人でなし
兄が叔父さまを訪れたのは、例の「記念日」の前夜だった。
「結婚しようと思うんだ。」
特に記念日と関連した訪問ではないと、すぐに察した。
「そいつはめでたいな。」
兄は珍しく酔っているらしく、叔父さまは当たり障りない返事ばかりしている。
「でも、母さんに反対されて、」
内容が内容なもので、声を掛けるタイミングを逃してしまった。
私の帰宅に気づかない二人の会話をしばらく立ち聞きしていると、兄の込み入った事情がみえてきた。
兄には、大学在学中からおよそ六年間、同棲を続けているひとがいる。
相手は当時の同級生で、女の人だけど恋人ではない……と、ここまでは以前からそれとなく耳にしていた。もちろん、今回結婚を決めた相手も彼女だ。
それ自体は大した問題ではなかった。
最初は恋仲でなかったとしても、六年もの歳月を経て最終的に男女の仲として落ち着いた、というのは、なんら不自然ではないからだ。
ただ、彼らの婚約理由は、男女の仲の最終段階などではなかった。
相手の女性との共通の友人が亡くなり、ふたりでその友人の子を引き取ろうと、決めたのだという。
件の子供はまだ産まれて間もないし、経済的な余裕も充分ではあるが、何よりもまずは婚姻関係を結ばなければならない。
つまり、養子縁組を目的とした婚約だったのだ。
母に話す際には、わざわざ「養子縁組のために」などとは説明しなかったが、結婚と同時に養子を迎えたいと打ち明けたところ、それは認められないと反対されたという。
「俺は反対するわけじゃないんだけどな、」
叔父さまは前置きした上で、兄に尋ねた。
「どうして、おまえたちが引き取ることにしたんだ。あちらさんにだって、親族くらいいるんだろう?」
ごくまっとうな質問に、兄は口を噤んだ。言えないのか、と叔父さまは問いただす。兄は、きっと母さんに報告するから、と声を震わせた。
「俺がおまえより、姉さんの味方についたことがあったか?」
絶対に告げ口しないと約束すると、兄は重い口を開いた。
「自殺、したんだ。」
自殺。
そんな言葉に気をとられるのも束の間、くだんの子の母が夫への刺殺事件を起こし、のちに自殺したという事実を明かした。
続けて、だから親族が引き取りを渋っている、親類間で揉めている、たとえ引き取られても扱いは目に見えているのだと、兄は怯えるように説明した。叔父さまは、黙って聞いていた。
やがて兄は、取り乱すように声を荒げた。
「養子縁組は、夫婦のためじゃなくて子供のためのものなんでしょう? 子供が欲しい大人じゃなくて、親が必要な子供のためのものなんだ。僕たちは間違ってない。」
普段はおとなしい性分の彼の豹変にも動じず、叔父さまは、
「ああ、間違ってないさ、」と宥めた。
「僕たちは、家族になりたいだけなのに、」
「ああ。」
「でも母さんは解ってくれないんだ、母さんだけは…解ってくれると、思ったのに…」
「飲みすぎだ、君依、」
叔父さまは兄を宥め続けた。
「母さんだって…娘を、養子に出すつもりだったくせに……」
「やめろ、君依、」
落ちつき払い続けていた叔父さまが、強めの声を発した。
同時に、私には兄の、思いがけない発言が突き刺さる。
……「娘」?
兄のいう「娘」が母の娘であるのなら、それは一人しかいない。
私だ。
私を、養子に?
「姉さんが解るはずないさ、」
とたんに悪寒が走る。
……やめて叔父さま。
それ以上、言わないで。
「あの人は俺と笑美子のために、依世を宛がったんだ。」
いやな予感が、声となって現れる。
身体が凍りついて動かない。
それでも、兄と叔父さまの声は止むことなく降り注ぐ。
「おまえとは、考えが根本的に真逆なんだよ。」
「結局文也叔父さんも、母さんと同じだ。」
歯止めの効かない矛先は、いつの間にか叔父さまへと向けられていた。
「現に今でも、依世に良くしてるじゃないか。それって依世のためじゃなくて、自分と笑美子さんのためだからなんだろ、」
凍っていた足元が少しずつ動き始めた。この場から離れようと、兄の声から逃れようと、音をたてないように後ずさる。
「あのまま笑美子さんが生きていたら、あなたたちの養子として、育てていたからでしょう?」
形見のつもりだからなんだ。
玄関を飛び出した最後の最後まで、兄の声は私を貫いた。
ひとりで時間を潰すのは慣れている。
状況的にも、二十四時間営業のお店は今時分どこにでもあるし、精神的にも、ひとりはそれほど苦痛じゃない。
本当はここで、恋人を呼び出して、泣きついて、癒しを求めて朝までベッドで抱きしめてもらうのがセオリーなんだろう。私でいうところのその相手は和くんなんだろうけど、私も彼もそういったセオリーは似合わないし、別に泣きつきたいとも思わない。
ドリンクバーの安っぽいカプチーノの泡をいじる自分が、思いのほか冷静でいるのも妙に納得できた。
今にして思えば、なんとも辻褄の合う話だ。むしろ、どうして気づかなかったのだろうと、呆れてしまうくらいに。
幼い頃、母が頻繁に弟夫婦に私を預けていたこと。
笑美子さんが、叔母としては充分すぎるくらい、私を溺愛していたこと。
叔父さまが、私の前でだけ、妻の名前を呼んで泣き崩れたこと。
もうすぐ二十になる姪と、健全すぎる親密な関係を続けていること。
くだらない。馬鹿ばかしくて、涙も出なかった。
吹っ切れたとかやけくそとかじゃなくて、もっと中身の無い単純な思想。
「頭が良くないんだね」、いつか佐喜彦さんに評されたことが、よく当て嵌まる。
逃げ出す必要なんて無かった。兄さん、何騒いでるの、外まで丸聞こえよ。そう声を掛ければよかったし、後日叔父さまと、養子なんてそんな話もあったんですね、と、会話に華を咲かせればよかった。
もしかしたら今頃、パパって呼んでたかもしれないんですね。何事もなく笑う自信はあった。
じゃあ笑美子さんはママだったんですね。言われてみれば、親子みたいなものでしたもんね、私たち。
これだって、きっと笑えた。
「えみこ」
……こんなときに、叔父さまの泣き声を思い出す。
えみこ、
生ぬるいような、甘ったるいような、やたらと絡みつく「えみこ」の音は、じんわりと頭のなかに浸透してゆく。
……叔父さま、
私は、あなたの、何になれましたか?
始発に飛び乗って、叔父さまの家に戻った。
玄関に兄の靴は無く、代わりに見覚えのあるブーツが行儀良く揃えられていた。佐喜彦さんだ。
家の中はしいんと静まっていて、リビングはほんの少し酒臭かった。あのあと、兄は落ち着きを取り戻せたのだろう、三人で飲んだ形跡が残っている。
足音をたてないように、叔父さまの部屋に向かった。
部屋を覗くと、大の男が二人、ひとつのベッドで眠っている。奇妙にも嫌なきもちは沸かなかった。
二人の関係を知って間もない頃、脱衣室でコンドームの外袋より今の光景は露骨なはずなのに、鳥肌の一つも立たない。代わりに、安らかな寝息をたてる叔父さまを見ると、少し心臓がぎゅうとした。
佐喜彦さんの寝姿は、やっぱりきれいだった。
明け方の薄暗さのなかでも白い肌は際立っていて、瞼を閉じて動かない様はまるで本物の彫刻みたいで、その反面、もうすぐ孵る雛みたく、幼くもみえた。
ペンギンと刷り込みなんてよく言ったものだ。
身を寄せ合って眠る二人はまるで、つがいのようだった。
「佐喜彦さん、」
小さく呼びかけてみる。
「私、形見だったんだって。」
目覚める気配は、無い。
「死んでよかったって、一緒に笑っちゃったね。」
ざまあないのは、私のほうだったみたい。
きらりと枕元で何かが光った。
プラチナの輪に、FtoEの刻印、叔父さまの指輪だ。
拾い上げたと同時に叔父さまが寝返りをうち、私はそれを握りしめたまま、衝動的に部屋を出た。
隠れるように洗面所に逃げ込むと、不透明な恐怖に心臓が波打った。
動機が止まらない。
呼吸が乱れる。
目が乾いて、瞼が降りない。
おちついて、おちついて。何を怯える必要があるの。おちついて。
言い聞かせながら顔を覆うと、掌と頬の間で、硬く冷たい感触がした。
指輪。
……これは証だ。
手にして改めて思い知った。
ずっと見えていたはずなのに、目を瞑り続けていたもの。
叔父さまに愛した人がいた証。
笑美子さんが生きた証。
ふたりが夫婦だった証。
私なんかよりずっと価値のある、形見。
ままごとのように左薬指に嵌めてみた。叔父さまのサイズの指輪はぶかぶかで、私は脱け殻みたくぽうっと、自分の薬指に光るそれを見つめた。
「依世ちゃん、」
背後から視線を感じて振り向くとそこには、笑美子さんがいた。
鏡の中から、左薬指に夫との証を光らせて、私を見据えている。
……さっさと消えなさいよ
鏡に映る彼女を睨みつけた。
あんたもう死んだんでしょう? いないんでしょう?
もう 叔父さまに付き纏わないで
邪魔だったのよ ずっと ずっと
生きているときには言えなかった恨みや妬みを、空になるまで、心ゆくまでぶつけた。
叔父さまには 新しい恋人だっているわ
すごく愛されてるんだから
叔父さまはもう幸せなんだから
あんたなんか いらないんだから
さっさと消えなさいよ ひとでなし
散々悪態をつき終えると、笑美子さんは見据えていた瞼を静かに閉じた。
そしてもう一度、静かに開き、私に向けて笑みを浮かべた。
失笑でも嘲笑でもない。穏やかに私を慈しんで、微笑んでいる。
吐き気がしてトイレに駆け込み、嘔吐した。
慈愛の眼差しが気持ち悪い。洗いざらい吐き終え、便器には汚物が広がる。手で口を拭っておもむろに指輪を外した。
これは、証だ。
一瞥して便器へ落とす。
指輪は私の汚物にまみれて、こつんと沈んだ。レバーを捻るとあっという間に全部流れて消えて、便器には澄んだ水だけが残った。
もう、疲れた。今日は、いろいろ、つかれた。
眠ろう。
私室までが遠く感じた。部屋に着くと、畳んである布団にそのまま倒れこんだ。
とりあえず、眠ろう。
今になって事の重大さに気づく。とんでもないことを犯してしまった。目が醒めたら、謝ろう。許してもらえないかもしれない。赦されるはずがない。
それも、いいかもしれない。
「イヨね、おじさまがいいの。」
久しぶりに叔父さまの夢をみた。
そういえば、どうして好きになったんだっけ。よく憶えていない。
でもきっと、大したきっかけなんかじゃない。
私はとても幼くて、叔父さまは今と同じくらいの背丈だったけど、今よりずっと若かった。
若い叔父さまは幼い私を軽々抱えて歩き、その腕にすっぽり収まった私は、たぶん今とは違う眼差しで彼をみつめていた。
少し成長した私は叔父さまから降りて、彼の後ろをついて歩いた。
追いかけるように、時々走ったりしながらついて歩いた。
しばらく歩くと、叔父さまは笑美子さんと出逢った。
笑美子さんがきれいに笑い、叔父さまも幸せそうに笑う。
そこから三人で歩いた。
叔父さまと笑美子さんに挟まれて、三人で手を繋いで歩いた。
動物園や水族館、賑やかな道ばかりを歩いたけれど、突然、私の左側に居た笑美子さんが消えて、叔父さまは立ち止まってしまった。
座り込んで動かない。私はその様子を、後ろからただただ見ていた。
賑やかだった道から音が消え、辺りも暗くなってゆく。
じっと動かない叔父さまを眺めているうちに、私の背丈は少し伸びて、彼に何かを告げた。
「 、」
声に反応した叔父さまは立ち上がり、再び歩き始めた。私もまた後ろをついてゆく。
歩けば歩くほど、道は暗くなった。
時折現れる景色も見渡す限り白黒で、色が無い。
叔父さまを見失わないように、はぐれないように、彼の服を引っ張らない程度に掴んで歩く。
結構長い距離を歩いた。
急に叔父さまが立ち止まり、私は彼の背中に顔をぶつけてしまった。
前方に、叔父さまと向かい合って跪く人がいる。
白い肌と彫刻のような顔をしたその人は、
若くて、美しくて、幼い頃の私と同じ眼差しで、
大輪の花束を差し出しながら、告げた。
「愛しています、文也さん。」
世界に光が満ち、とたんに道も色づく。
ずどん
衝撃音で、叔父さまから手を離してしまった。
夢は、そこでさめた。