冷めたココアと冷えた心
息苦しい沈黙の残された食事の間で、すっかり冷めてしまったココアを飲む。どうにもうまく気が回らないみたいだ。自分の事ばかりで、目の前のことばかりで、ほかの事に目がいかない。
…でも、仕方ないじゃないか。こんな状況、初めてなんだから。そりゃあ、前の自分でも、誰かを傷つけてしまうことはあった。けれど、それは肉体的な話ではなくて。それが、目の前で、自分のせいで、大切に思っている人が血を流していて。しかもその人は、そんな怪我をする必要は、実はなくて。
一口ずつ、半ば機械的に飲んでいたココアはまだマグに半分ほど残っている。けれど、もうそれ以上飲もうとは思えなかった。
「…母様、部屋に戻ります。」
そう言ってマグを手放せば、絶妙のタイミングで椅子が引かれる。母様は何も言わなかった。
何を考えるともなしに体の動くままに任せて、自室へ向かっているはずだった。けれど、気づけば兄様の部屋の前に来ていて。
見たくないのに、向き合いたくないのに、手は扉を開けていて、メイアは何も言わなくて。ふらりと部屋へ踏み込めば、屋敷の使用人が一人ベッドの傍に立っていた。灰色を使った制服に、タイには緑色のブローチ。母様付の使用人の一人だ。その人は私を認めると、自然な動作で壁際へ寄る。それに促されるようにベッドサイドに寄って、兄様の顔をそうっと覗き込む。
青白い肌、紫紺の髪。出会った頃を思い出したからだろうか。今は閉じられているその眼がどんよりと曇っているのではないかと、ぞっと背筋に冷たいものが伝った。その眼もとに隈はなく、頬もふっくらとして、華奢なのには変わりないけれど、決して不健康そうな印象を与えることはもうなくなったというのに。それを確かめるように、恐る恐る兄様の頬に触れる。
「…早く目を覚まして、その眼を見せて…」
そして馬鹿なことをした私を叱ってください。心の中でそっと付け足して、身を引く。漫画とかアニメとか、こういうタイミングで目を覚ます演出って多いけれど、現実はそうもいかないらしい。使用人に兄様をお願いしますと声をかけて、今度こそ自室に戻る。
戻ってみればそこは、つい数時間前にそこで爆発が起きたなんて誰も思わないほど完璧に修復されていた。家具や調度品すべて丸っと新品になっていることを除けば、何の変化もない今までの私の部屋だった。
「ディン様が被害をこの部屋のみに抑えてくださいましたから、これだけ早く整えることができたのですよ。」
ぽかん、と。口を開けることまではしないものの、呆気にとられる。部屋ならば、こうも簡単に直せるのか。兄様には消えない傷が残ったのに。部屋なんかより、兄様が治った方が嬉しいのに。
ふらふらとソファに近付く。手触りに少しの違和感を覚える、それでも間違いなくお気に入りのクッションをぎゅうと抱き寄せて、行儀悪くもそのままソファにダイブする。メイアがそっと近付いて来て、靴を脱がせてくれるのが分かった。それにお礼を言うことすらせず、膝を引き寄せて丸まる。新品のクッションは吸水性が悪くて困る。ぐっと目を瞑って、次に目を開けた時にはベッドの上だった。
「…あれ、」
窓からはうっすらと光が差し込んでいる。…夜明け、だろうか?いつの間に寝ていたのだろう。ひどく頭が重い。体も、重い。それでいてどこかふわふわしているような、よくわからない感覚。
夢だろうか。あまりにいつもと変わらない景色に、さっきまでの…少なくとも私の中ではさっき起きた出来事で…それが本当に起きたことなのだろうか、なんて考えがゆらりと脳裏に翻る。無意識に引き寄せたクッションが、現実だよと無慈悲に教えてくれる。指先で撫でればざらりと無愛想に応えられる。寝ながら泣いていたのか。やだなぁ。
のっそりと体を起こして、ああ、それだけがこんなにも怠いってどれだけ寝ていたのだか…徐々に強くなっていく光を、白んでいく空を見るともなしに見ていると、やがてドアが三回、ノックされる。視線だけそちらにやれば、相手も返事があると思っていなかったのか、そっとドアが開けられる。
「まあ、お嬢様、御目覚めでしたのね。」
その向こうにいたメイアと目が合うと、彼女はぱっと目を見開いて、次いでやんわりと笑む。ほうっと安堵の息が吐き出されるのを見て、やっぱりそんなに長い事寝ていたのだろうかとわずかに首を傾げる。
「お呼びくだされば、いつだって参りましたのに。」
「…メイア、私、どれくらい寝てた…?」
「ほんの半日ほどでございますよ。張りつめていた気が緩んでしまったのでしょうね。」
「…そう。」
手を引かれるままにメイアに向き直り、蒸しタオルで顔を、手を、髪を拭かれるに任せる。湯あみの準備をいたしましょうかと問われ、うんと吐息とも返事ともつかないそれを、彼女は正確にくみ取ってにこりと笑む。ではこちらへ、と淀み無く導かれ、聞くまでもなく準備を済ませていたのだろうなと、頭の片隅で思う。
浴室に移動して、されるがまま体を洗ってもらい、いくらかさっぱりした気分で朝食へ向かう。食事の間には当然ながらディン兄様はいない。まだ目が覚めないのか、覚めても起き上がるのは難しいのか。
うわの空で進める食事は、今日は何の味もしなかった。今日は部屋でゆっくりしていなさいと、父様が言うのがかろうじて聞き取れたから、はいと返事をしたつもりだった。心配そうに揺れる父様の目と合ったから、きっと失敗したのだろう。ルカは相変わらずむすっとしたままだったけど、私にはどうしようもない。
早々に切り上げて自室に引っ込む。何故だかひどく、すべてが億劫だった。
「ルナお嬢様、お客様でございます。」
メイアがそう言ってきたのは、お昼前のこと。
誰かと合う約束なんてあっただろうか。それともメイアが言っていたのを聞いていなかっただけだろうか。けれど、それならメイアが何も準備させないなんてことはないだろうし、だとすれば、急な来訪なのだろうか。その割には慌てた様子もないけれど。
「…わかった。」
身をうずめていたソファから立ち上がる。身づくろいをしないとと思っているうちにドアが開けられ、その先にはメイアと、もう一人。
「イメラ様がお出でになっておられます。ひどく急いておられましたので、直接お連れしました。」
一歩、メイアがずれればそこに居たのは見間違いようもなく、つい数日前に喧嘩したイメラ・エザフォスティマだった。
「…え、」
どうしてそうなるの。