私は怒られたって、私が殴られたってよかったのよ。
叔父さまがちゃんと、私を見てくれればなんだってよかったのよ。
ぐちゃぐちゃに、支離滅裂なことばを繰り返す私に対して、佐喜彦さんは相槌のように、頷いたり時々ごめんねを呟きながら、みっともない泣き顔を包み込んだ。
一頻り泣いて疲れた私は一転、意地になって涙を止めようとした。
歯を食いしばったり、眉間に皺を寄せたり、たぶんすごい顔をしていたのだろう。佐喜彦さんは姿勢を維持しつつも、吹き出すのを堪えているようだった。
「もう、平気だから。」
涙が乾いたところであえて横柄に言った。
「本当?」
佐喜彦さんが首を傾げる。
満足、した?
……ええ。
もう、泣かない?
ええ。
いくつか確認し終えると彼は両手を離し、肩でふうと呼吸した。
「じゃあ、次は僕の番、」
僕の番。耳元で囁かれたと同時に肩がずしんと重くなった。
佐喜彦さんが顔をうずめている。
糸がぷっつり切れたみたいに、電池が無くなってしまったみたいに、私の体を支えに項垂れている。
「もう…ばかだな、」
声も震えていて、さっきまでとは別人だった。
「なんで棄てちゃったんだよ……ばか。」
だんだん、だんだん、弱々しくなってゆく。ぐし、と、鼻を啜る音も聞こえてきた。
「ひどい……ずるいよ……。あれは、ぼくの、役だったのに、」
声は水っ気を帯びて、肩がひんやりと湿ってきた。
のしかかる頭に触れて、一回、二回、撫でてみた。震えも嗚咽もなかなか止まってくれない。三回、四回、何度も撫でた。
「ぼくが、棄てたかったなあ……」
佐喜彦さんはぐしぐしと、こどもみたいに泣きじゃくった。
ごめんなさい、ごめんなさい。ごめん。ごめんね、ごめんね、ごめんね…
大きなこどもを撫でながら、何度も謝った。
ごめんね
泣きやむまで謝った。
叔父さまでも、笑美子さんにでもなく、佐喜彦さんに、謝った。
「笑美子さんがね、私と同じ歳のときに出逢ったんだって。」
「バイト先の先輩だったんだよね。歳は文也が上だけど。」
寝そべったまま、叔父さまと笑美子さんについて話した。
もうすぐ午後五時になる。
昨夜からまともな睡眠をとらなかった私と、散々泣いて疲れた佐喜彦さんは、あの後、泥のように眠った。いつの間にか床に転がって、爆睡したのだ。
寝起きはどちらが先か曖昧だけど、ふたりとも起き上がるのが億劫で、こんな状態で会話を始めてかれこれ一時間近く経つ。
最初は叔父さまの話をしていた。
彼の容姿や、性格や、経歴や、嗜好について、心ゆくまで「好きな人」の話をするつもりだったけれど、やがてそれは、「どちらが彼を知っているか」の勝負になっていた。
叔父さまの知識となると、どうしても笑美子さんが外せなくなる。私たちは知っている限りの二人の話を続けた。
「告白、笑美子さんからだったんだって。」
「文也ってそういうの、淡白だからなあ。」
「でもラブラブだったわ、あの二人。」
佐喜彦さんは少しむっとしたけど、構わず続けた。
「週末はいつもデートして、どこへ行くのにも、手、繋いでたわ。」
じっとこちらを見る彼の眼は、泣きすぎて赤くなっていた。たぶん私も、充血している。
「叔父さまは笑美子さんを猫可愛がりしてたし、笑美子さんも叔父さまにべったりだったわ。六年間、ずっと。」
そこまで話すと、自分で言ってて虚しくなった。
「笑美子さん、体の問題で、子供産めなかったんだよね。」
佐喜彦さんが口を挟んだ内容は初耳だった。
文也は知ってて結婚したみたい。少し躊躇ってから、付け加えて教えてくれた。
叔父さま、本当に愛していたのね、笑美子さんのこと。棄ててしまった指輪が脳裏に浮かんだ。
「きっと、最初から要らなかったのよ。自分たちの子供も、もちろん養子も。二人だけで充分、幸せだったのよ。」
仰向けでいた佐喜彦さんが、ごろんと横たわる姿勢でこっちを向いた。
「笑美子さんってさ、全部だったんじゃないかな、」
ぜんぶ?
私も身体まるごと、佐喜彦さんのほうを向く。
「うん。文也の、ぜんぶ。」
指を折りながら説明を始めた。
「奥さんで、妹で、お姉さんで、娘で、母親で、友だちで、恋人。」
すごく納得のいく説明だった。ついでに、ふと気づいた。
「私、あなたがそんな感じかも。」
佐喜彦さんは一瞬真顔になったけど、すぐに表情を整えて、「愛してくれちゃったの?」なんて悪戯にほくそ笑んだ。
ちがうわよ。「断じて好きなんかじゃないけど、」そう前置きした上で、告げた。
「一緒に居るの、嫌じゃないわ。兄と弟と、息子と父親と、ライバルと悪友を合体させた感じ。」
「夫と恋人は?」
間髪入れず聞いてきた。
「なりたいの?」
訝しげに聞き返す。
「無理。女相手じゃ勃たない。」
寝転んだまま膝を蹴ってやった。佐喜彦さんはけらけら笑いながら、じゃれあうような防衛をする。
「うん。僕も同じかも。」
じゃれあいもそこそこに、重ねて言ってきた。
「妹と姉と、母親と娘と、恋敵と親友を混ぜこんだ感じ。」
「妻と恋人は?」
「なりたいんだ?」
「無理。あなたって性的なにおいがしないんだもの。」
なにそれ。佐喜彦さんは笑う。私としてはこの上なく適切な意見だった。
「やっぱり僕、笑美子さんが嫌いだな。」
談笑も束の間、彼はぽつりとこぼした。
「僕は、恋人にしか、なれないもの。……文也の恋人、やめたくないな。」
先のいさかいを憂うわけでも、私の犯行を咎めるのでもなく、ありのままの願いを洩らす様な、安穏とした言い草だった。
好きなんだ。世界中の誰よりも、文也を愛してるんだ。
床に頬を擦りあてながらこんなことを言う。
想像どおり、映画みたいな台詞が恥ずかしくない彼だ。
「恋人ができなくなったら、家族になればいいじゃない。」
彼に習って恥ずかしい台詞を吐いてみた。思った以上に頬が熱くなって、慣れないことはするもんじゃないなとすぐに後悔した。
「依世、マリーアントワネットみたい。」
「ばかにしてんの?」
佐喜彦さんがまた笑う。きれいな顔で、幼く笑う。
「ううん。大好きだよ、あなたのそういうところ。」
白い大きな手が私の手をとり、微笑んだやわらかい唇で指先にキスをおとした。
なによ、女には勃たないんじゃなかったの?
勘違いしないでほしいな。これはそういうのじゃない。何なら、確認、する?
さっきよりも幾分強く、もう一度膝を蹴ってやった。
叔父さまの話題から叔父さまと笑美子さんの話題に移り、いつの間にかお互いの話になって、最後らへんはどうでもいいような会話が続いた。
ねえ、おなか空かない?
すいたかも。
ラーメン、食べたことある?
あるよ、十年くらい前に。パパがよく作ってくれた。
……ラーメン屋、言ったことは?
それも十年くらい前に行ったきりかなあ、
……パパと?
うん、パパと。
………。おいしいお店知ってるの。そこ、行きましょ。たまには私にもご馳走させて。
車、たぶん文也が乗って行っちゃったよ。
電車でいいじゃない。まさか乗りかた知らないなんて言わせないわよ、
知ってるさ。もう永いこと乗ってないけどね。
……十年くらい?
うん。十年くらい。
数時間ぶりに立ち上がると、軽いめまいがした。ふたりでいそいそと、支度に取り掛かる。
この人がラーメンを食べる姿も、改札を通る姿も、きっと見ものだろう。
うまく麺がすすれなくてスープがはねたり、切符を取り忘れたりしたら面白い。そんなことを期待しながら、私は相変わらず少しださい身なりを整えた。佐喜彦さんも顔を洗っている。洗顔はあの傷にとても沁みそうだ。
腹ごしらえが済んだら、バッティングセンターかボーリングに行くのもいいかもしれない。それも、きっと見ものだ。
「わからないものなのよね、人生なんて、」
久しく母と二人で朝食を摂ると、彼女はほとんど独り言に近い声色で切りだした。
ここ最近、身内から立て続けに受けた、二つの報告についてなのだろう。
一つは、件の、兄の婚約についてだ。
当初は養子縁組に反対していた母だったが、どういう風の吹き回しか、相手側のご家族のお許しが下りるのであれば、と、彼らの養子縁組を前提とした婚姻を受け容れた。
もちろん勘当だとか、干渉はしないなんて野暮な条件も無しで、だ。
心変わりの真意は定かではないが、独り言に続けて、こんな話をしてきた。
「今にして思えば、君依を妊娠したときも、依世が胎に入ったときも、笑美ちゃんが亡くなったときも、同じように思ったわ。良いことも悪いことも、過ぎちゃえば、人生ってわからないで済んじゃうのよね。」
兄のときは「妊娠」で、私のときは「おなかに入る」という表現が障った。きっと悪意は無い。それだけは確かだったので、私を養子に出そうとした事実については、知らないふりを貫いた。
「そう考えたら、観念、できたの。君依の結婚。」
観念……できるのかな。本当に。
彼女がもう一つの報告に対してもそれが言えるのか、思案した。
『会わせたい人がいる。家族になりたい相手なんだ。』
母と伯父が、四十を目前にした弟から受けた一報には、両家ともども驚かされるばかりだった。
妻に先立たれてもうすぐ六年。浮いた話のひとつも無かった彼と、件の「紹介したい」相手は面会の場にと老舗の有名料亭を設け、兄姉一家全員を招待したのだ。
「初顔合わせなのに、随分なことしてくれるわ。」
そう言っておきながら頬が緩みっぱなしの母の姿に、今夜の面会は穏当には終わらないのだろうと不安が募った。
伯父いわく、母は歳の離れた弟である叔父さまを、幼い頃から可愛がっていたのだという。
今回の件も、家族総出で老舗料亭に招かれることよりも、不憫な半生を送ってきた弟がやっと人並みの幸せを手にしたことが、何より喜ぶべき点なのだろう。相手がどこぞのご令嬢かもしれないならば尚更だ。
「私、何度か会ったことあるよ、」
一応、責任の一部を負うことにした。
「どんなひと?」
思ったとおり、母は食いついてくる。
「若くてきれいな人。あと、お金持ち。」
嘘は何一つ吐いていない。母は更に上機嫌になり、私の分の食器もまとめて下げてくれた。
「まさかあの齢で逆玉だなんて、わからないものなのよね、人生なんて。」
わからないものなのよね、人生なんて。ちょっとしたマイブームのように繰り返すこの言葉が今夜の面会以降、悪い意味合いにならなければいい。観念、してくれればいい。
「もし、フミが再婚するようなら、もう今までみたいに通いつめちゃだめよ。」
部屋に戻る私を引き留めて、母は釘を刺した。
わかってるよ。そのつもりだもの。
冬の短い日はあっという間に暮れて、約束の時間が近づいてきた。
佐喜彦さんが見立ててくれた服に、二度目の袖をとおす。私には勿体ない上物だけど、今日という日にはお誂え向きだ。
「あら、そんな服持ってたの?」
準備のさなか、覗きこんできた母がきく。
「笑美子さんのおふるなの。」
自分でもよくわからない嘘をついた。
義妹とも仲の良かった母は少し遠い目をすると、「早く支度終わらせなさいね。」と、それ以上何も言わなかった。
あのね、ママ、
息をのんで母を呼び止めた。
出掛ける前に、話しておきたいことがあるの、
呼びかけに母が、きちんと耳を傾けてくれたのを確認すると、ひと息置いて、告げた。
「私ね、好きなの。叔父さまのこと。」
そんなこと知ってるわよ。呆れ顔で母は言う。
「依世ったら昔から、フミについて回ってたものね。」
ちがうの。そうじゃないの。言葉を被せてもう一度告げた。
「文也さんを愛してるの。」
……ふざけてないで早く支度しちゃいなさい。ため息混じりに苦笑をこぼして、母は出て行った。
『ふざけてなんかいないよ。真面目にきいて。』
言えなかった。
『愛してるの。あの人が大好きなの。』
言えなかった。
佐喜彦さんなら、きっと言ったのだろう。
体も心もぜんぶまっすぐに、立ち塞がって、真剣に、わかってもらえるまで言うのだろう。
声を震わせるかもしれないし、涙を流すかもしれない。
彼を正気じゃないと、ふつうじゃないと否定する誰かの前でも、同じ性別の、うんと齢の離れた恋人を、愛しているのだと、叫ぶのだろう。
「文也叔父さんと藤代くん、うまくいくといいね。」
久しぶりに家族四人で乗る車の後部座席で、兄がこっそりと耳打ちしてきた。
それとなく気づいてはいた兄と佐喜彦さんの親交よりも、どうでもいいような情報に興味が湧く。
「佐喜彦さん、藤代、っていうんだ。」
「なんだ、知らなかったの?」
兄は少し笑ったあと、もう一度私に向けて、こう言った。
「依世。その服よく似合ってるよ。そういえば最近、笑美子さんに似てきたよね。」
……もう、なんなのよ。
藤代佐喜彦。
敵わないな。私、この人には一生敵いそうにない。それが最近の、彼への感想。
私の恋はもうすぐ消える。
十九年間の、下心だらけの、下衆の恋路は、下衆にふさわしい幕引きに向かって、ゆっくりと動きだす。泣くしかない。
恨みも妬みもしない。今度は泣くしかない。
四十を目前にした叔父さまが、もうすぐつがいになる。左手に新しい証を輝かせて。
大いなる祝福をもって、彼らの恋路に泣いてやろう。