50.涙とキスと……
「……綾希」
涙でぼやけて見えずにいたけれど、優しいこの声は間違いなく輔の声だった。彼の指が、わたしの涙を拭っていた。彼の優しい手が頬に触れ、そして――
「――ん……」
教室の壁を隔てた廊下で、彼はわたしにキスをした。
「綾希、ごめんな……俺、お前を離したくなかったばかりに、それがかえって、負担かけてた」
「そ、んな……こと、ない」
「お前が大事すぎる。だから、綾希……」
「……ぇ」
「俺と……離れよう」
「……」
そのまま立ち上がれないわたしを抱き上げて、彼はわたしを保健室に連れていってくれた。ベッドに寝かしてくれた輔。彼の優しい笑顔を見ながら、わたしは瞼を閉じた。
「……輔、好きなのに……」
登校してきたのに、結局また早退をすることになってしまった。わたし自身、現実を素直に受け入れられなくて、自分の部屋の中で何もすることが出来なかった。
体調はその日の内に回復し、明日からはまた学校に行くことにした。しばらくわたしは、自分の席から周りが見られないまま、春に貪っていた睡眠ばかりを送るようになる。
近くの由紀乃も、比呂もわたしには話しかけて来なかった。今はまだひとりがいい。そのことを分かってくれていたのかもしれない。それでも時間の経過とともに、ここぞとばかりに彼女らがわたしにちょっかいと強い言葉を投げかけてくるようになった。
「綾希、お前フラれたのか? まぁ、そういうこともあるよ。元気出せ」
「……誰?」
「いやいや、俺、綾希の元カレ! 了だってば!」
「あー……はい」
「えーお前、結構ひでぇな」
そういえばそんなのがいた。あんまり気にしていなかった。付き合っていたということすらも、遠い過去の様に思っていた。ずっと会いたくなくて、避けていたけれど実際はそんなに大したことが無かったってことが分かってしまった。それはきっと、彼に守られていたからなんだ。
「綾希はゆずとヨリ戻さないの?」
「なんで?」
「いや、だって輔と別れたわけやし……夏休み前に戻せて安心やね」
「……沙奈に関係ない」
「まぁ、そうだけど。彼はあたしと一緒になるから安心してええよ」
「沙奈に彼は合わないから。だから安心しないし」
「へぇ……綾希もそんなこと言えるようになったんだ。そういうの、なんかええね」
輔の傍にずっといて彼しか見えていなかったけれど、離れてからちょっとずつ周りのことを見るようになったかもしれない。沙奈とも以前よりは話せるようになった。
輔とわたしは正確には別れていない。沙奈や了、由紀乃たちは別れたものとして、少しは気を遣ってくれていたけれど。お互いの気持ちをリセットした。ものすごく離れてしまう前に、彼がそうしたんだとわたしは思った。
わたしも彼も常に傍にいた存在。初めは彼からわたしに近付いてくれたけれど、最終的にわたしが彼から離れられなくなってた。かくしごとをしたり、疑ったりすることが原因だと言えばそうだけれど、近すぎても駄目だったってことが分かった。
まだ互いのことを全て知ったわけじゃない。だけど元カレの様な場所的な距離じゃなくて、気持ちの距離を置くことがたぶん、彼にもわたしにもいいことなのかもしれない。だから、他の人には別れたと思ってもらった方がかえって気が楽になって、お互いのいいところを見つめ直して行けるのかもしれない。
「葛西さん、体調は大丈夫?」
「ん、平気だから。ありがと、比呂」
「あ、いや、うん」
夏は始まったばかり。わたしも彼も夏よりも前に暑くなりすぎたんだと思う。今は離れよう。わたしの想い、彼のキモチを、平熱に戻して……そしてまた彼との距離を近付けるために少しずつ、わたしを変えて行くんだ。
そして、席替えと離れを機に、輔と、わたしの新たな関係が始まろうとしていた。




