兄様の話
それからというものの、ルカの手を引っ張ってはディン兄様のいる部屋へ行き、二人で絵本を読んだり、絵を描いたりして過ごした。兄様が家の外へ行ってしまったらもうどうしようもないと思っていたけれど、幸いにしてそんな事態は起こらなかった。
そうしてまた三日が過ぎ、五日が過ぎ、一週間が過ぎた頃。
「…なあ、」
窓の外を見たまま、兄様が話しかけてきてくれた。その日は兄様はいくつかある客間のうち、お庭の見える部屋で、窓辺に座って本を読んでいて。私たちは入り口近くのソファに座って、少し難しい絵本を読んでいたところだった。
本当は飛び上がって喜びたかったけれど、兄様は騒がしいのが嫌いだってもう解っているから、黙って待つ。ルカはやっぱり不本意、と言いだしそうな顔だったけど、同じく黙って待っていた。
「俺自身も、まだ…実感、ないんだ。信じたくない、そんなわけあるかって…だから、何もしたくなかった。何か変わってしまったら…それが本当だって、認めることになる気がして。けど、でも…それでも、いいか。話しても。」
言葉を選ぶように、探すように。ゆっくりと歯切れ悪く、どこかすがる様な響きを持って。どこか諦めた様な音で。それでも私は嬉しかった。話しかけてくれた。世界を閉じてしまわなかった。目を、背けないでくれた。それがただ嬉しくて、にこにこしながら待つ。
「俺の…俺は、ディン・ファエラ。ファエラ家…知ってるか。」
問われたそれに、けれど私は答えを持っていなかった。困ってルカを見れば、
「侯爵家のひとつ。ここ2、3代はあまりいい噂を聞かない家。」
むすっとしたまま、それだけ言う。
「ルカ、知ってたの?」
「調べた。でも、父様に止められて、それだけしか知らない。」
読める本も少なかったし、と本当に悔しそうにルカが言う。…だから、兄様に話しかけたのかな。仲良くしようと思ったわけじゃなさそうなのが、少し残念。
「それだけ知っていれば十分だ。ファエラの名が輝いていたのはもうずいぶんと昔のことで…当主も、前当主も、それを取り戻そうと…間違った方向に、手を…かけた。」
お腹の底から追い出すように深く、兄様は息を吐くと、持ってた本を机に置いて、ゆっくりと、私たちの方を見る。
「俺には、兄姉が3人いる。全員…母親が違う。長男は正妻の子。跡を継ぐため…厳しく育てられていた。長女は、第二妻の子。繋がりを作るため…大事に育てられていた。次女は、妾の子。病弱で…母親も、出産後間もなく、死んだ。次男が、俺。次女を生んだ妾の…妹の子。俺が、あいつらの求めた通りの…存在、だったから、子供は俺で終わり。次女でもよかったけど…いつまで生きていられるか判らなかったから。ファエラは…そんな家だ。」
壊れてるだろ?兄様は笑う。ひきつった口元で、下がった眉で、さも愉快だと言わんばかりに、笑う。
「俺は大事に…丁寧に、育てられた。でも、俺を人として扱ってくれたのは、姉様…次女の、姉様だけだった。今日が終わるのが恐ろしくて、明日が来るのが忌々しかったあの家で…姉様のいる、あの部屋でだけ、俺は…俺でいられた。」
「…それが、無くなったのが“かなしいこと”?」
虚ろに笑う兄様に、眉を寄せたままルカが問う。兄様はそれに気を害した様子はなく、ことりと首を傾げた。
「かなしいこと?」
「…ルナが、言ったんだよ。貴方は、かなしいことがあったから、暗くなって当然だって。」
ルカは憮然とそういうけれど、ええ、今それを言っちゃうの。少し恨めし気にルカを見るけれど、ルカはどこ吹く風。兄様も特に気にしてはいないみたいだからよかったけれど。
「かなしい、か…悲しい、そうだな。ファエラ家は、屋敷ごと、そこにいた全員…全員、全部、無くなったんだ。壊れて、吹き飛んで、全部。当主も、正妻も、第二妻も、その子たちも、使用人も…姉様も。残ったのは、俺ひとり。あんな家、あんなやつら、無くなったって何とも…いや、清々した、んだろうな。けど、姉様と、あの部屋が無くなったのは…悲しい、な。」
どこか遠くを見ているような虚ろな笑みは、唐突に掻き消える。さあっと、幕が引かれたように、あるいは閉じたように。一瞬で感情の無くなった顔は、私の背筋を凍らせた。それはルカも同じだったみたいで、無意識に、私たちは手を握り合っていた。
「悲しい、ああ、悲しかったんだ。悲しかったんだよ、俺は。でも…それだけじゃなかった…恨めしかった、羨ましかった、姉様が…あれだけ俺に生きる楽しさを話しておいて、散々俺を励ましておいて…裏切られた気がしたんだ。姉様が出歩けるようになったら、俺が魔法を使えるようになったら、約束したこと、全部…!」
初めて、兄様と目が合った。そう思った。淀んだ海の向こう側に、息を呑むほど悲しく美しい感情の渦が見えるようだった。
「あの家を壊したのは姉様だ。姉様が全部壊してなくしたんだ、自分ごと、なにもかも、全部!」
置いて行かれた、自分だけ逃げた。そうは思いたくなかった、けれど、そう思わずにはいられなかった。だからせめて、認めたくなかった。あの思い出を、自ら黒く塗りつぶすような、それだけはしたくなかった。
そう絞り出された言葉と共に、涙が、兄様の頬を伝う。海からあふれた涙は、きっと、私のよりもずっとしょっぱいのだろうな、なんて思った。