切欠の話
「ディン兄様、お早うございます。」
「ディン兄様、お好きなものはありますか?」
「ディン兄様、ご一緒におやつはいかがですか?」
「ディン兄様、そのお洋服は中央魔術園の制服だと聞きました。兄様は園に通っていらっしゃるのですか?」
「ディン兄様、夜の女神が貴方に安らぎをもたらしますように。」
「ディン兄様、御庭を見に行きませんか?」
「ディン兄様、なんのご本を読んでいるのですか?」
あれから三日経ち、五日経ち、一週間が経った。毎日兄様を見かけては話しかけているけれど、結果は惨敗。挨拶には視線を寄越すだけ、質問には返答無し、お誘いにはごく短く拒否の返答。さすがに心が折れそうになるけれど、ここまでくれば意地でも話しかけ続けてやろうと、決意も新たに今日も話しかける。
「ディン兄さ、」
「いい加減にしてくれ。」
返答があった。まずそのことに嬉しくなって、けれど、次いで寄越された視線にたじろぐ。簡単に言えば、にらまれたのだ。
「当主様から言われているからか知らないが、毎日代わる代わる話しかけてこないでくれ。俺だって当主様から程々に相手をしてやるように言われているが、いい加減鬱陶しいんだよ。」
吐き捨てるように言われた言葉。けれど、その中に引っ掛かるものがあった。
「代わる代わる?ルカも話しかけていたのですか?」
「…お前たち共謀していたんじゃなかったのか。」
じろり、まさしくそんな風に睨まれたものの、二回目だからそんなに驚かない。それより、ルカが仲良くしようとしていたことが驚きだった。なんだかんだ言って、ルカも兄様が気になってるじゃない。最初からそう言ってくれれば、もっとやりようがあったのになぁ。
「…とにかく、もうこれ以上俺に構うな。当主様には俺から言っておく。いいな。」
眉根を寄せて、心底嫌そうに、兄様は言う。でも、
「それは駄目だよ。」
それには頷けない。
「このまま誰とも関わらずにいたら、貴方の心は死んでしまう。例え貴方がそれを良しとしても、私はそれを許さない。」
「何を、」
「ルカも貴方と関わろうとしている。その努力を無駄にすることは許さない。」
ディン兄様の目を見て、言い切る。
「父様が決めた以上、この家にいる以上、貴方はグレイスコールの一員です。グレイスコールの一員が、死んだように息だけをしているなど、私には耐えられない。ここは“うち”です。ここは世界のどこよりも安全でなければならない。世界のどこよりも安心できる場所でなければならない。何を憂うこともなく夜眠れて、朝起きることに何の疑問も抱かない場所でなければならない。」
「勝手なことを…!そんな場所、あるわけがない!」
きっと兄様は泣きそうな顔をしていた。でも、今はそんなこと関係ない。これだけは譲ってはならないことだから。これだけはずっと前から、ずっと昔から決めてきたことだから。
「だから今こうして整えているじゃないですか。」
そう言うと、兄様はなぜか押し黙った。その眼には、わずかに恐怖がちらついている。あれ、変だなぁ。そんなに怖がらなくてもいいのに。仲良くしようよって、伝わってないのかな。
「…兄様にも、そんな場所だって、思ってほしいからこうしているのですよ?」
ことりと首を傾げれば、どうやらそれは間違った行動だったようで、兄様がぎり、と手を握りしめたのが判った。
「何も知らないくせに…!」
絞り出されたような声だった。それにまったく恐怖を感じなかったのは、それが紛れもない本心からの言葉だと解ったから。初めて、心を見せてくれたと解ったから。
「では、教えてください。もうしつこく話しかけたりはしません。私は居たいときに兄様の近くに居ますから、兄様が話したくなったら、お話ししてください。」
ルカにもそう伝えます、そう言ってにっこり笑って見せれば、兄様はひどく驚いたような顔になって、それから、少し泣きそうな顔になって、結局、体ごと顔を背けてしまった。
ううん、これも間違ったかなぁ?でもこれでだめだったらもう打つ手がないんだけれど…
「…なんなんだ、お前は…」
どうしようか、と思考をさ迷わせていたところに、ぽつりと、兄様が呟いたのが聞こえた。お前、って、私の事だよね。ということは今、兄様に話しかけられた?
「ルナ・グレイスコールともうします、兄様!」
つい嬉しくなって、弾んだ声で返す。兄様はもう一度手を固く握って、そのままどこかへ行ってしまったけれど、きっとこれで一歩前進した、と思った。