運命の終わり
あれからディアナは具合が悪く、熱を出して寝込んでしまった。床に臥せっていても、アレンの今日の運勢の欄を見ることはすっかり癖になってしまっていて、黒の賢者が幸運な日ならほっとするし、不運だと書いてあれば心配にもなる。優しい婚約者は見舞いに何度か来てくれたが、ディアナはすべて会うのを断っていた。普通に会話ができる自信がなかったのだ。
今は無理だけれど、風邪が治って元気になってから。次に会ったとき、真実を打ち明けよう、そう決意していた。
外出もできるくらい回復したある日、ディアナはエリーゼに誘われて、彼女の家へとお茶会に来ていた。丁寧に手入れされた薔薇の温室で、異国の紅茶が振る舞われる。幾重にも花びらを重ねた薔薇は美しく、ディアナの心を慰めてくれた。
お茶会は、元気のないディアナをエリーゼが気遣って、熱で寝込む前から誘われていたものだった。エリーゼに不調の原因は打ち明けておらず、メンバーにはイヴリンの姿もある。彼女は、目を逸らそうとするディアナに一瞬刺すような視線を送ったが、すぐにいつもの笑顔になり、周囲との談笑に戻った。
エリーゼとの他愛のない会話で、沈みがちだったディアナの表情にも明るい色が見えたころ、
「ディアナ!」
突然、温室の入り口から胸を揺さぶる真っ直ぐな声が響いた。ディアナは少し逡巡したあと、ゆっくりと振り返る。予想通り、そこに立っていたのは息せき切って駆けてきた様子のアレンだった。
「まあ、アレンさま。ここは淑女達の秘密の花園よ。許可もなく乱入するのはおやめください」
苦笑するエリーゼに、息を乱しつつもアレンは微笑む。
「ああ、申し訳ない。ディアナ、少しいいかな」
薔薇を背景にした彼の姿はいつも以上に美しい。その姿にまばたきもせずに見入っていたディアナは、アレンに手を引かれるままに席を立つ。
エリーゼの兄サイラスとアレンは公私ともに仲が良く、家を行き来しているという話は聞いていたので、もしかしたら彼が今日ここに来るかもしれないという考えはあった。アレンは温室を出て少ししたところで歩みを止め、ディアナと向かい合うと両手を握りしめてきた。
「君が来ると、サイラスから聞いたから。もう熱は下がった?」
「この前はせっかくお見舞いに来ていただいたのに、申しわけありませんでした。すっかり元気です」
「……元気には見えないな。何か悲しそうな、この世の終わりみたいな顔をしている。いつものように僕を見てくれないし。この間会ったときからずっと」
表情は曇り、作り笑いどころか、アレンとまっすぐ向き合うことさえできていないディアナを前に、彼も思うところがあるようだ。
「もしかして、僕は嫌われてしまったのかな」
「アレンさま……。私、お話したいことがあるんです」
ディアナが意を決してアレンを見上げるが、彼は冷たく言い放った。
「君がなんと言おうと、僕は君を手放すつもりはない。君の運命の――」
「それは、私が藍の詩人ではなくても、ですか」
「え? ディアナ、君は何を言って……」
風が木々を揺らす音が耳に痛いくらいの沈黙が続き、ディアナが懸命に言葉を選んでいるときだった。
「違うでしょう。藍の詩人ではない、それだけではなくもっと他に言うことがあるはずでは? あなたは本当は緋の呪術師なのだと」
じれた口調で割り込んできたのは、こっそりと二人の後をつけ、陰で立ち聞きしていたのであろう、イヴリンだった。
歌うような口調で彼女は続ける。
「可哀想なアレンさま。生涯寄り添う伴侶に、決して相容れない緋の呪術師を選んでしまうなんて」
「君は、確かロイバーツ家の……。今言ったのは、一体どういう意味だ」
「だって、ディアナさまの誕生日は本当は四の月の十五日なのですよ。それなのに、この方は自分こそがアレンさまにふさわしい藍の詩人なのだと、偽っていた」
全てを打ち明ける決意をしていたというのに、アレンの戸惑う顔を前にすると、ディアナは今すぐにイヴリンに駆け寄って口を塞いでしまいたくなった。しかし、ディアナの体は硬直して動いてくれない。
「ディアナ、本当なのか。君の誕生日は」
アレンの声音に隠しきれない動揺が滲む。ディアナは絞り出すように答えた。
「今言われた通り、四の月の、十五日です。パーティーは、二十五日だったのですが」
「ほら。あなたの横に立つ女性が、嘘をついてまで妻の座を手に入れようとするようなずるい人でいいわけがありません」
「いや、ちょっと待ってくれ。あのとき――。あのとき、ディアナとエリーゼがしていた会話を聞いて……。ディアナが嘘をついたわけじゃない。僕が勝手に勘違いを」
勘違い――その言葉はディアナの胸を大きく抉った。やはりディアナは勘違いで選ばれた、嘘偽りの運命の相手。
「いいえ、この方は知っていて隠していたのです。立派な嘘ですわ。この嘘さえなければ、私が――。アレンさま、どうか聞いてください。この私こそ、七十二年、四の月の二十五日生まれ。あなたの運命の相手なのです」
「君が、僕の――?」
「もっと早くに知っていればこんなことにはならなかったのに。けれど、あなたが整色聖人の運命の相手を求めていたと私が気づいたときにはもう、隣にはディアナさまが当然のような顔をして立っていたのです」
呆然とした様子のアレンを見上げ、切なげにイヴリンは頷く。自分を敵対視するイヴリンの行動の意味が、ディアナにはやっと分かった。アレンに想いを寄せているだけではなく、彼女こそが、アレンの求める藍の詩人だったのだ。イヴリンからしてみれば、ディアナは自分から想い人を奪った、最低な嘘つき女に思えるのだろう。
もう、これ以上は耐えられない。
「私は、失礼します……」
この場を早く去らなければ。見つめ合う二人から視線を外し、立ち去ろうとするディアナの手を、アレンが強く掴んだ。
「は、離してください」
「待ってくれ、ディアナ」
「本当なら私はアレンさまの側にいられる女性ではなかった。今まで黙っていてすみませんでした」
「ディアナ」
泣いてしまったら、優しいこの人は苦しむだろう。何も知らない小娘を巻き込んでしまったと、ずっと負い目に感じるだろう。だからディアナは涙だけは流すまい、とこらえて顔を背け、彼と距離をとった。
「私はそのようなくだらない占いなど信じていません。そんなものにすがる男性は女々しくてどうかと思います。今まで言い出せませんでしたが、相性も悪いものであったようですし、どうぞ、よく考えてください」
アレンの力が緩んだ隙に彼の手を振り払い、その場をあとにした。
舞い散る花びらの中、見つめ合っていた二人の姿が脳裏から離れない。悲しくて、惨めで、悔しくて、情けなくて。
予定より早く姿を現したディアナに、待っていた馬車の御者が驚いた様子で駆け寄ってきた。その瞬間、こらえきれない涙が後から後からわいてくる。もらった布で濡れた頬を拭いても、冷え切った心はずっと寒いままだった。
「お姉さま! おかえりなさ――」
帰宅したディアナを、リリアナが迎え出てくれたのだが、涙の乾ききらぬ姉の顔を見て、妹の大きな目がさらに丸くなる。
「まあ! どうしたの?」
「どうってことないわ。心配しないでね」
「そう……?」
幼い妹に心配をかけるまい、と努めて平静を装うとリリアナはそれ以上何も聞いてこなかった。
「お姉さま、着替えたら、一緒に暖かいお茶を飲みましょう」
そう言ってくっついてくる妹の手の中にある本に気づき、ディアナは息をのんだ。それは今、一番見たくないものだった。姉の視線を感じたリリアナは、それを嬉しげに掲げて見せる。
「これ、お姉さまが置きっぱなしにしていた本。むずかしい言葉ばっかりでよく意味がわからないけれど、きれいな絵がいっぱい。ねえ、いっしょに読んで」
出かける前にディアナが開いていた頁。黒の賢者と共に書かれていた緋の呪術師の今日の運勢の欄には、「運気は低空飛行。辛いことも笑って受け入れれば道は開ける」と書いてある。
「どうやって受け入れろと言うの?」
ディアナは 喉もとを締め付けられるように息が苦しくなり、咄嗟にリリアナの手から本を取り上げた。
「お姉さま!?」
「こんなもの――」
投げつけるか、びりびりに引き裂いてしまうか、一瞬本気で迷い、手をかける寸前でやめた。それだけはどうしてもできなかった。
脳裏にアレンの顔がよみがえる。
『心の支えみたいなものかな』
照れたように笑っていた彼。
ディアナはそっと本を胸に抱く。心配げに寄り添ってくるリリアナのぬくもりが、今はただありがたかった。