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人なみに




 佐喜彦さんは目立つ。それはもう恥ずかしいくらいに。


 ちなみに恥ずかしいのは私のせいであって、彼に非は無い。背が高いとか、頭身が多いとか、脚が長いとかはこの際どうでもいい。

 顔だちや立ち居振る舞いは垢抜けているのに、品格を手放していないというか、もっと単純に例えるのなら、もてる要素はいくらでもあるのに男臭さが無いというか。


 いわゆる、性的なにおいがしないのだ。

 そんな相手を隣に並ぶこっちの気持ちも少しは考えてほしい。


 私はお世辞にも美人でも可愛くもないし、今日は学校から叔父さまの家に向かうしか予定もなかったから、化粧も服装もいい加減だ。



「ねえ依世、ほらライオンだよライオン。思ったよりずっと大きいなあ、」


 尚且つこの人は、自分のみてくれなんてどうでもいいようにはしゃぐ。ふれあいコーナーの兎とか爬虫類館の鰐とか、彼の心を躍らせるものは私がとっくの昔に卒業したものばかりで、平日のガラガラな園内にただただ安堵した。


「明らかに私より楽しんでるわよね、」

「だって初めてなんだ、動物園。」


 さすがに叔父さまと二人では来ないんだろうな、こういう所。納得しながら歩調を合わせる。

 以前に比べて、やたら子供っぽい彼の姿は全然わざとらしくなくて、素はどっちなんだろうと勘ぐってはみたけどすぐにやめた。



「どういうつもりなのかしら、」

 わざと聞こえるよう呟いた。


「何が?」

「あなたと、こんな所に来させるなんて、」

 差し出されたアイスクリームを受け取りながら、今度はちゃんと質問する。アイスは私がチョコレートで、彼がバニラ。


「本気で言ってるの? 本当、頭が良くないんだね。」


 あたまがよくないんだね。

 耳を疑ったけれど、よくよく考えてみれば彼は私に好意的ではなかったと思い出した。あたまがよくないんだね。いっそ馬鹿と罵られたほうがどんなに清々しいことか。


 佐喜彦さんは隣に腰かけ、アイスをひと舐めすると、

「諦めろってことなんじゃないかな。」と、声を整えた。


「諦める?」

 私はアイスを齧って聞き返す。


「いつまでも叔父(じぶん)なんかにべったりだから心配してるんだよ、きっと。若い男とデートでもして、良さを教えてやれだってさ。僕なら、可愛い姪っ子に手を出す心配も無いしね。」


 白羽の矢の理由を彼はそう説明した。



 そこから少し無言が続いて、その間私たちは各々のアイスに集中した。甘いのも冷たいのも全然入ってこないのに、舌先の黒い塊はみるみる減ってゆく。


 叔父さまが私を遠ざけようとしている? この人を使って?

 横目で彼を見ると、手元の白い塊もだいぶ小さくなっていた。



「……あなたも存外、頭良くないわよ。」

 白い塊が無くなる寸前で沈黙を破った。


「あなたとこんなふうにしていても、わかりそうにないわ。若い男の良さ。」


 ほんとうを言うと、今のは本音か嘘か微妙なラインだ。

 この、佐喜彦さんとの、デートのような状況が良いものだと感じられないのは本当だけど、それで世の中の若い男がみんな「良いものではない」と決めつけるつもりもない。

 だいいち、私がわかっていないのは若い男の良さではなくて、叔父さま以外の男の良さだ。仮に、叔父さまが十代だろうと二十代だろうと、きっと変わらず好きになっていたと思う。


「でも、依世って彼氏いるよね?」


 微妙なラインのもう一つの理由はまさにこれ。

 鎌をかけられている可能性だって充分にあったのに、私の顔は嘘が下手だった。


「女よりめざとくないと、この世界じゃ生きていけないからね。」

 彼の指すこの世界とは、つまるところ男が男の恋人を持つ世界だろうか。

 気づけばアイスを食べ終えていた佐喜彦さんは、自分と私のアイスの包紙を一纏めに丸めると、ごみ箱に投げた。



「ちゃんと彼氏も作って、そのくせ文也も手放さないんだね。あざといところは彼そっくりだ。」




 佐喜彦さんに指摘されたとおり、私には一応彼氏、と呼ぶべき相手がいる。


 同じ高校出身の(やまと)くんがその人だ。

 和くんとは卒業間近から交際を始めたので長い付き合いではないし、今では学校も別々で、月二~三回顔を合わせるかどうか、その程度の関係だ。

 更にいえばただの一度も、肉体関係を持ったことさえない。

 彼に無関心なわけではない。むしろ、今まで関わってきたどの男性よりも心地良い相手だと思っている。無論、叔父さまを除いて。



 自分の交際遍歴は年相応だと思う。

 最初の交際経験は十三歳のとき。

 相手は違うクラスの男の子で、お互い人生初の彼氏と彼女だったせいか、交際といってもその中身は、一緒に下校する程度の可愛らしいものだった。


 当然、すぐ別れた。


 次に交際したのは十六歳のとき。

 相手は高校の同級生で、その頃にはそこそこ男女の仲に対する知識も免疫もついていたので、なんとかセックスまで至れた。正直そんなに良いものと感じなかったけれど、なんとなく続けた。

 しかし叔父さまと過ごす日常でふとした瞬間、急にその光景が頭いっぱい映るようになって、心臓が冷えていく不快感に襲われた。

 このままでは叔父さまが見えなくなってしまう、そんな気がしたから、別れた。


 その次は十七歳のとき。

 少し年上のフリーターと付き合った。きっと自分には年上のほうが合っているんだ。そう信じて選んだ彼は本当に優しくて、私を妹のように大事にしてくれた。やたらセックスも求めてこない。

 うまくいきそう、思った矢先に叔父さまの所に通ってる件で揉めて、ふられた。

 叔父さまのことを言及された時点で、私のなかに沁みこんでいた彼への理想像が抜けきってしまっていたので、ダメージは驚くほど無かった。


 もうひとつ、同じ十七歳のとき。これは交際したのではなく、私の片想いだった。

 もう同年代も、少し年上程度の男の子じゃだめなんだ。言い聞かせて片想いの相手に選んだのは、学校の近くに店を構えるパン屋の店長さんだった。

 歳は当時三十代半ば。若い頃から海外で修行を積んでいたせいか独身で、人当たりの良さもあってか、彼のお店はいつもうちの生徒や近所の奥様方で繁盛していた。


 好きです、と、充分に距離を縮めてから勇気を振り絞った告白を、彼は高校生相手には勿体ないくらい丁寧な言葉で、丁重にお断りしてくれた。この時も、不思議とショックじゃなかったのを憶えている。



 私はきっと、どこかでちゃんと、冷静でいたのだ。



 彼氏を作って、その相手を一番にして、自分を一番にしてもらって、普通の恋愛が幸せなんだと思い知らなければと焦っていたんだ。


 しかし叔父さまと真逆の若い男の子にも、叔父さまと同じく歳の離れた大人の男性にも、叔父さま以上の、いいや、叔父さまと同等のものさえ見出せなかった。


 和くんは私にとって、叔父さまと共存させることのできる唯一の(ひと)だ。


 何度か、彼の誘いよりも叔父さまとの約束を優先させたことがある。その際、私は嘘がつけなくて、馬鹿正直に断っていた。



 ごめん、その日は叔父さんと約束があるの。

 おじさんって、いつもの人? ずいぶん仲が良いんだね。

 うん、大好きなの。

 おじさんが?

 ええ、叔父さんが。



 和くんは少し何かを考えたあと、やがてへらっと「そっか、じゃあまた今度だね。」と笑ってくれた。


 そんな付き合い方が今でも続いて、私たちは口先だけの恋人になりつつある。

 もう別れ話を切り出されるのも、時間の問題かな。そう考えていると決まって彼から連絡が入って、会うと何事もないようにへらっとしている。

 そのあとは友人と接するようにデートをしたり、同じ部屋で、セックスに進展する気配も無く一緒に勉強をする。


 私たちの関係性は、恋人という部類で括る必要なんてないのかもしれない。でも私には、彼とのそういう所がとても心地良い。


 予防線、と言われれば最低だけど事実だ。

 限界ぎりぎりまで叔父さまを愛し続けて、決定的な何かに打ちのめされて、もう愛することが出来なくなってしまったとき、孤独に耐えられる自信なんて無い。


 いつか、叔父さま以外の人を愛さなければという気持ちもある。

 でも今は、そのいつかじゃない。

 まだ叔父さまを好きでいるのを、和くんは許してくれそうな気がした。いつか和くんを愛せるようになるまで、彼は「そっか」と笑って、待っていてくれそうな気がした。






「あっ、ペンギン。」

 広い動物園の最後のほうで、佐喜彦さんが今日一番明るい声をあげた。

 白と青で造られた水の流れるエリアに駆け寄る彼を追うと、丸々太ったペンギン達の姿があった。


「好きなんだ、ペンギン。」


 柵に両手を置いて、嬉々と言う。ずいぶん似合わない物が好きなんだな。左右に揺れながら歩く姿がなんとも不恰好な鳥と、背が高く美しい彼を見比べてそう思った。

 ペンギンは本当にどんくさい。水に入ってしまえばそこそこ優雅に泳ぐのだけれど、陸にあがってしまえばただの飛べない太った鳥だ。



「笑美子さんも好きだったわ、ペンギン。」

 水を差すつもりなんて無かったけれど、つい思い出がこぼれた。

「……昔、一緒によく来たの。」

 引き下がるわけにもいかず、そう付け加えた。



「だろうね。一生のつがいだもの。」



 佐喜彦さんはペンギンを眺めたまま、笑った。

 思い詰めた様子も無ければ、この前みたく、顔を曇らせてもいない。


「あなたにもいたの?」

 続けて、なんとなく質問した。


 佐喜彦さんは笑顔のまま振り向いて、何が? と小首を傾げる。

「叔父さまにとっての、笑美子さんみたいな人、」

 補足を付けて再度質問した。


「もちろん。」

 意外にもあっさりと答えは返ってきて、虚を衝かれた私の表情を愉快に眺めながら、佐喜彦さんは目を細めた。


「ずっと好きだった人がいたよ。結婚どころか恋人にもなってもらえなかったけどね。」

「ふられたの?」

「数えきれないくらいにね。」

「それじゃ、叔父さまにとっての笑美子さんとは違うじゃない、」

「かけがえのないって意味では同じだよ。」



 恥じることなく宣言する彼に、色々思案した。


 それって何歳くらいの頃?

 相手はいくつ?

 「ずっと」ってどのくらい?

 やっぱり男の人だったの?


 もういくつか質問を付け加えたかったけれど、やめておいた。私は充分満足してしまったんだ。

 こんな彼にも叶わないことが、あったのだと。



「あなたって、結構ふつうなのね。」



「そっか。ふつう、か。」


 ありがとう。また恥ずかしげもなくきらきらと笑う。本当むかつくくらいに。

 彼は私よりずっと、現実を、そして笑美子さんを、受け容れているのかもしれない。







「寄っていかないの?」

 叔父さまの家の前で、車から降りない彼に尋ねた。

「うん。文也、今夜は晩いみたいだし、僕も明日は早いから。」

 そう。引き留める理由もないので、一応今日のお礼のつもりで頭を下げた。


「ねえ、依世、」

 玄関を開ける間際で呼び止められる。振り向くと、佐喜彦さんは私にこう聞いた。



「文也が泣かなかったって、嘘だよね?」


 エンジン音にかき消されそうな静かな声は、しっかりと私に届く。私も彼に届くように答えた。



「……半分。」



「だと思った。」


 私を半日連れまわした車が、私を散々振り回した人間の運転で遠ざかってゆく。

 エンジン音が聞こえなくなるまで、ライトが見えなくなるまで見送った。







 半分、と言ったのは言葉通り、半分嘘で半分本当だったからだ。


 叔父さまは通夜でも、告別式でも、出棺でも、笑美子さんを前に涙を流さなかった。

 兄からそれを聞いたとき、例のぞわりとした感覚が胸の奥からきれいに抜けていき、後日私はお線香をあげる名目で、彼の家へ向かった。



 叔父さまは薄暗い部屋で、骨箱になった笑美子さんと向かい合って、胡坐をかいていた。


「よお依世、来てたのか。」

 私に気づいてへらっと笑うと灯りを点けて、わざわざありがとな、と頭を撫でてまた座った。



「小さくなっちまうもんだよなあ、」

 手を合わせる私の隣で、叔父さまはぽつりと呟いた。



 なあ依世、こいつのこと好きだったか?

 続けて呟かれた問いに、私は「はい」と嘘をついた。

 一緒にいて楽しかったか? もう一度、「はい」と嘘をつく。

 こいつと遊んでくれて、ありがとな。今度は何も言わず頷いた。


 そのあと叔父さまは、私と一緒のときの笑美子さんの話をたくさんしてきた。



 動物園じゃおまえよりはしゃいでいたよな、あいつ。そういや、おまえに付き添ったアニメ映画で泣いてたよな。あと、おまえの勉強みるために前の晩予習なんかしてたりよ。料理の本開いて、今度一緒にこれ作るんだって意気込んでたりもしてたなあ。


 そんな話を笑いながら、たくさんしてきた。



「叔父さま、」

 聞きたくなくて、遮った。



「ご迷惑でなければ、」

 正座したまま、できる限りゆっくりと遮る。



「動物園とか……また行きたいです。」



 映画や水族館にも行きたいです。お勉強、みてもらいたいです。ごはんも作らせてください。これからも、ご迷惑でなければ。



 そこまで告げると、叔父さまは両手で私の頭を包み、肩の所で抱え込んだ。


 耳元で声を押し殺す音が聞こえる。手と肩が震えている。身体ぜんぶで、泣いている。



「……えみこ、」



 叔父さまの涙で、私の肩はひんやりと湿った。







 みりん、お酒、中華出汁と塩を少し、生姜と…今日はにんにくも入れよう。明日は叔父さまも休みだし。これを全部混ぜて鶏肉に漬け込んでおく。

 胡瓜と長芋は太めの千切りに、潰した梅とマヨネーズで和える。

 お味噌汁は豆腐と小松菜にしよう。一昨日の筑前煮はまだ大丈夫そうだ。ご飯も炊けた。


 あとは……あとは家に電話だ。



 ……あ、ママ。今夜は友達の家に泊まるから。うん。朝一でディズニーランド行くの。こっちのほうが近いから。うん。うん。はい。おやすみなさい。



 ひとつの嘘をつくためには、もういくつかの嘘を使わないといけない。

 叔父さまの家に泊まるとき、三回に一度くらいの割合で、私はこうやって嘘をつく。

 理解ある兄に工作を頼むのも手なのだけれど、親をそこまでなめてはいない。


 こんな面倒くさいことは、少し前までは必要なかった。母が私の日課に口うるさくなったのはここ最近の話で、特に高校を卒業してからは、露骨に嫌な顔をするようになった。


 『もう小さくないんだし、慎んだら? 親戚とはいえ、見ていてあまりいいものじゃないわ。』


 だいたいこんなことを言う。

 私が叔父さまと出かけるのを、彼の家で炊事洗濯をするのを、寝泊りをするのをきらう。


 自分の弟と娘のことで、何をそんな警戒する必要があるのだろう。そもそも笑美子さんが居た頃なんて、ママのほうから弟夫婦と遊ぶのを奨めていたくらいだったのに、急に慎みだの世間体だのを持ち出されても困る。

 日付が変わるまであと一時間。佐喜彦さんの言った通り、叔父さまは晩くなるらしい。



『コンロにおみそ汁、冷蔵庫にあえものと筑前煮があります。

 お肉は油をひかないで、たれごと焼いて下さい。

 (フタをして、皮のほうから焼いて下さいね)』



 書置きを残して玄関以外の照明を落とす。

 私室に布団を敷いて潜り込んだ。私室なんて聞こえはいいが、実際は客室と物置の間のような場所だ。あるのは小さなテーブルとテレビ、畳んである布団、クローゼットには叔父さまの夏服なんかがしまってある。

 笑美子さんが亡くなってから、叔父さまが私のためにと設けてくれた部屋だ。

 布団からは何の匂いもしない。匂いがしないというのは自分の匂いしか染みついていないということだから、佐喜彦さんはこの部屋で寝泊りしていないのだろう。



 胸を張って言える。私と叔父さまの間にやましいことなんてこれっぽっちも無い。それはもう悲しいくらいに。本当嫌になるくらい、健全な私たちだ。



 えみこ、



 睡魔を待つ間、たった一度だけ耳にした叔父さまの泣き声を、時々思い出す。


 生ぬるいような、甘ったるいような、やたらと絡みつく「えみこ」の音は、じんわりと頭のなかに浸透してゆく。



「えみこ…。いよ……さきひこ。」

 三つの名前を声に出して、頭のなかで叔父さまの声に変換してみた。

 私の名前が、一番しっくりしない気がした。

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