主と侍女
…それから、どうしたのだったっけ。思い出せない。けれど、その日から、少しずつ、兄様との距離が縮まって行って。気付いたらルカまで兄様、なんて呼んでいて。絶対にイヤなんじゃなかったの、なんて笑っているうちに、ルカと兄様がどんどん仲良くなっていって。それがどうにも気に入らなくて、ルカにきつく当たるようになったのだっけ。その頃には、兄様はすっかり“兄”で、ちゃんと私にも気を配ってくれて、でも、じゃあ、
「……ったのかな。」
どうやら、口に出ていたらしい。ずっとそばで…何度も戻っていいと言ったのに、ずっとそばに控えていたメイアが、そっと声をかけてくる。
「お嬢様?」
「私が“兄様”って、呼ばなかったらよかったのかな。兄様と、仲良くなろうとしなかったら、そうすれば、兄様は私を庇わなかったかな。」
「なんてことを…!」
「そしたら、兄様はこんな、負わなくていい怪我をしなくて済んだのかな。しんでしまうかもしれない、痛い思いをしなくて、済んだのかな。」
ぐにゃりと、目の前の木製の扉が歪む。違う、歪んだのは私の視界の方だ。泣くな、これ以上。辛いのも苦しいのも兄様の方なのに、私が泣くな。なにより、今になって“自分のせいで生死の縁を彷徨うディン兄様”以上に“ディン兄様に生死の縁を彷徨わせている自分”を案じている私に、泣いて労わられる資格はない。
この、木の扉の向こう。兄様の私室に兄様が運ばれてから、どれくらい時間が経っただろう。1時間か、2時間か、もっと短いかもしれない。
母様が部屋に来て、兄様を抱え上げて、その後を慌てて追って、治療の邪魔になるからと部屋を追い出されて、部屋に来るかというルカを断って、せめて座ってくださいと言うメイアを無視し続けて、ディン兄様と出会った頃なんか思い返して、ようやく、自分が他者を生きるか死ぬかの瀬戸際に追いやった自覚が湧いて。それでも母様は出てこない。もしかしたら、もしかしたらと悪い方向にばかり思考が流れる。
「…お嬢様、薄情を承知で申し上げます。」
こんな時でもメイアの声は柔らかくしっかりと響く。この声を気に入って母様はメイアを私に付けたのだけれど、それが今だけは煩わしかった。
「…なに。」
「私は、ルナお嬢様がお怪我を召されずにいらっしゃることが、何よりも喜ばしく感じます。例えディン様が大怪我を負われようと、ルナお嬢様がご無事であればそれで良いとすら考えます。」
「…なにを言ってるの。」
あまりに淀み無く言い切られ、面食らう。普段からは考えられないような、自分勝手ともいえる発言。とてもメイアの口から発せられたとは思えないような、それら。
「ルナお嬢様はあまりにご自分を軽んじられる。いつもどこか一歩引いて、離れて物を見ていらっしゃる。周りの大人たちからすれば、それは賢さと見えるでしょう。しかし、私にはそのようには見られませんでした。ですから、ルカ坊ちゃまに対して、八つ当たりのように接し始めたとき、私は安心したのです。」
自分の快適のためにと言いつつ、家としての安定を第一に考え、子供らしい方法でそれを実行する。公爵令嬢としては、なるほど申し分ない働きと言って差し支えない。けれどそれは“働き”なのだ。子供らしさをどこかへ忘れてきてしまったような私と、私につられるように子供らしさが早々に抜け落ちてしまった双子の片割れに、メイアもマイラも漠然とした不安を感じていたという。
それが、ディン兄様という存在を介して、年相応に拗ねてみたり、甘えてみたり、仲違いをしてみたり。もちろん度が過ぎれば諌めるつもりではいたが、なるべくしたいようにさせようと思ったのだと。
「ですから、そう言った点ではディン様には大いに感謝しております。この度の件でも、ルナお嬢様に怪我ひとつ負わせることなく庇いきったことを賞賛こそすれ、その怪我を嘆く気持ちは持ち合わせておりません。」
「でも、じゃあ、メイアはディン兄様が死んでしまってもいいと、言うの…?!」
「いいえ、そのようなことは全く申しません。ディン様が亡くなられては、お嬢様はもちろんのこと、ルカ坊ちゃままで深く傷付かれます。それは最も避けねばならない事態でございます。ですからマイラもあれほど焦っていたのですよ。」
にこりと。いつもの笑みを湛えて、メイアは言う。己の主人がなによりも第一なのだと、物怖じせずに言う。
「お嬢様は特に、ご自分に関心が薄くいらっしゃる。近頃は良い方向へ向かれていたと思っておりましたが…イメラ様の一件でまた、戻ってしまわれた…いえ、以前にもまして、身を引いてしまわれた。ですから、私は決めました。お嬢様が引かれる分、私が近寄ろうと。」
旦那様にも、奥様にもお許しは得ていますと、メイアはなお笑む。…それは忠誠心と言ってしまっていいのだろうか。いくらか重い気がしたけれど、確かに私には、重いくらいでちょうどいいのかも知れない。どうやったって私が異分子なのは変わらないし、変えられない。前世の記憶を、癖ごとすっかり消してしまえるのなら、あるいは可能なのかもしれないけれど、そうした場合、残るものは果たしてあるのだろうか。そんなどこか地に足の着ききらない私には、つなぎ止める重しが必要なのかもしれない。
「…ありがとう、メイア。」
「…お言葉、有難く頂戴いたします。」
わずかに驚いて腰を折ったメイアは、どうやらそれが普通でないという自覚があるようだった。なら、まあ、大きな問題もないだろう。
「では、お嬢様、一度お茶をお入れいたしましょう。お部屋は今専門の者が修復にあたっておりますので、食事の間で。もう1時間ほど立ったままでございますよ。」
今度こそ有無を言わさないような色をにじませて、メイアが言う。それでも私は首を横に振った。これは私のわがままでここに立っているのだから、この扉が開くまではここから動くつもりはなかった。
しばし無言で見つめ合い、折れたのはメイア。わかりましたと、彼女もまた、2歩離れて背筋を伸ばし待機の姿勢をとった。
母様と顔を合わせたのは、それからまたいくらか経っての事だった。