頬と手と取り付く島
兄様が目を覚ましたと、図ったようなタイミングで聞かされたのは、翌日の起きてすぐだった。
「ほんと…?」
「ええ、今朝方目を覚ましたと奥様からお聞きしました。」
「い、ま、会いに行ってもいい…?」
みっともなくも震える手でメイアにすがれば、彼女は緩く首を振る。
「朝食の後にいたしましょう。ディン様にも支度がありますから。」
「兄様、朝食には…?」
「伺っておりませんね…おそらくお部屋で済まされるかと。」
「そ、か。」
落ち着こうと意識して吐いた息すら震えていた。目を覚ました。良かった。しななかった。
母様たちへの説得なんてもうとっくに思考の隅どころか外へ追いやられていた。会いたい。声が聞きたい。それでいっぱいだった。だから朝食のメニューなんて覚えていないし、なんなら本当に食べたのかすら曖昧な始末だった。
私ほどではないにせよ、ルカも同じ思いだったらしく。二人そろって言葉もなく一目散に兄様の部屋に向かっていくのを、父様も母様も呆れた様な微笑ましいような、それでいて痛ましいような顔で見送っていたとメイアから聞くのは、それからだいぶ後のことなのだけれど。
「し、失礼しますルナです、入っても、良いでしょうか?」
はやる気持ちを抑えて、急く手を握りしめて言う。さすがに、怪我人の部屋に飛び込んではいけない、という常識を放り投げるようなことはしなかった自分偉いと思う。
ややあって、扉が開かれる。ついこの間見た風景と変わらない兄様の部屋。ただ一つ、違っていたのは、兄様が起き上がっていたということ。
「にい、さま、」
吐いた息がかろうじて音を紡いだようだった。私のかルカのかわからないけれど、それは確かに兄様に届いたようで、こちらに向かって淡く笑むと、
「…おはよう、ルナ、ルカ。」
こういう時って、こう、感極まってうわーって、走り寄って行くものかと思っていたけれど、私もルカも、関節の錆びついた人形みたいにひどくおぼつかない足取りで、じりじりと兄様の座るベッドへ近づいて行った。
兄様を覆っていた包帯はもうほとんど取り払われていた。右目は前髪で覆われていて、どうなっているのかは判らない。そばに寄った私達を、きっと兄様は撫でてくれようとしたのだろう。けれど持ち上げられたその右手が、こつりとルカの頬にあたって。
「、あ、」
目を見張る兄様。右目が見えていないことは、明白だった。まだうまく体が動かせないのですよ、とそばについていた使用人がフォローを入れて、ルカも何も言わなかった。
そうしてもう一度、そうっと動かされた右手は、ぽん、ぽん、とルカと私の頭を撫でて。私はありがとうと言っていいのか、ごめんなさいと言うべきなのか、判らなくなってしまって、それでも嬉しくて、けれどやっぱり罪悪感みたいなものもあって、そういうのが全部、涙になって溢れた。ルカも吐く息が震えていたから、きっとそうなんだと思う。
「…ルナ、ケガは?」
そっと落とされた声に、ぐずぐずの涙声で否と返す。兄様はそれに、そうか、と。本当に心底安心したように息を吐くから。ちゃんと守れたと、微かに震える声でそう言うから。
「に、さま、ごめんなさ、ごめんなさい、ありがとう、しな、なくて、よかったぁ…!」
恥もプライドも無く、みっともなくわあわあと泣き喚くことになった。つられてルカが声を上げて泣き始める。とうとう耐え切れなくなったのか、兄様まで泣き出して。よかったと、ごめんなさいと、ありがとうと。文章にもならないそれらを、ただただ繰り返して、訳が分からないくらい泣いた。
それが落ち着いた頃を見計らって、私達は部屋から出された。まあ当然ですよねすみませんお騒がせしました…
「…兄様、起きてた。」
「うん。」
「でも、右目、見えてなかった。」
「うん。キズ、僕少し見えた。」
「本当?!」
「…痛そうだった。」
「じゃあ、やっぱり、」
兄様を治してくれる人を探さないと。どうしたらいいだろう?
何か、別の条件を持ってきて、それを交換条件にしてもらうか。けれど、グレイスコール公爵家の存続と引き合いに出せる何かなんて、私が用意できるのだろうか?誰かグレイスコールにとって都合のいい相手に嫁ぐ?それではますます権力がこちらに傾くのでは?いや、ピンクドラウト側の家との橋渡しになればあるいは?でも私にはそんな伝手なんて無い。子供の思い付き発言では取り合ってもらえないだろう。
自分で入所するのを諦めて、ルカに探してもらう?それもアリかもしれない。でも、“彼”の事をどう伝えよう?不自然の無いように伝えるとするならば、ルカに莫大な時間を無駄に消費させることになる。それは駄目だ。ではすべてを話す?きっとルカなら信じてくれる。でも、入所の時点では“彼”はその能力を開花させ切れていないのだ。そこに至るまでをルカに手伝わせる?そんな私の都合に、ルカの時間を使わせる?
やっぱり駄目だ。私がやらなければ。私が行動しなければ。そうでなければ本当に子どもの駄々になってしまう。それだけは駄目だ。
「…私が、私だから、」
私が“ハルディナ・グレイスコール”だから、入所は認められない。と、言うの、ならば。ならば。
「私が、ルナじゃなければ。」
それは叶うのだろうか。




