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マンホール人

作者: 白浜 羊

いつから 我々はこうしてここにいるのか

誰も知らない 知ろうともしない

知はいつも 指の間からすり抜け 

生ぬるい 夏の夜気に

ゆるりと拡散してゆくのではなかったか


なぜ 我々はわれわれであるのか

誰も知らない 知ろうともしない

目を凝らせば 答えがあるとしても

瞳なしに どうして見ることができよう 

なぜ我らは光を与えられなかったのか


だが勘違いしてはならない

神を信じる者が 同時に悪魔を信じるように

我らには光が無く そして闇もない

希望がなく 絶望もない

ただ果てしなく 茫洋とした 

寂しさが 漂うだけなのだ





 一

 五木恵美子がその秘密に気付いたのはいつだっただろう。

 彼女は二ヶ月前、パートから帰宅途中、不注意により自宅前のマンホールに落ちた。

 工事中であったのか、運悪く蓋を空けていたマンホールは恵美子を飲み込み、恵美子は抵抗することも出来ず、体のあちこちを打ちながら暗闇に吸い込まれていった。

 マンホールの奥底へ体を打ち付けた恵美子の脳内には打ち身の痛みと絶望があった。しかし、じめじめした、虫と細菌に満ちた空間だと思っていたそこは、恵美子の想像とは全く違う世界だった。

 そう。世界といってもいいだろう。想像以上の生態系がそこにはあった。


 マンホールの下では、マンホール人達が暮らしていたのだ!



 二

 夫の帰宅はその日も夜遅かった。

 恵美子は夫の帰宅にあわせて味噌汁を暖め直し、保温ジャーに入った飯をよそった。

 夫の時たま見せる値踏みするような目線が恐ろしく、正面から顔を合わせることを避けるようになった恵美子は、いつしか盗み見るように夫の様子を見る癖がついた。


 恵美子は、夫は不幸せではないと思っている。

 かといって幸せなのかと訊かれるとそれは断言できないが、自分がこれだけ尽くしているのだから不幸せなはずがないという空しい予感で胸を一杯にしている。夫は夫で恵美子の愛を重く感じるよりは、無感動になる事で夫婦の危機を回避する事を選択し、恵美子は経済的に、夫は帰宅場所として、双方愛情を超えた共存関係を築いているのだ。こうして必要はいとも簡単に理想を超え、恵美子は無意識下で日常の強靱な普遍性に、只依存しているに他ならない。

 いつからこうであったのかなどはもう思い出せず、気が付いたらこうなっていたというのが一番正しい。

 もし子供がいたなら、恵美子は女ではなく母になれただろう。だが仮定とはあくまで仮定であり、恵美子にとっては路上に吐き捨てられたガムに等しい。

 恵美子の肌にもっと張りがあり、赤い頬をして瞳を輝かせていた頃、夫の髪がもっとライオンの様にフサフサとして、歯周病などとは縁のなかった頃には、また別の夫婦のあり方があった。

 夫が職場の若い女性社員の話をするとき、テレビで若い女性芸能人の笑顔に見とれ、それから恵美子の顔をちらりと見るとき、比較されているように感じるのは何故なのか。恵美子も薄々気付いていたが、真に恵美子の衰えを非難しているのは、夫の目線自体ではなく、その目線を痛く感じる己自身であるのだ。


 今、暗闇の中にいて、恵美子は平穏である。

 恵美子はすぐ側にある広い胸の匂いを嗅いだ。

マンホール人であるP太郎はくすぐったがるように笑い声を上げた。恵美子はP太郎の端整な鼻先に触れた。マンホール界はどこも薄暗く、P太郎の輪郭も、部屋の装飾も朧気にしか見えない。

 P太郎は目が見えなかった。

 P太郎だけではなく、マンホール界の住人は皆、盲目だった。洞窟に住む動物は視力を使う必要がない為、次第に目を退化させるというが、マンホール人の盲目も一種そのような進化なのだろう。洞窟のような壁はマンホール人が手をついて移動するため、磨かれたようにすべすべになっている。


 「もう帰らないと」


 時計の文字盤を光らせて時間を確認した恵美子は、P太郎の腕を離れた。マンホール界への出入り口となっているマンホールは恵美子の自宅前にあるものの、流石に夕飯を準備し始めなければならない時間だった。 


 「エミコ……」

 「また来るわ」


 P太郎に掴まれた腕をするりと抜けると、恵美子は地上に上がるための梯子に足をかけた。


 「エミコ。ここで暮らそう。ボクと一緒に」


 地上から漏れる電灯の明かりが、梯子に縋るP太郎の顔を淡く照らした。その思い詰めたような表情に心を打たれた恵美子は思わず、うん。そうだね。そうしようか。と返事をしていたのだった。



 三

 「恵美子」


 夫に話しかけられて恵美子は意識を引き戻された。慌てて手にしていた茶碗に飯をよそうと、夫に渡す。夫は一瞬不気味そうな顔をして恵美子を見たが、何も詮索はしなかった。

 こうした思考の中断、行動の放棄は恵美子の生活の至る所に出現した。だが、マンホール界ではそうではない。週末は夫が在宅している事が多いため、一日中P太郎に会えず、そんな日は特に、恵美子は縋るように回想に耽った。


 共に暮らすことを承諾すると、P太郎は大喜びでマンホール界の住人達に恵美子を紹介して回った。

 小さな洞窟のような部屋に住んでいるマンホール人達は皆親切で、恵美子を歓迎した。

 視力を持たないマンホール人達は恵美子の手を握り、清潔な乾いた手で恵美子の顔を触認した。

 当初、たるんだ皮膚や皺を確認されることを恐れた恵美子であったが、彼らはそれを問題にする素振りは全く見せなかった。マンホール人はざっと見ただけで五百人はいるだろうか。恵美子の所属する町内会の何倍もの規模を持つにも関わらず、嫉妬や陰口は存在せず、ヒエラルキーも存在しない。皆、親密である。


 「とても仲がよいのね」


 恵美子は感心した。


 「ボクたちは一つの共同体なんだ」


 P太郎は返事をした。


 「右手が左耳に反抗する事が無いように、ボクたちは皆それぞれ、等価値であり、ユナイトされているんだ」

 「素敵な考えだわ」


 恵美子は感銘を受けた。

 その夜、恵美子はP太郎の親友だというY助宅の晩餐に招待された。マンホール人はもやしのような白い野菜を主食としており、大抵はそれに何の肉か分からない淡泊な肉が付け合わせのようについた。地上の味覚に芯から染まっている恵美子は果たしてこれらの食事に慣れる事が出来るだろうかと心配したが、P太郎の笑顔や、Y助、その妻であるF美の歓待を受ける内にそのようなことはどうでも良くなっていった。


 「あなたのことをもっと知りたいわ」


 帰り際、F美は名残惜しげに恵美子の手を取って言った。


 「そんなに面白くないわよ。私」


 恵美子は呟いた。


 「謙遜は真実でなければ単なる嘘よ。面白いかどうかは私が決める事なの」


 F美は魅力的に微笑み、閉じた瞼の睫毛を震わせた。それを見て、F美は美しい女なのだと恵美子はぼんやり考えた。


 「知りたいわ。今地上がどうなっているのか。だいぶ時間が経っているもの。でも今日は駄目。それではまた、ね」


 F美の言葉にどこか違和感を覚えたが、F美に問うことも無く、恵美子はP太郎に促されるままにY助宅を後にした。


 地上に上がる梯子の前で、P太郎はいつものように恵美子を抱きすくめた。恵美子はP太郎の広い胸の中で、頭の芯がまるで口に含んだ氷片のように融解するのを感じた。マンホール界の濃緑の闇は、恵美子の口から吸い込まれ、肺を通じて全身に染み渡ると、よく効く水薬のように彼女を癒した。恵美子はP太郎を見上げた。P太郎の固く閉じた瞼の裏で、眼球が動くのが見えた。


 「あなたは美しいわ」


 恵美子に言われて、P太郎は困ったように笑った。


 「ウツクシイというのがどういうことか、ボクたちにはよく分からない。ウツクシイとは心地よいということ?」

 「そう……ね。それに近いわ」


 恵美子は戸惑いながら返事した。


 「それならば恵美子。キミもウツクシイ」


 恵美子は狼狽した。


 「キミと居るときボクは心地よい。それがウツクシイということだろう?」


***


 「恵美子!」


 大きな声で呼びかけられ、恵美子はまたしても夢想から引き戻された。何度も呼びかけられていたらしく、夫は怪訝な顔を恵美子に向けていた。夫が彼女に露骨な感情を向けるのは、最近では珍しいことだった。


 「最近ぼんやりしているぞ」

 「寝不足なのよ」


 恵美子は誤魔化した。だがそれは事実ではない。

 以前の不眠が嘘のように、最近は枕に頭を付けるやいなや、直ぐさま眠りに落ちる。それはまさしく『落ちる』という感覚で、恵美子は眠りに襲われるようだとすら思った。

 夫は納得がいかぬようで、顎をさすりながら唸っている。恵美子は何か落ち着かぬ心地で、昼食の皿を洗い続けた。


 「どうした。生理でも止まったか?」


 夫の追加した一言は恵美子を深く傷つけた。

 恵美子は食器を洗う手を止め、夫を見た。夫は特に返事を求めていなかったと見え、恵美子の様子に気を払うことも無く、新聞を読んでいる。

 確かにそういったことが起きてもおかしくない年齢だった。だが、現実はただ現実だということそれだけで、免罪符足り得るのだろうか。現実は確かにそこに存在するが、それをどう捉え、どう放つかは個人の選択に委ねられているのではなかったか。それとも自分は、その選択に悩む価値もない存在であるのだろうか。


 「あなた」


 恵美子は夫に声をかけた。夫は気のない返事をした。


 「あなた。わたしってきれいかしら」


 夫は新聞から顔を出し、ぎょっとした様子で恵美子を見た。恵美子は心の芯が冷えてゆくのを感じたが、体は反抗し、両目から熱い涙をぼたぼたとこぼした。


 「わたしきれいかしらね。あなたにとって」

 

 夫は心底うんざりし、疲れ果てた様な顔をすると、無言で部屋を後にした。

 恵美子は取り残されたリビングで暫くぼたぼたと涙をこぼしていたが、やがて全てのドアをそっと閉じると、ひとり家を出た。

 


 四

 恵美子はマンホール界を疾走していた。P太郎を探している。走り抜ける恵美子の風圧に驚いたマンホール人が何人か振り返った。

 恵美子は以前紹介されたことのあるJ太を見つけると、両肩をつかみ勢いよく訊ねた。


 「P太郎はどこ?」

 「Pちゃんなら〝光の間〟だよ」


 J太は少し怯えるように答えた。


 「光の間ってどこなの?」


 恵美子の問いに、J太は壁に手を這わせて位置を確認してからその方向を教えた。恵美子は分かったと告げた。


 「Pちゃんがどうかしたの?」


 J太は消え入りそうな声で聞いた。


 「わたしたち結婚するのよ」


 恵美子は悠然と答えると、J太が指した光の間の方角へ走った。遠く後方で、J太がおめでとうと叫んでいるのが聞こえた。

 

 〝光の間〟には、文字通り燦々と太陽光が降り注いでいた。


 到着した恵美子は、肩で息をしながらも、予想外の明るさに思わず目を瞬いた。P太郎は確かに光の間にいた。水泳用水着一枚で寝台に横たわり、白い肌を陽で炙っている。

 恵美子は毒気を抜かれた思いで、P太郎の寝台の横にへなへなと座り込んだ。目の前にあるP太郎の真っ直ぐな脚に貧弱な脛毛が生えているのが見えた。


 「眩しいだろう。ここは」


 P太郎は微笑んだ。恵美子は太陽の下で微笑むP太郎に、何か足下を掬われる心地がした。


 「あなた……光を感じるのね」

 「そうだよ」


 P太郎は軽く答えた。

 恵美子は白々と照らされるP太郎の顔を見た。

 普段暗闇で見つめる顔とはまるで別人だ。


 「定期的に光を浴びないと病気になってしまうからね。どうかしたの?」

 「わたしは……あなたに会いに来たのよ」


 それを聞くと、P太郎はきれいな歯並びを見せて笑った。


 「うれしいな」


 恵美子は何も喋ることが出来ず、口を噤んだ。

 そのとき、Y助とF美夫婦が壁に手をつきながら光の間へ入って来た。バスローブを脱ぐと、寝台に上がって日光を浴び始める。

 競泳水着姿のF美は伸びやかな肢体をしていた。大腿から腰にかけての線が水を弾くように若い。白髪の一本もない艶やかな黒髪は背中の中程までもあり、F美が身じろぎする度に、日光を反射してきらきらと輝いた。

 恵美子は思わず吸い寄せられるようにF美に近寄った。


 「以前地上にいたときは、日光なんてちっとも好きじゃなかったけど、今はね、こうするのはとても好き」


 F美は独り言のように呟いた。恵美子は黙ってF美が猫のように伸びをするのを、見ていた。


 「そこにいるのは恵美子さんね。足音で分かるわ」

 F美はささやいた。

 恵美子は只目を見開いてF美を見つめ続けた。F美は微笑んだ。


 「迷うこと無いわ。こちらの世界はとても気楽よ。自分が共同体の一部なのだと感じる。……自分もそうだったから、分かるわ。あなた、寂しいんでしょう」

 「そうよ」


 恵美子はかすれた声で答えた。F美は満足気に笑った。


 「F美さん。一つ聞いてもいい? ここで生まれた訳ではないのよね。……目をどうしたの。前から見えなかったの?」


 恵美子の問いにF美は妖艶に微笑んだ。隣のY助が身を強ばらせるのが分かった。


 「ここでは要らないもの」


 F美の答えに恵美子は後ずさりした。


 「見えなくしたのね……」


 恵美子は何かにぶつかった。振り返ると、P太郎がそこに立っていた。P太郎の悲しそうな顔を恵美子は初めて目にした。


 「エミコ。聞いてほしい。ボクたちはユナイトされていると言っただろう? この世界はとても狭い世界なんだ。諍いや差別があってはならない。そうした小さな事で、この世界は破綻するんだ。もちろんその元になるものも……」


 エミコは光に満たされた空間をぐるりと見渡して、小さく悲鳴を上げた。


 「その元になるものも、いらないんだ」

 「やめて……! そうよ、光はあるわ。あなたたちは生まれつき見えない訳ではないのね!」

 「眼球が痕跡器官となるには、時間が足りないよ。もちろんこのままいけば何千年か後にはそうなるだろうけどね」

 「なんて事なの。人為的に盲目にしているんだわ。みんな!! なぜなの……」

 「視力は必要以上の情報を与える。必要以上の情報は、諍いや差別を生むんだ。視力がない分ぼくらは助け合う。それが共同体の結びつきを高める。それにここは安全な土地だから、捕食者から逃げる必要もない」


 P太郎は恵美子を抱きしめた。


 「エミコ! 目で見えるものがそんなに大切かい? 本当に大事なのは――」


 P太郎は恵美子の手を自分の裸の胸にあてがった。


 「心だろう?」


 恵美子は余りに自分の鼓動が大きいので、心臓が耳元に移動したように感じた。掌からはP太郎の力強い鼓動も伝わってくる。どちらが自分の鼓動であるのか判別出来ず、彼女は混乱した。


 「わたしは後悔していないわ」


 F美が寝台からすっくと起き上がり言った。


 「恵美子さん。これは一種の進化よ。視力を捨てて私たちは他の能力を手に入れるの」


 彼女はそう言い放った。

 恵美子はF美の美しい体を見た。

 そしてその隣に立つP太郎の堂々とした体躯を見た。F美の隣には貧弱な体をしたY助が立っている。太陽の下で見たY助は想像以上に年を取っていた。ウズラの卵のようなしみの浮かんだ薄い胸と、弛んだ腹がそこにあった。

 恵美子は唇を噛みしめ、ゆらゆらと首を横に振った。


 「わたしには無理だわ」


 恵美子はそう呟くと、小走りで光の間を後にした。

 P太郎が自分の名を呼んだような気がしたが、振り返ることはなかった。



 五

 恵美子がリビングに入ると、夫が暗闇の中に座っていた。洗いかけの食器が水に浸かっているのが見えたが、恵美子はそれを無視してそっと夫の隣に腰を下ろした。

 キッチンから白熱灯の橙色の明かりが漏れていた。暫く二人は無言で座っていた。


 「遅かったな」


 夫が呟いた。恵美子は何も言わず頷いた。


 「……お茶を入れましょうか?」


 恵美子が聞くと


 「ありがとう」


 そう夫は答えた。


***


 明朝、恵美子が新聞を取りに玄関へ出ると、家の前のマンホールは、誰がそうしたのか、きっちりと蓋がはまっていた。

 恵美子はしゃがみ込んでマンホールの蓋に手を当ててみた。昇りたての太陽が、僅かな時間で暖めたのだろう。鉄で出来たマンホールの蓋は温かかった。


 彼女は目を閉じた。この下には、もはや何の世界もないということが、直感的に分かった。

 そこに驚きや後悔はなかった。


 ただ、安堵に似た感情が、朝の光と共に恵美子に染み渡った。


                 


 《 了 》

   


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