楽しいから書いた日など一日もない
冒頭から一つだけ問うことを許していただきたい。
あなたが小説家になろうに登録したきっかけは何だろうか。
書き手の方であれば、大多数の方は物語を書きたいからだと思う。
そして何故書きたいかといえば、それが楽しいからというのがほとんどだろう。
あるいは楽しいかもしれない、という期待を抱いて始めた人の方が多いだろうか。
私もそうだった。
この小説家になろうのユーザーインターフェースは優れているため、初心者でも取っ付きやすい。
書く、推敲する、投稿するを手軽に出来る。
自分が好きで投稿した物語を、あとで好きなだけ読み直せる。
しかも無料でだ。
正直楽しくて仕方がなかった。
だが、いつからかそれは楽しくなくなった。
読者からの評価――ポイントの大小を気にするようになり、他の作家と比べてどうだろうかと気にするようになった。
そして一年ほど前に新作で爆死した時から、全く楽しくなくなった。
ストレスで不眠症になりかけ、本気で筆を折りかけたほどだ(もっとも今思えば、この時完全に折れていた方が良かったのかもしれない)。
あの日以来、楽しいと思って書いた日は一日もない。
自分がゴミかと思えるほどの強迫観念こそなくなったものの、少なくとも楽しくはなくなった。
私自身、何故こうなってしまったのかと首をひねってみた。
時間が経過したこともあり、多分こういうことだろうと次のように整理出来た。
①趣味であれば、『楽しいのが一番』は正論である。
しかし、それが適用されないのは何故か。
それは作者が紡ぐ物語はフィクションでも、作者一人一人が置かれる状況はまぎれもなく現実だからである。
②ランキングに象徴されるように、作品に与えられたポイントによって優劣がつけられる。
否応なく、そこには競争が生まれる。
他人より優れた立場に立ちたいというのが、普通の人間である。
「何故自分の作品は低ポイントなのか」「何故あの人の作品は高ポイントなのか」という苦悩や嫉妬を感じるようになる。
ランキングに入って喜ぶ一人がいる反面、全然かすりもせずに落胆する多数がいる。
更に突き詰めれば「何故あの作品は書籍化され、自分の作品はダメなのか」という悩みも発生しうる。
なお、なろうを通じて書籍化、コミカライズ、果てはアニメ化された作品があるため、いとも簡単に書籍化されるような錯覚があるかもしれない。
ただしそれは間違いである。確率的には厳しい。
そして書籍化作家であっても、売上低下や打ち切りに悩み、第二作に書籍化の声がかからず落胆し、プレッシャーに吐きそうになるという事はある。
③こうなると、楽しいからという最初の動機はどこかに行ってしまう。
皆無ということは無いにしても、心の片隅にぽつんと取り残されてしまう。
繰り返すと、それは作者が紡ぐ物語はフィクションでも、作者一人一人が置かれる状況はまぎれもなく現実だからである。
自分の感じた悩みがどこから生じたのか、上記のようにまとめた。
まとめてみると、何故こんなに楽しくないのかという戸惑いは無くなった。
そして、それと共にはっきりしたことがある。
自分にとっては、書くことというのは楽しいからやる趣味ではなくなったのだと。
半分は修行みたいなものになったのだと。
よく楽しければいい、どんな物語も大切だなどと言われるが、そんなものは実績を積み他者より優位に立った作家にだけ許される綺麗ごと――ある種の理想論だと。
私達が置かれる現実同様、なろうの中にも格差というものは厳然として存在するのだと。
恐らく、これはかなり歪んだ考えだろうとは思う。
自覚はしている。
だが、書くことに対して愛着がある人間ならば、絶対に直面する問題だという確信がある。
なろうもまた現実なのだ。
そこには数字によるフェアで厳しい評価がある。
気の合うユーザーもいれば、気に入らないユーザーもいる。
楽しい時間もあれば、苦しい時間もある。
成功の可能性は僅かではあるが、失敗してもまたやり直すチャンスもある。
そんな当たり前のことに気がつくのに、ずいぶんと時間がかかった。
なら、もう楽しくないなら、何故私はまだ書いているのだろうか。
その自問に対する答えはある。
それでも創造したい世界があるからであり。
なろうを通して知り合った人達との関わりを、ここで切りたくないからだ。
そのメリットあるいはリターンがあるから、私は楽しくなくなった執筆というものから、未だ離れられずにいるのだろう。
自分にしか書けない物語の価値というあやふやな夢を、この厳しい現実の中で抱き続けながら。