碧霄の午後茶
「兄様。今お時間頂けますか?」
その日の午後。私は園にある教所従事者の居住棟、ディン兄様に割り当てられた部屋のドアを叩いた。
兄様には皇都にファエラの屋敷があるのでここは殆んど資料庫と化しているのだけれど、それでもこの時間ならばここにいるだろうとあたりを付けてみたのだ。
「…誰だ?」
ややあってドアの向こうから低く籠った声が聞こえた。あれ、もしかして寝てたのだろうか。
「お休みのところ申し訳ありません、ハルドです。」
出直しますと言い切る前にドアが開く。現れた兄様は休日のためか普段よりラフな格好をしていたものの、それなりにきちんと整えられた服装だった。
はて、と私が内心首を傾げたのが判ったのだろうか。きまりが悪そうに苦笑いを浮かべて、いつの間にか眠っていたと言う。それはそれで珍しい。けれど確かに顔色はあまり良くなさそうだ。髪が青みの強い紫なせいで普段から顔色は悪そうに見えるのだけれど。
「…お忙しいのであれば、やはり、」
「いや、ちょうど切りが付いたところだ。入れ。」
…まあ、切りが付いたと言うのなら本当だろう。これが大丈夫だとか大したことじゃないとかだと信用ならない。
確認するように、じぃ、と澄んだ海のいろを覗き込んで、それにまた苦笑した兄様に促されるに従って部屋に足を踏み入れる。
中の様子に、なるほど確かに何か一仕事終えた後なのだと納得する。きっと昨日か、数時間前までは引っ張り出された資料と放り出された書付で混沌としていたのだろう。それが書付と資料で分けられ、さらに資料は種別に分けられてあとは片付けるだけの状態だった。
「あまり触るなよ。学生が見るものじゃない。」
ドアを閉めた兄様が言う。はいはいわかってますよー。と生返事をして紙束を手に取る。お茶淹れるからね、濡れたら大変だからね、退かさないといけないでしょう。仕方ない仕方な、い?
「…見るなよ?」
「…ミクロス・アステを提案したの、兄様なんですか?」
手にしたそれ。紐で括られた書付の一番上。何かの書類の下書きだったのだろう。表題は“星付き候補生としての処遇提案”。対象として挙がっているのはルミィのみ。
長く深く、兄様が息を吐くのが聞こえる。前記生徒の特殊性、監視を付けることが望ましい、成長の妨げにならないよう。紐と二重線でところどころ読めなくなっているけれど、そんな文章が書かれている。
「…ハルド。」
鋭く呼ばれ、反射的に顔を上げる。
「用があって来たのだろう。」
言外に話せと兄様は言う。
確かに話したいこと、というか聞きたいことがあって兄様を訪ねた。ルミィに対して何か思うところがあるのかとか、何か企んでる事があったりしないかとか、それとなく訊いてみようと思っていたのだ。ルミィを安心させる材料になればと、警戒を緩められる何かを見付けられないかと。けれど、これは。
「…将来の事を、」
これからの自分の身の振り方を考えたいと、乞うて兄様自身のビジョンを話してもらおうと思っていた。そこからゲームとの相違を見付けようと思っていた。これは、どちらなんだろう。何のために兄様は、
「…ルミィ・エディスの差し金か。」
苦々しげに、吐き捨てられたとすら言えるその言葉に、え、と声が漏れる。呆れた様な、苛立っている様な、舌打ちを我慢している様な顔で、とりあえず座れと兄様が言う。
言った本人がさっさと座ってしまうから、私もおずおずと手近な椅子に腰を下ろす。
あ、オレンジティー準備してないや。持ってきたケトルも冷めない魔法がかかっているから、時折ことことと身震いしている。
「何を言われた。」
確信だった。確認でもなく疑問でもなく、まして鎌をかけているのでもなく。いっそ宣言と言っても良かった。これから日が沈むと告げる様な、淡々としていてかつ確固たる自信の映り込むような声。
「言われて来たのでは、ありません。」
「…ほう?」
「私は、ただ、」
どこまで言うべきだろうか。すべてを話してもいいのだろうか。ルミィが疑っている以上、彼女の不利益になるだろうか。
口を開く。ことと、とケトルが首を振る。やっぱり駄目か。兄様がもう一度深く溜め息を吐く。
「ルミィ・エディスには、未来視、もしくは予知夢能力を有している疑いがかかっている。」
そんな、と。私の吐き出した息は、声帯を震わせることなく外へ消えていった。
今でない時間を見ることが出来るという魔術師は、実はそんなに珍しくない。個性のひとつとして受け入れられる程度には存在する。けれど、ではその能力を持つことが何の問題でもない事かというと、そうではないのだ。
己の見ているものが、今なのか、過去なのか、未来なのか。目の前で起こっているものなのか、起こった事なのか、起こり得る事なのか。どこか別の場所の出来事なのか。どのくらい前の事なのか、先の事なのか。最初からその見分けが付いている者は居ないと言っていいのだ。
その能力は先天的なものがほとんどで、だからそれを持つ者たちは自身がそうだと気付きにくい。彼らにとっては最初からそういうもので、皆同じように見えているのだと当然に考えているのだ。成長していくにつれ、他の者とのズレを感じ取る様になり、また周囲の者も彼がそうだと気付く。
けれど。彼らの中には、自分が見ているものと、自分だけが見えているものの区別が付かないまま年を重ねる者もいる。言葉を選ばずに言えば、夢と現実がごっちゃになってしまうのだ。
それでなくとも良い方向にも悪い方向にも計り知れないほどの有用性があるのだ。己に何が見えているのか、その特殊性を理解できなくなってしまった者は、あまりにも容易く、そして何にでも利用できる。或いは、己の見えたものに振り回され、予想だにしない悲劇を引き起こす。
故に、彼らは保護される。己の特殊性を理解させ、彼に何が見えているのかを我々が知るために。素直に応じ、理解するならそれで良し。保護は短期間で解かれ、それまで通りの生活に戻ることが出来る。
しかし、己の特殊性を理解できず拒み続けるならば。不発弾を未処理で市街に放り出すことなどしないように。就寝起床は管理され、一日中監視が付く。
なんで私がこんなこと知っているかというと、我がグレイスコール家が“夜”の分家、“静”を担う家だからだ。封印、収監、秩序の調定。まあ要するに警察みたいな役割だ。閑話休題。
話はルミィに戻る。彼女はそういった能力保有者ではない。彼女はそれを見ているのではなく覚えているのだから。真名に誓ってそう宣言したのだから、それは間違いない。
けれど、周囲は。何も知らない者たちからすれば。
「…最初は俺も気のせいだと思った。」
例えば。人当たりも良く社交的な彼女が、どうしても何をしても誘いに乗らなかったとき。誘われていた先の夜会では必ずと言っていいほど何かしらの騒ぎが起きた。
彼女が普段見向きもしないような事柄に、大げさなまでに興味を示して誰かを熱心に誘っていたその数日後。彼女の誘いを受けた者が参加するはずだった集まりで、あわや惨事となりかける事件が起きた。
そういう、振り返ってみれば彼女が常とは違う行動をしていた、という事実。
「ここ数年で起きた事件の全てじゃない。だが、ルミィ・エディスの周囲だけで見ればその確率は異常だ。」
それでも今まではっきりと監視下に置かれなかったのは、ルミィの言動が常識的で模範的であったからだと、兄様は言う。
「彼女が彼女なりに未来視と折り合いが付けられているのなら、それで良いのではないかというのが所長の判断だった。幸いにもここは全寮制で、ある意味では就寝から起床まで監視されているようなものだからな。」
「…では、」
ではなぜ。今になって枷をはめる様な事をするのか。問うた私に兄様は悲しげに目を伏せる。
「未来視によると思われる事項を除いても、ルミィ・エディスは優秀だった。優秀だったが、それだけだったんだ。それが、そうじゃなくなったからだ。」




