恋敵
四十を目前にした叔父さまに恋人ができた。泣くしかない。
四十を目前に、と言っても叔父さまは今年で三十九になるので正確にはあと一年もある。でも叔父さまいわく、このくらいの齢になるとあと一年ぽっちなど目前と同じらしい。
「『叔父さま』だなんて、依世ちゃんは育ちが良いんですね。文也さんと違って。」
ああ、きらいだな。私はこの人が嫌いだ。それが最初の感想。
新しい恋人は若くて、美しくて、そろそろ四十を迎える男には不釣合いすぎる人だった。
見たところまだ二十代。彫刻みたいな顔。品のある物腰。四十路男の恋人として隣に並ぶには不釣合いで不自然な、背の高い男の人だった。
佐喜彦、と叔父さまが呼ぶその彼は、冗談めかして笑いながら三人分のコーヒーを淹れてくれた。自分用にはブラックを、私にはミルクと砂糖をひとつずつ添えて、叔父さまにはミルクだけ多めに混ぜ入れたものを手渡す。
現状が飲み込めない私なんてまるで無視して、恋人の愛ゆえの皮肉へ笑い返す叔父さまと、そんなやりとりを満足気に楽しむ彼の姿は、たしかに友人にも仕事仲間にも兄弟にも親子にもみえない。本物だ。二人の関係が本物であると、ただただ思い知らされた。
「変だと思ったんだよ。文也があなたに僕を隠さないなんてね、」
佐喜彦さんの化けの皮が剥がれるのに時間はかからなかった。
もとより、私に対して好青年を演じるつもりなんて毛頭なかったらしい。
それよりも、急に叔父さまを呼び捨てにした無礼が聞き流せなかった。記憶が正しければ、彼はつい先日まで「文也さん」と呼んでいたはずだ。
睨む私に一瞥を返した佐喜彦さんは、いつかは堂々と呼び捨てにする予定さ、と、相変わらずの美貌で腹黒く笑った。
「あなたたちってさ、とても健全じゃないよね。ふつうの叔父と姪だとは思えない。」
この人の猫かぶりはそうとうなもので、叔父さまを介さない私への態度はずいぶんと大人げなく挑発的だった。
きっと私がこうして約束もなく訪れて、当の叔父さまが留守だったのは、絶好の機会だったのだろう。しかし私も端から彼に好意的ではないし、この人を恋人だと紹介された時点で動揺のハードルなんか跳び越えられないくらいに上がってしまったのだから、これが彼なりの宣戦布告だとするのなら受けて立つのも悪くない。
「ちゃんとふつうの叔父と姪ですよ。私の本物の母の、本当の弟です。」
「その割にはずいぶんと入り浸ってるみたいじゃないか。血縁とはいえ、年頃のお嬢さんのすることじゃないよね。」
冷戦、だろうか。
意味は違うのだろうけど、今の私と佐喜彦さんを表すのに一番適切なのはそれだ。淡々と、怒鳴ることも殴り合うこともなくいがみ合っている。
そのくせ、佐喜彦さんは一応客人の私にまたコーヒーをふるまってくれているし、私も一応目上の彼に敬語で接し続けているのだから可笑しな光景だ。
「断っておきますけど、肉体関係はありませんから。一度も。」
コーヒーをすすりながら冷戦を続けた。
「少なくとも文也にその気は無いだろうね。あなたは願わくは一度だけでも、って感じだけど。それと、無理しなくていいよ、喋り方。どうせ下世話なんだし。」
佐喜彦さんも冷戦を維持しながら、コーヒーをすする。お言葉に甘えて頑張っていた言葉遣いを捨てることにした。
「健全じゃないのはどっちよ。下世話ついでに言わせてもらうけど、脱衣所に捨てる物はちゃんと考えなさいよね。」
下世話云々の前にこれは本当にひどかった。
父親が風呂上りに全裸でうろつくとか、そういう次元じゃない。寝室のごみ箱ならまだしも、脱衣所のごみ箱でコンドームの外袋を発見したときには虫唾が走った。
「やっぱりそういう話が平気な子なんだね、依世は。」
想像はできていたけれど悪びれる様子なんて微塵も無い。勝手に呼び捨てにしてるし、しかも品の無い女だと認識されていたらしい。
「あなたって見かけより結構下衆なのね。叔父さまが気の毒だわ。」
「何言ってるのさ、コンドームはマナーだよ。依世も彼氏ができたら、ちゃんと使わないとだめだからね。」
悔しいことにこの若くてきれいな男がどんな下世話を述べようと、なれなれしく呼び捨てにしてこようと、私たちの間でセクハラは成立しない。
これはあくまで一人の壮年男性を巡る争いだ。争いのなか、佐喜彦さんはきれいな笑顔で毒を吐く。
「それに、身内なのをいいことに下心で近づくような女に、下衆呼ばわりされる筋合いは無いよ。」
いったい、彼はいつの間に、どんな手を使って叔父さまの懐に入ったのだろう。
佐喜彦さんは確かにきれいな人だ。
でもその美しさは決して女性的なものではなくて、完全に男性としてのもの。声は低いし、手だって大きくてしっかりしているし、身なりもちゃんと男性だ。少女漫画にあるような、女性に見紛う、みたいな美しさではない。
彼はもともと同性愛者だったのかもしれないけど、叔父さまは違う。少なくとも私が十九年間みてきた限り、その疑惑は一片も無かった。
なれ初めとか、いきさつとか、手段とか、知りたいことは山ほどあるけれど、今はそれどころじゃない。
「……十九年よ、」
どんな劇的なドラマがあったとしても、納得できるわけがない。
その意思を表明しなければと睨みつけた。
「物心ついたときからずっと好きだったわ。たぶん、これからも。叔父と姪って意味が理解できてからも、叔父さまが結婚してからも、ずっと好きだった。根っから異常しいのよ、私。今更あなたみたいな人が現れたってなんとも思わないわ。」
調子ぶっこいてんじゃないわよ。勢いに任せてコーヒーを飲み干した。
こんな男に叔父さまを盗られるなんて我慢ならない。
佐喜彦さんにとって私など眼中に無いだろうし、こうして挑発的な振る舞いをみせるのも、勝者ならではの余裕なのだろう。
それでも、なんとしてでも、足掻きに足掻いて少しでも彼より優位に立つとするのなら、私の切り札は時間しかない。
私は私の人生ほとんどを、叔父さまに費やしたんだから。
「買いかぶりすぎだよ、」
すごむ私に佐喜彦さんは一切の動揺も見せず不適に笑うと、
「僕は二十三年と九ヶ月、彼に会えなかった。」そのまま続けた。
「一年と三ヶ月、片想いした。その間で家に上げてもらえたのはたった一度だけ。どんなに口説いても相手にされなかったのは八ヶ月。今だって彼から触れてくれることなんて、ほとんど無い。」
「何が言いたいのよ、」
「僕だって充分だよ。あなたの言葉を借りるのなら、根っから狂っている。」
冷戦の終結は叔父さまの帰宅だった。
間の悪いインターホンのせいで、まるで私が言い負かされて終わったような形になってしまった。
よお依世、来てたんだな。何も知らない叔父さまはへらっと笑う。
「仲良くしていたか、二人とも、」
「当然じゃないですか、本当にいい子ですよ依世ちゃんは。」
「そりゃ俺に似てるからな。」
「ええ、もう可愛くて可愛くて。」
いくつか会話を交わすと、佐喜彦さんはごく自然に叔父さまの瞼にキスをおとした。背丈はほんの少し彼のほうが高い。
「おかえりなさい。文也さん。」
これには叔父さまもきまり悪そうに彼を小突き、私はというととっくに空になったカップを口元に当ててやりすごした。もちろん佐喜彦さんは悪びれずにこにこしている。
叔父さまが着替えに席を外しているうちに退散することにした。今日佐喜彦さんと二人きりになれるとしたら、この瞬間が最後だったからだ。
「いうほど、大した関係じゃないのね、」
玄関先まで見送ってくれた彼を、ここぞとばかりに見下してやった。
「叔父さまに指輪も外してもらえないんだもの。」
捨て台詞に、初めて彼の表情が曇る。満足した私はほんの少しの高揚を糧に走って逃げた。
ああやっぱり、私はあの人が嫌いだ。
どんなに平然を装うと、優位を誇ろうと、叔父さまの左手薬指に光る「それ」にはさすがの彼も掻き乱されているらしい。
別れ際に見た佐喜彦さんの顔を思い出す。きっと百も承知で恋人になったのだろう。
「それ」が物語るとおり、叔父さまには過去、奥さんがいた。
笑美子さんといった。
叔父さまより二つ年下の、名前どおりよく笑うきれいな人だった。美人という部類ではなくて、笑ったときの雰囲気がとてもすてきで、笑っていることが多かったから、きれいな人だと周囲から好評だったのだ。
大嫌いだった。
パパもママも、兄さんも伯父さん夫婦も、みんな彼女を褒めていたけれど、私だけが笑美子さんを嫌いで、かと言って、陰口を叩いたり露骨に嫌な態度を見せられるような相手でもなくて、関わる必要がある場面ではちゃんと仲良くしていたし、なついているふりだってした。
叔父さまの家に彼女が住むようになり、叔父さまと二人きりになる機会が減ったり、お盆や年末年始の集まりが憂鬱になったり……それまで私のぜんぶだった大切な時間を、笑美子さんは片っ端から奪ってゆく。きらきらとみんなを照らして、魅了して奪ってゆく。
そのきらきらに照らされるのが、パパやママなら一向に構わない。
叔父さまなのだ。笑美子さんがどんなきれいに笑おうと、いろんな人に賞賛されようと、彼女の中心にはいつも叔父さまが居る。
それと同じように、叔父さまの世界の中心に座っているのも、もちろん笑美子さんであって、そこは、私がずっと昔から憧れていた場所でもあって、いともたやすく奪われてしまったのだった。
死ねばいいのに。心の底から思えた。
小学生の時、私を無視するよう指示した女ボスにさえこんな感情は抱かなかったのに、何の非の無い笑美子さんに、死んでほしいと願った。
それしかできなかったからだ。
叔父さまは絶対私の物にならないし、いつか別の誰かが彼の物になり、彼を物にする。その覚悟が無かったわけではないけれど、現実と直面して正気でいられるほど冷静でもなかった。
それでも意地だけは一丁前で、幸せそうな二人の姿に泣くことだけは絶対にしなかった。
代わりに恨んだ。たくさん妬んだ。死んでしまえ。消えてしまえ。それしかできなかった。
笑美子さんは、本当に死んでしまった。
結婚六年目、出会いから十二年。一緒にいるには短すぎて、失うには長すぎる夫婦の時間だったと思う。
「笑美子叔母さんにはお世話になったでしょう、」
葬儀の日、出席を頑なに拒む私を、母は何としてでも連れて行こうとした。
たしかに笑美子さんは、私の腹のなかなんて知りもせず可愛がってくれた。動物園、遊園地、水族館に映画なんかにも連れて行ってくれたし、テスト前には勉強もみてくれた。一緒にごはんやお菓子を作ったこともある。
でも私にとってそれは、あくまで表面的な関係であり、叔父さまの傍に居るための手段でしかなくて、悔い改めるつもりなんて更々無い。
私はどうあがいても、彼女を好きになんてなれなかったんだ。
それが、死という別れだったとしても。
結局お葬式には出なかった。
父が間に入って母を宥め、「仲良くしてもらったからこそだろう、」そんな説得をしていた。
違う、そうじゃない。心のなかで否定した。
喪主である叔父さまの姿を見たくない、理由はそれだけだった。
彼女の亡骸を前に彼は泣き崩れるのだろうか。
それとも、もう動かない妻の名前を叫ぶのだろうか。胸の奥がぞわりとして、その日は眠れなかった。
「お通夜でも告別式でも、泣かなかったらしいわ。全然。」
「それじゃあきっと、出棺でも泣かなかったんだろうね。」
喋りながら佐喜彦さんはハンドルを切った。安定した運転だ。
「ええ、出棺でもよ。あんなに仲良かったのにって、兄さんが不思議がってたわ。」
この人とこんなかたちで、笑美子さんの話をするなんて思わなかった。先日の別れ際での件もあったし、次はもっと殺伐とした、もしくはドロドロと蔑み合うような展開を想像していたのに。
今日の講義は午前中までで、叔父さまの家へ向かおうと学校を出たところで、見覚えのない、そして若者には不相応な外車から声をかけられたのは、十数分前。
迎えに来たよ。文也に頼まれたんだ。そう言われて乗らないわけにはいかなかった。
なんとなく始まったドライブは、なんとなく笑美子さんの話に繋がり、不穏とも不自然ともいえない空気を運んで走る。
帰路が違うと気づくのに時間がかかったのはそのせいだ。
「叔父さまの家に行くんじゃないの、」
「だから、頼まれたんだってば、」
赤信号で停まると、佐喜彦さんはハンドルに腕を休ませて深くため息を落とした。どうやら、うなだれたいのは彼も同じらしい。
しかし彼と私の違うところは、こんな状況下でもとりあえずは笑えるところだ。
「文也のお願いじゃなきゃ僕だってお断りだよ、こんなこと。さあ、行こうか、動物園。それとも、先にランチにする?」
昼食を済ませておいて良かった。今日ほど思った日はない。