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魔法使いの話

常山尋はやるきなし

作者: どらぽんず

 月曜日。

 それは憂鬱な日だ。世間ではブルーマンデーなんて言葉もある。なにせ、平日の頭だ。仕事は始まるし、学校だって始まる。休日と平日の境を越えた最初の日なのだ。どうしたって気分があがらない人間はいるだろう。。

 常山尋もそんな人間の一人である。

 職業学生。高校生。第一学年。今年入学したての、ぴっかぴかのいちねんせい、だ。

 背中を曲げて、うげぇと言わんばかりに嫌っそうに表情を歪めながら、亀のようにのろのろと歩くその姿は新入生という言葉よりもうだつの上がらないおっさんみたいな雰囲気になっているが。

「ちくしょう、夏休みが遠い」

 ちなみに時は四月の終わり頃。入学式が終わってから二週間程度しか経っていない。

 にも関わらず、高校生の夏休みが待ち遠しいという発言をしているあたりで常山の勉学に対する姿勢が知れるというものだろう。

 常山は陰鬱な雰囲気を漂わせながらただ歩く。

 常山にとっての学校とは、ただ通うだけの場所だ。だってこの国はどんな言い訳をしようとも学歴という言葉に弱いままで、だからこそ高校、大学と卒業をした方が都合もいい。だから通う必要があって、こうして登校風景の一部に紛れ込んでいる。

 とは言え、他人との関わりあいが煩わしいと、ほんのわずかにでも思ってしまう人間にとって学校というのは本当に面倒な場所だ。

 というより純然たるヒト嫌いな常山にとっては、仮面を被るだけでも一苦労だ。

「おはようございまーす」

 校門脇に立っている挨拶係――生徒会だか風紀委員だかが登校中の生徒に向かって声をかけるあれだ――が声をあげている。

 常山の今居る場所からは、校門前に立っている人影などまだ精細にかけてぼやける程度にしか見えないというのに、声だけはいやにはっきり聞こえている。どれだけ大きな声を出しているのだろうか。

 早朝から迷惑な。近隣から署名集めればとめられないかなぁどうかなぁ。

「はいはいおはようおはよう」

 余計なことを考える頭に阿呆かとセルフツッコミを入れつつ、寝起き頭にはただ鬱陶しいだけの大きな音を極力脳内フィルタリングで除去しながら校門を越える。

 校門からしばらく続くのは、広い道。両脇には桜並木があり、

「もう葉桜だよなぁ」

 入学式の頃は驚いたものだと常山は思う。毛虫が落ちてきやしないかとひやひやしながら通ったものだ。それは今もそうか。――って違う違う、驚いたのは鮮やかな桜色の花弁の満開具合にだった。虫に関しては驚いたのではなくびびっただけだ。

 それはさておき。

 広い道の先には校舎があり、まず見えるのは人の出入りする昇降口だ。

 昇降口は今通っている道から見れば奥行きが広い構造になっている。建物の側面にあたる部分をガラス張りにして、今も靴を上履きに履き替えている生徒の姿が見えている。

 校舎そのものはコの字に近い形をしていて、北側を通常教室、南側を特別教室や職員室に割り当てている。

「……ああ、教室が遠い」

 教室のある校舎は三階建て。この高校では三階から順に一年、二年、三年とフロアを割り当てている。

 常山は今年入学した一年生。教室は三階だ。しかも、学級としては六組あり、階段の近くから順に一組から六組まで割り当てられている。そして常山が所属しているのは六組だ。

「遠いんだぜ……」

 距離を思って溜息を吐きながら下駄箱で上履きに履き替える。

 下駄箱の蓋をぱたんと下ろして足を動かそうとしたところで、横合いから声がかかった。

「おはようございます、常山さん」

 聞き覚えがないでもない声だった。

 常山はうげ、と漏れそうになる呻き声をなんとか噛み殺して、表情に出てないといいなぁと思いながら、必死に作り笑いを浮かべて音源へと視線を向ける。

 そこには一人の少女が立っていた。

 黒髪黒目。後ろ髪は腰まで癖もなく真っ直ぐと伸び、前髪は白のカチューシャであげている。露になっている顔は小さく、年相応の幼さを残しているものの、大人びた印象としてまとまっている。ノーフレームの眼鏡をかけているため、なおのことそういった印象が強いのかもしれない。

 小柄で華奢な体躯は高校指定の制服を隙無く着込んでいる。しかし、よく見ればわずかにスカートの丈が短かったりして、お洒落に関する工夫が見受けられた。

 名前は鈴木翔子という。常山と同じ一年六組の生徒であり、そして――常山との接点でそれ以上のものはない。しかし、面倒見がいい性格らしく、一人で居ることの多い常山を気遣ってなのか、よく声をかけてくるのだ。

 常山としては、扱いに困って仕方が無い。邪険に扱っては周囲からの印象が悪くなってしまうが、うまく遠ざける手立ても浮かばない。したがって、愛想よく反応するほかないのだった。

「……おはよう、鈴木さん。今日も相変わらず綺麗ですね」

「あら、ありがとう」

 鈴木は常山の言葉に口元だけで笑って応じる。

 常山は鈴木の反応を見て、はは、と一度笑った後で、

「それじゃあ、私は先に行ってますんで」

 その場を早々に立ち去るべく言葉を続けて、即座に身を回して、

「待ちなさいな」

 足を進めるより早く静止の言葉をかけられた。

「えーっと、何でしょう?」

 常山が首だけを動かして鈴木のほうを伺うと、そこには呆れを多分に含んだ吐息を吐きながら肩を落とす姿が目に入る。

「同じ組なのですから、一緒に行きましょう」

 出来れば一緒にはいきたくないという、せめてもの主張だったのだが、果たして届いていたのか届いていないのか。常山は鈴木の様子からそれを伺い知ることはできなかった。

 とは言え、このまま何も反応を示さないのも変だろう。

「……えーっと、ちょっと急ぐんで」

「何か用事でも?」

 鈴木は視線を外して問いかけつつ、自分の下駄箱から上履きを取り出し、履き替える。

 その様子を見ながら、常山はどう応えたらいいものやらと悩んだ後で、結局お茶を濁すような言葉を口にする。

「まぁ、その、野暮用が」

「それは寸暇すら惜しむものですか?」

「……この問答に使う時間の方が惜しいかなぁ」

「では行きましょう」

 言って、鈴木は常山の横を抜けて歩き始める。

 常山はやれやれと肩を竦めた後で、それに続く。横に並ぶわけではなく、ただその後ろを付いていくように。

 鈴木は前を歩きながら、すれ違う他の生徒たちと挨拶を交わしていく。

 常山は鈴木の姿をぼうっと視界に収めつつ、鈴木との挨拶を終えたヒトが向けてくる視線に辟易しながら無言で歩く。

「常山さん」

「はいはい、なんでしょうか」

「はい、は一回で十分なのだけど」

「いいじゃないですか、別に。気軽い感じがしていいでしょう」

 常山の言葉に、鈴木は吐息をひとつ吐いて文句をかき消し、続けたい言葉を続ける。

「……どうしてあなたはそんな位置に居るんですか」

「は?」

「階段を上る時もその位置なのはどうかと思いますが」

 鈴木は首だけを動かして、視線をわずかに常山へと向ける。

 その視線を受けて、常山はああなるほど、と、鈴木が何を言おうとしているのか、その内容に思い至った。だから言う。

「そんなこと気にしてたら、誰もいない状態でしかスカートをはいたまま階段あがれないんじゃないですか。大丈夫です、私はスカートの中に興味はありませんので。それに」

 一息。口元をくっと持ち上げて、

「私と鈴木さんの距離感としては妥当じゃないですかね」

「…………」

 鈴木は常山の言葉に無言になり、眉を潜めた三白眼を向ける。

「何か?」

 愛想よく反応することを心がけている割には、ふとした瞬間に出る毒の内容が迂闊すぎる常山であった。しかも自覚がないあたりが致命的でもある。――あるいはわざとなのかもしれないが、それを現段階で判断することはできない。

 少なくとも鈴木にはどちらであるのか判断はできなかった。

 だから、という訳でもないだろうが、鈴木は歩を緩めて常山の横に並んだ。

「……それにしても。随分と調子が悪そうに見えますが」

「ああ、私ですか?」

「他に誰が」

「いやそこら中にもヒトは居ますし。そんなに顔に出てますか?」

「むしろ出ていないと思っている方が驚きなのですが」

「まぁこれだけ近くで見てれば判るやもしれませんね。……単なる寝不足ですよ。寝るのが遅くなっちゃって」

「何時頃寝たんですか?」

「一昨日の夜十一時とかですねー」

「……それは寝てないというんじゃ?」

「そうとも言います」

「そうとしか言いません!」

 ですよねー、と常山は空笑いをあげる。

「それじゃあ、さっきの野暮用というのは」

「教室の机に突っ伏して寝るという野暮な用ですよ」

「……あなたは少し学生としての自覚を持つべきでは?」

「学生であるという自覚はあるのでサボらずに学校に来てますけど。何か問題でも?」

「授業中に寝ないのであれば問題ないでしょうね。今日は体育もありますけど」

「そうなんですよねー。あまりハードな内容じゃないといいんですけど」

「持久走だそうですよ」

「デマでしょ、それ」

「さぁ? そうなるかもしれませんよ」

 くすり、と。鈴木は口端をゆるやかに持ち上げて、目を細めながら笑う。

 黒い雰囲気が感じられたので、常山は若干冷や汗をかきながら、溜息と共に言う。

「そうならないことを祈るばかりです」

「では、私はそうなることを祈っておきましょう」

 ひどおいお方だ、と常山は心の中で嘆息しながら、教室の扉をくぐった。



 本日、一年六組の午前中最後の授業は体育だった。

 授業内容は持久走。授業時間五十分のほぼ全てを使って、校庭のトラックを延々と走り続けるだけ、というものだ。

 なぜ急に、というブーイングに体育教師はこうのたまったという。

「入学式から二週間経って、気が緩んでいる部分が見受けられる。高校という場所は、中学とは違うということを理解してもらいたい――」

 まぁそれから延々と、教師特有の病気――説教紛いの長話が続いたので省略するが。

 要は態度大きくなってきたのでキツイことさせてしめる、ということらしい。

 昔のヤンキーか、などとそれぞれの感想を持ちながら大半の生徒が半目になったのは言うまでもない。

 そして更に言うまでも無く。

「……あーあ」

 常山は地獄を見ることになった。

 南無。



 昼休みである。

 学校生活におけるオアシス――という表現は些か大げさではあるが、まとまった時間を休むことに費やすことの出来る時間がここにしかないことを考えれば、学校生活において貴重な時間帯であることには違いない。

 この貴重な時間帯は、しかし、所属するヒエラルキー次第で天国にも地獄にもなる。

 究極のぼっちは便所飯という難行みたいなことをやっているというし。リア充は群れて騒いで見かけ楽しそうに過ごしている様子をちらほらと見ることもできる。

 どちらが地獄でどちらが天国なのかはさておき。

 所属するコミュニティとも呼べるものによって、昼休みの過ごし方というものは変わるものだ。

 常山の場合、ヒトの居ない場所を好んで過ごすことが多い。なにせ知り合いがそう居ないものだから、居場所がなくて困っている。面倒な場合は教室にそのまま居残っていることも多いのだが、今日はそういう気分ではなかったので場所を探して彷徨っているのだった。

「どこで過ごしたものか」

 ふらふらと動いているだけでも悪目立ちするものだ。他人の視線に敏感な性質である常山としては、どこか遮蔽物のある場所か、人気のない場所のどちらかでのんびりしたいのだが、そういう場所というのは得てしてよくないものの溜まり場になる。

 ヒトの視線が届かない場所で、よくないことは起こるものなのだから。

「図書室あたりがベターなのかね」

 常山はやれやれ、と溜息を吐きながら頭を掻く。

 考えた上で場所を選べば、自身の席が割り当てられた教室か、あるいは特別教室のどこかになるだろう。そして、特別教室の中で一般生徒が立ち入っても文句を言われない場所は図書室以外に存在しない。

 やれやれ困った困ったーと、常山は気だるい表情のまま、廊下をのんびりと彷徨うように歩き続ける。

「実際はただの口実だけど」

 とは言え、どこをどう回ってどこに腰を落ち着けた後に戻るのか、それがここまでぼうとして決まらないのはもどかしい。

 仕方ない。

「とりあえず、まずは食事を済ませるか。……たまには賑やかなところにでも行ってみよう」

 人混みはなおのこと疲れるのだけど、と思いながら、常山は昼休みにおける激戦地のひとつ――食堂へと足を運ぶことに決めた。



 この高校の食堂は、体育館の一階部分に設けられている。

 一階部分の校舎側、およそ四分の一にあたる部分はコンクリート地を晒すだけの空間だ。北側の壁には剣道場と柔道場につながる扉があり、西側には食堂に続く扉がある。

 食堂にあたる区画は大きなガラス窓で仕切られている。広さは真横の入り口に面する空間と同程度か、若干広い程度だろう。入り口となる扉は二つ用意されており、今もまだ、そこから人垣が伸びている。

「食券買うタイプなんだっけ……?」

 混雑の一因はそこにもあるんじゃないかと、常山は目の前の光景を見てそう思う。

 とはいえ、並ばなければ品物が買えないのだから仕方が無い。

 常山は入り口から出てくる人垣の一部、流れが止まっている部分を眺めてどこが食券販売機の列であるのかを判断して、その列に並ぶ。

 列の長さは昼休みが始まってしばらく経っている割には長かったが、消化は思った以上に早かった。

 メニューの書いてあるボタンがいくつも並ぶ食券販売機がいつのまにやら前にある。

「何も考えてなかったな」

 後ろにヒトが居ないならともかく、常山の後ろにはヒトが居る。しかし、常山は周囲に知り合いが居るでもなし、決めるための材料があるわけでもない。かといって、迷っている時間も長くはとれない。むしろ、迷うくらいなら並ぶなといわんばかりの重圧というか雰囲気がこの場にはある。

 とりあえずお金を投入する。予算とか考えて食事を取るわけでもないので、千円札を投入。

 食券販売機のボタンで品名が書いてあるもの全てのボタンが赤く点灯する。

 カレー。カツカレー。焼きそば。焼きうどん。から揚げ。スパゲッティ。親子丼。そぼろ丼。日替わり定食。ハンバーグ定食。しょうが焼き定食。ヘルシー定食。サンドイッチ――

「……多いなあ」

 さっと視線を流して、めぼしいところだけ引っ張り出したが他にも色々ある。とは言え、特別食べたいものがあるでもなし、選択肢の幅が広いというのはこの場合歓迎できるものではなかった。

「……まぁこれでいいか」

 なんとなく、で親子丼のボタンをプッシュして、券売機の前から移動する。

 無事食券は買えたので、向かう場所はカウンター――料理の受け渡しを行う場所だ。

 今なお、この場で一番混んでいる場所である。

「……行きたくないなぁ。でも行かないと飯貰えないんだよなぁ。ああ、面倒だ」

 追加で溜息をひとつ吐いて、のろのろと移動する。

 カウンターは食堂内北側の壁際をほぼ全て使う形で用意されている。カウンターである壁と壁の隙間、その向こう側には厨房と思しき場所がある。カウンターの上部、壁の縁にはある程度の間隔で紙が垂れ下げられている。紙に書かれているのはその場所で受け渡しを行う料理の分類だ。そして、紙のある位置にはコンロ等の調理器具が別に用意してあり、そこで調理をして器に盛って渡す姿が確認できる。

 常山が購入した食券に書かれた文字は親子丼。分類としては丼もの、というところになるのだろうか。そう考えたところで、常山はふらふらと揺れる紙きれに視線を移す。メニューの分類が書かれた紙に続く列のうち、丼の列を見つけて並ぶ。

 人気がないのか、たまたま運がよかったのか、それほど時間をかけずに常山の番が回ってくる。

 常山がカウンターとなる部分に食券を置いてメニューを示すと、その場で待機していた担当のおばちゃんが手際よく品物を用意する。

 出来上がったものはトレイの上に乗せられて、カウンターの上を滑って常山の前に置かれた。

 常山はおばちゃんに軽く頭を下げてお礼を言った後で、料理の乗ったトレイを受け取りカウンターを離れる。

次に探すべきは、この受け取った料理を食すための場所、空席だ。

 常山の視界の中、並ぶ机とテーブルに座る生徒の間には空席がちらほらと見て取れる。

 探さなくても空いているところに座ればいいのに――と、何も知らない他人は言うかもしれない。しかし、そんな安易なことは絶対にしてはならない。

 状況を整理しよう。

 ここは公共の場だ。そして、ここにいる者達は皆他人だ。

 公共の場で、椅子が用意してある場所というのは何も学校に限らずいろんな場所にあるだろう。

 だから想像してほしい。

 例えば電車の中、例えば外食をする店――これは特にテーブルが繋がり椅子が並べられているカウンターあたりを想像してほしい。ヒトが極端に多く混んでいる場合は除いて、余裕があると少しでも判断できた場合、それらの場所に用意され、隣接する形で並べられた椅子に対して何人かヒトが既に座っていたとする。

 そのとき、座ろうとしているあなたはどうする?

 既に座っているヒトがいる椅子からひとつ以上席をあけた状態で座るのではないだろうか?

 つまり、何が言いたいかと言えば――ずばり、今現在食堂に見受けられる空席の大半がその類のものだということだ。

 そんなところに迂闊に飛び込めば、飛んでくるのは非難の視線。まったく、これっぽっちも悪くはないのに向けられる理不尽な、無言の叱責だ。

 そして、ここは公共の場とは言え学校という閉じた狭い社会の中だ。最悪の場合、悪いことでもないのに、どこからどう繋がっているのか判らない情報網の中に悪評として流されれば、面倒事の火種になりかねない。特により多い人数で集まっている団体席周辺の空席は地雷原に等しい。ただでさえ声の大きな連中が、群れることでより大きな声を獲得しているのだ。そこから出た噂は真偽を疑われることなく妄信されることになるだろう。

 わざわざ自分から面倒事に巻き込まれる可能性を上げる必要性も義務もないのだ。ゆえに、空席の意味を見極める必要が生じる。

 ぼっちが故の危機管理。

 学校という狭い社会を生き抜くためには必要なスキルだ。

「……はぁ」

 ――などと、真剣に考えているようならアホの子である。

「まぁ、単に他人と距離が近いのがキモチワルイだけなんだけど。丁度いい席はないかな」

 常山は現実逃避のために空席を探す理由をマジメに考えた後で、軽く息を吐きつつ、視線を動かし席を探す。

 食堂の中を見回していると、まとまった空席のあるスペースがいくつか見受けられる。

 その中のひとつ、ある場所であるものを見つけて、常山は感嘆の声をあげる。

「……ほー」

 常山が視線をとめたのは、食堂の中央部分、窓際にある席から通路を挟んで、料理を受け取るカウンター側に伸びる机のひとつだ。

 そこには一人の少女がいた。

 背は高い――のだろう、多分。座った状態であるから、正確なところはわからない。見ていて分かることは、着込んだ制服を押し上げる身体のラインが、十分以上に女性らしいということだ。

 ただ、常山が注目したのは体つきが目に付いたからではない。

 鈴木さんが見たら嫉妬で凄いことになるんだろうか、などと彼女に対しても鈴木に対しても失礼なことが一瞬だけ頭の中を過ぎったことは確かだが。

 それはともかく。

 常山が注目したのは、彼女の髪色だ。

 ふわふわとした、柔らかな質感を見せる金色の髪。

 黒髪が主であり、居たとしても茶髪がせいぜいのこの空間において、その色は目立っていた。

 しかし、その存在が浮いているわけではない。この場の雰囲気によく馴染んでいる。

 だから、常山が驚いているのはむしろ後者――異なるものが馴染んでいる様子に対してだった。

 この学校は、今時の学校にしてはほどほどに校則が厳しい。男の髪は短くなければならないと、必要以上の長髪に関しては認められていないし、髪色に関しては、最近ようやっと茶髪が許容され始めた程度だという。

 つまり、彼女の髪は天然モノだということであり、生まれはともかく、確実に異なる血が入ったヒトということになる。

 異なるものは必ず排斥される――などと、虚構みたいなことを信じ込んでいるわけでは断じてないが、まだ新学期も始まってそう経っていない現在において、新入生から奇異の視線が殆ど向けられていない事実は、十分驚くに値すると常山は思う。

 常山はほへー、と感心しながら、足を彼女の周囲にある空席へと向けた。

 彼女は通路から席をひとつ空けた椅子に座って食事を採っている。

 たまたまだろうが、彼女の周囲には一つずつ、彼女を取り囲むように空席があった。

 常山は少し考えてから、彼女の対面にある空席の内、通路から三つ目の席に座る。

 手を合わせて無言で拝んだ後で、トレイの上に乗った器を持ち上げる。持ち上げて、器に箸を伸ばすその間に、常山は一瞬だけ視線を金髪の少女に向けた。

 ばっちり視線が合った。

「……おおぅ」

 女性は他人からの視線に敏感だと言うが、どうやら本当らしい。たまたまかもしれないが。多分視線に気づかれたんじゃないかな、どうかな。

 金髪の少女の表情が怪訝に歪む。

 うわーやっべー。

 などと、考えながら、いかにも何も見てませんヨーという風を装い、常山は器の中に視線を戻した。

 湯気と一緒に立ち上がる卵とだしの甘い匂いを吸い込んで、気にしないようにしようと結論した上で食事に取り掛る。

 米の上に乗ったあたまを箸で崩して混ぜた後で、がつがつとかきこむ。ただし、食事は良く噛んで食べましょうの精神は忘れない。口の中がほどよく埋まったら、器から口を離してもぎゅもぎゅと噛みまくる。噛む度に米の甘みがほどよく混ざる。さらに噛めば、甘みは増す。

 飲み込む段階で水を取り忘れたことに気づいて、どこかに水を取る場所があったのかなと視線を食堂内に巡らせようとしたところで。

 斜め前の少女の赤い目と、しっかり目が合った。

「ごふっ」

 そして噴出しそうになった。ぎりぎりで口に手をあてて漏れることは阻止。

 斜め前の金髪少女は目が合った後の常山の反応を見て、嫌そうに表情を歪める。彼女が嫌だと感じたのは彼女と視線があった直後に噴出しそうになった事実に対してか、あるいは食事中に口から物を噴出しかけた事実に対してなのか。

 常山にとしてみれば、どちらにせよ原因は彼女にあると主張したいところではあった。

 しかし、見知らぬ他人に声をかけるコミュ力などがあればぼっちなどやっていないのである。

 抗議の視線を向けるでもなく、とりあえず物が喉につまりそうになっちゃったよやだなぁという感じで咳をしたり息を整えたりした後で、食事が終わってからお茶でも買えばよかろうと結論して食事を再開した。

がつがつと食べつくして、ふうと一息を吐く。

 持っているティッシュで口を拭って、視線を斜め前に飛ばしたが、

「……ふむ」

 そこにはもう少女の姿は無かった。流石に三度も同じことは続かないらしい。

 常山は目を閉じて、首を僅かに傾げて、少しの間動きを止めていたが、

「考えても仕方ないか」

 やがて肩を落として大きく溜息を吐き、席を立った。



 教室の前方、教壇に立つ教員が連絡事項を一通り告げた後で、言う。

「ではクラス委員、挨拶を」

「起立。――礼」

 ありがとうございました、という言葉が合唱され、その場に居る制服姿の少年少女が腰を折り、頭を下げる。

 その様子を見届けた後で、挨拶を促した教員は教室を出る。

 そして、教員が教室を出た瞬間から、教室内の空気が弛緩する。にわかに活気付き、ざわざわと騒ぐ気配が増える。

 放課後である。

 どこか浮かれた空気の中。ある者は友人知人と固まり、談笑しながらこの後の予定を――主にどこに遊びに行くのか、何をして遊ぶのかを決めようとしているし。ある者はロッカーや机の横に用意している道具をもって、似たようなものを持っている者同士で固まって、やはり笑いながらどこかに――おそらくは部活に、向かっている。

 中にはそろそろと、あるいはそそくさと一人で教室を去る姿もある。

 しかし、基本的な雰囲気として、やはりそこには開放感が伴っている。終わり、次に移ることを楽しむような、または喜ぶような姿が多く映る。

 そんな中で、

「……はー、終わったー」

 常山は大きく溜息を吐きながら、腕を前に突き出して、自分の机に上半身全体を乗せる勢いでうつ伏せになっていた。ぐったりという言葉がまさにぴったりという体で脱力している。

 その様子から感じられるのは開放感よりも倦怠感であり、その背中からは通常授業を受けているだけにしてはやたらと重い疲労感が、これでもかというほど滲み出ていた。

 思う存分うだうだしている常山の背中に、ふと声がかかる。

「おいおい。せっかく放課後になったってーのに、なんて体たらくさらしとるんよ」

 からかうような、呆れているような声音に、しかし常山はあまり聞き覚えがなかった。むしろ、これは自分に対してかけられた言葉なのだろうかと疑問に思うレベルでさえある。

 教室には最大で三十から四十人程度いるのだから、体たらくと評されるような態度をとっている人間は、常山一人ではないだろう。

 そう考えた常山は、更に大きく吐息を吐いて、ぎぎぎぎと音を立てながら座ったまま椅子を下げて背中を伸ばした――ところで、なんで無反応やねんという言葉と共に伸ばした背中を軽く叩かれた。

 常山はびくりと背中を震わせた後で、机にあてていた額をゆっくりと持ち上げて、代わりに当てた顎を支点に首だけを動かして周囲を見る。視線を左から右へと移動させたところで、斜め上から自分を見下ろす視線とぶつかる。

 そこに立っているのは一人の少女だった。

 黒髪黒目。肩口まで伸びる髪は癖が強く、四方に向かって跳ねている。片側の口元を歪めて、左右非対称の笑みを浮かべながら見下ろす表情は、嘲る感情が含まれていようとも活き活きとした感情が伝わって、どこか憎めない魅力を感じさせる。

 机に頭を近づけている常山がわずかに首を傾げる程度で視線が合う程度には背が低く、年齢以上に幼く見える少女だった。

 常山は視線がぶつかり、顔を認めて、ああと少女の名前を思い出す。

 佐藤朱音。それが彼女の名前である。

「佐藤さん、いきなり背中を叩かないでください」

 常山は佐藤から視線を外して前を向き、はぁと溜息を吐いた。

「人のこと無視してるからやん」

 佐藤の非難するような声に対して、常山は呆れを含んだ吐息で返す。

「名前を呼ばれなければわかりませんって」

 常山の言葉に、佐藤の声は非難の色を強める。

「そこはなんとなーくわかるもんじゃない? 自分に声かけられてるんかなーって」

「どうなんでしょうね。……それで、私に何か用事ですか」

 問答そのものが面倒になった常山はどうでもよさそうに話題を切った後で、首をわずかに傾げて再び視線を佐藤に向ける。

 常山の視線を若干嫌そうにゆがめた表情で受けながら、佐藤は言う。

「用がないと声をかけちゃいかんのかい。妙にだらけた背中があったから、絡みたくなっただけなんだけど」

「……人の貴重なだらけタイムを邪魔しないでくださいよ」

「あほか」

「ひどいことを言う。……授業が全て終わって放課後になった瞬間に、思いっきり疲労感たっぷりにだれることの楽しさはぼっちにしかわからないでしょう」

「おい。ぼっちにも失礼だろ、それ」

「失礼というのも変な話では? まぁ、私がぼっちであることは確かですが。そして、ぼっちがこの行為を楽しいと思うかどうかは別かな」

「いつも思うんやけど」

「何ですか」

「あたし、ここに入ってから、なんだかんだで放課後はこうして結構話かけとるやろ。なのに、あんたはぼっちなん?」

「ぼっちがぼっちと群れてもぼっち」

「中傷も甚だしいな!?」

 佐藤が驚愕の表情を常山に向ける。

 常山は佐藤の視線を受けて、わずかに口端をあげる笑みを見せる。

「へぇ、それはぼっちが他人を貶める言葉であるということですか。ぼっちは悪ですか。そうですか」

「いや、決してそういう意味で言ったわけじゃあ……」

 常山の指摘に、佐藤は非常に応えにくそうに唸っていた。

 佐藤の様子をひとしきり眺めた後で、常山は机から身を剥がすように上半身を起こして軽く笑う。

「まぁぼっちという言葉にいいイメージが無いのは確かでしょうよ」

「同意しにくい」

「自覚があることはいいことです」

 なにおう、という佐藤の言葉は無視して、常山は椅子から立ち上がり、机の横に置いていた鞄を持ち上げる。

「なんや、今日は直帰?」

「図書室ですよ。宿題やってから帰ろうかと」

「……あんた、そんなキャラだっけ?」

 佐藤は胡散臭いものを見るような目で常山を見た。

 常山は佐藤の視線を受けて、苦笑しながら肩を竦める。

「宿題が出ない日は直帰ですけどね。家に仕事は持ち込まないタイプなんですよ、私」

「あー、それっぽい」

「でしょう?」

 常山は苦笑を深めて応じた後で、歩き出す。

 佐藤はつまんねーのと溜息を吐いた後で、常山から視線を外して、教室にいるほかの誰か――佐藤にとっての友人のほうへと移動を始める。

 常山は数歩を歩いたところで、ああそうだと、思い出したように身体を回して佐藤のほうへと向き直り、声をかけた。

「佐藤さん、知ってたら教えて欲しいことがあるんですが」

「……ん、何?」

「この学校に外人さんっているんですかね?」

「はぁ?」

「髪の色、金とか赤とか、いかにもな見た目の生徒っているのかなと」

「何でそんなことを聞くん?」

「特に意味はないですけど」

「……うちの校則厳しいの知ってるやろ。もしそんなのが居たら噂になってるし、結構色んな人から話があがってそうなもんやけど。聞いたことないなぁ」

「やっぱりそうですかー」

「やっぱりって……なんや、知ってたんなら聞かなくてもええやろ。あほくさ」

「いや、自分以外もそう思ってるんだよなってことを確かめたかっただけなんですよ。助かりました」

「何でそんなこと確かめる必要があんねん」

「校内でそんな人を見かけた気がしたんで。校外のヒトだったんですかねー」

「この時期にか? 部活の線でも、校外からの人間なんて滅多に来ないと思うけどな。単なる見間違いと違う?」

「そうかもしれません。少し気になったから聞いてみたって程度です」

「さよけ。もうええか?」

「ありがとうございました。では、また明日」

「へいへい、また明日」

 佐藤は気楽な様子で手を軽く振って、常山に背を向ける。

 常山は佐藤に軽く頭を下げた後で、教室を出る。

「……面倒なのを見ちゃったかなー」

 厄介なことにならなきゃいいけど、と溜息を吐いて、重たい足取りで図書室へと向かった。



 この学校の図書室は特別教室のひとつとして、校舎の南側、二階の一室が割り当てられている。

 広さとしては、通常授業に割り当てられている各教室と同程度だろうか。廊下から図書室に入って左側、東側では天井近くまである本棚が立ち並ぶ区画が床面積の半分を占めており、また、西側にある残り半分のスペースも、何人かがかけられる長い机と背の低い本棚で埋まっている。

 時間が放課後ということもあり、人影は少ない。

 とは言え、静かというほどでもなく、幾人かで固まっている集団の話し声や他所から聞こえる喧騒で割と騒がしかった。

 図書室という割には賑やかな空気の中。西側にある机の一角に常山は居た。

「あー、めんどくさ……」

 そして、相変わらず辛気臭い雰囲気を漂わせていた。

 常山が溜息を吐きながら見ているのは、机の上に広がっているノートと教科書だ。教科は古典。教科書に載っている漢文あるいは古文の現代語訳でもやっているのだろう。

手にしたシャーペンで額を掻きながら、電子辞書のキーを打って意味の判らない単語を調べて、文章の流れを考慮した訳を捻り出した後、考えた文章をノートにつらつらと書き連ねていく。先ほどからずっと、その繰り返しを続けている。

 常山は教科書の文章中に出てきた単語の意味を電子辞書で確認しながら、何度目かわからない溜息を吐き、

「古文漢文の現代語訳ほど役に立たないものはないよなぁ。書いてある中身はまぁ、たまに使えることもあるんだろうけど」

「まぁ古文でしか判らないことは、殆ど無いだろうしな」

 独り言の二の句を奪われたことに、一瞬動きを止めた後で、視線を机から音源へと動かした。

 音源は対面の席であり、そこには一人の少年が居た。

 黒髪黒目。髪は校則で許されるぎりぎりの長さ――前髪は眉のあたり、襟足は首の付け根あたりまで伸ばされており、ほんの少しだけ癖が見える。視力が低いのか黒縁眼鏡をかけているが、その眼鏡のデザインが端的に言ってダサいため、雰囲気として地味という印象をまず受ける。体格も中肉中背、どちらかと言えば痩せ型というところで、逆に言えばそれ以上の特徴はない。

 よくも悪くも、目立たない側において平均的な男子学生。それが常山の目の前に居る少年だった。

「やあやあ、常山くん、久しぶり――って、なんでそんなに嫌そうに見るんだ。そんな邪険にすることはないだろう」

 常山の視線を受けて、少年は少し慌てたような様子で身を引く。

 少年の様子を見て、常山は溜息を追加しながら視線を机の上に戻しつつ、言う。

「独り言の先を他人に取られれば誰だって嫌になるでしょう。それに、久しぶりと言うほど久しぶりではないのでは? 私がこの学校に入って二週間とちょっと、部活見学で先輩と話をしてからだと一週間も経ってないと思いますが」

「一週間も経てば十分、久しぶりと表現しても問題ないと思うんだがなぁ。……それにしても奇遇だね。まさか、図書室で会うことがあるとは思っていなかったよ」

「そうですか? 同じ学校に所属しているんですから、会うことくらいはあるでしょう。意外に思うことがあるとすれば、独り言の先を横取りするような人が居ることに対してくらいですが」

 顔を上げないまま会話を続ける常山の様子を見て、少年は一拍呼吸を挟んで沈黙を作った後で、吐息を吐きながら両手をあげた。

「……悪かったよ。すまなかった。もうしない」

「察して頂けてうれしいです」

 少年の言葉を受けて、常山はにやりと笑みを浮かべた顔をあげた。

 少年は常山の顔を見て、肩を竦めて困ったような表情で笑う。

「君は意地が悪いな」

「褒められた行為でないことだと考えていることは本当ですから」

「割と大きな声で独り言を呟くのも、あまりいいことではないと思うが?」

「会話か独り言かの違いで、なんで印象が変わるんでしょう」

「それもそうだなぁ。……なんでだろうな?」

 常山の言葉に、少年はふぅむと唸りながら首を傾げる。

 常山はそんな少年の様子を見て、力を抜いた笑みを浮かべる。

「先輩は本当に、面白いように誘導されますね」

「ん? いきなり何を――ってああ、そういうことか。面白い題材だしな。誘導されたというのはちょっと情けないが、ネタの提供は素直にありがたいよ」

「考えるのが好き、というのは本当だったんですね、本田先輩」

「考えるのが好き、というのは誤解を生みそうな表現だが。まぁ、どうでもいいことを考えるのは楽しいと、そういう話だ」

 言って、常山の対面に座る少年――本田は何ともいえない表情で笑った。

「ところで、常山くんはどうして図書室に?」

「国語の宿題をやっているところです。今は現代語訳を」

「それ、ホントに宿題?」

「宿題とは、学校等において学生に課する自己学習の課題、あるいは、今後解決しなければならない問題のことを指します」

「つまり?」

「予習も宿題のうちです」

「マジメだね」

「皮肉にしか聞こえませんけど。本田先輩は何の用事で図書室に?」

「ラノベの新刊を入れてくれたみたいだから、借りに来たんだ。お金が無いから、気になっても買えないタイトルってやっぱりあってさ、助かるよ」

「この図書館、ラノベなんて置いてたんですね……」

「司書さんが割と理解のある人でね。色々と話をしてるときに、買ってみてほしいものをお願いしたりもしているんだ」

「……どうやって申請とか通してるんですか?」

「書籍で通るそうだ。何十冊とある目録をわざわざ読んで、それがラノベかどうかを確認する教員はいないんだろう」

 そういうものですか、と常山は感心したような呆れたような、どちらともつかない表情で頷いた。

 そういうものみたいだ、と本田は笑った後で、何かを思い出したように――突然申し訳なさそうな顔になった。

 常山が本田の表情に疑問符を浮かべたところで、本田は言う。

「いや、常山くんは宿題を片付けていたところだったんだろう? 邪魔をしてしまっているんだよなと思って」

「急にどうしたのかと思いましたが、そんなことですか。先輩が気にする必要はありませんよ。応じたのは私ですから。それに、特に急いでやる必要もないところですし、ここ」

「俺だったら、宿題やってる途中で声かけられたら、ちょっとは嫌になるからさ。もしそうだったら悪いなぁと」

「気にしてないので、お気になさらず。……正直な話、この学校では宿題をやる意味をあまり感じませんけどね。座学に関してはテストの点数だけで進級できますから」

「内申には響くんじゃないかな」

「進級さえ出来れば、それでいいので」

 ドライだなぁ、と本田は笑って、席を立つ。

「それじゃ、俺はこの辺りで失礼するよ。またね」

「あ、先輩、ちょっと待ってください。聞きたいことが」

 席から離れていく本田の背を、常山はそう言って呼び止めた。

「……宿題で何かわからないところでも?」

 本田はほんの少し驚いたような表情で振り返った後で、身体ごと向き直り、常山の言葉の先を視線で促した。

 常山は本田の視線に頷きをひとつ返した後で、宿題は関係ないんですがと苦笑を浮かべながら続ける。

「先輩の知っている範囲で、この学校に転入生はどの程度居るんですか?」

「……なんでそんなことを?」

「転入生が居る、ということがそもそもあるものなのかと思って。小中と、そういった話を聞いた覚えが無かったものですから」

「興味本位?」

「ええ、まあ。ふと思いついたんですが、聞けそうな相手も、私には先輩くらいしか居ませんから。この機会に聞いてしまおうかと」

 肩を竦めながら苦笑を深める常山を見て、本田はふむと一度頷いた後で、腕を組んで顎に手を当てる。

「……俺も人付き合いが多い方ではないから、その手の話には疎いんだが。周囲でそんな話をしていた時期があったような気はするなぁ。ただまぁ、あっても一回か二回だったんじゃないか」

「ちなみに、その中に外人さんって居ました?」

「そんな話は無かった気がする。あくまで耳にしたことがあるかどうかって、そんなレベルの話だけどな」

 しかし何でそんなことを? と、本田は常山に視線で問いかける。

「さっきも言ったじゃないですか。興味本位ですって。特に意味はないですよ」

「まぁそうだけど。意味深だったから。……ほら、ラノベとか漫画でよくあるじゃないか。そういうことを知り合いに聞いて回る展開ってやつ?」

 本田は少し恥ずかしそうに、わずかに自嘲の滲む笑みを浮かべながら常山に問いかける。

 常山は本田の言葉に小さく声をあげて笑った後で、

「……二次元と区別がつかないタイプの方でしたか」

 吐息を吐いて表情をフラットに戻して、常山を同様の色を浮かべた視線で見た。

 本田は嫌そうに表情を歪めて、常山を半目で見据える。

「冗談の通じない子だね、君は」

 すみません、と笑いながら軽く謝った後、ところで、と常山は笑みの声で問いかける。

「先輩は、そういうのが現実にあったらいいなって思います?」

「君はそう思うのか?」

「今聞いているのは私の方ですよ、先輩」

「二次元と区別がつかない子か、とでも返したほうがよかったか? ――そんなことを聞かれるとは露ほどにも思っちゃいなかった。とは言え、どうだろうなぁ、俺はどちらかと言えば、無いほうがいいかな」

「それはどうして?」

「君、俺に質問をさせない気だな? 別にいいけど。理由、理由ー……ああ、年を取ったからとかじゃない? そんなものがあるわけないって、そんな感じ。というかまぁ、あったら困るだろ?」

 一息。本田は降参と言うように、両手を肩のあたりまで上げて見せて、

「うっかりで巻き込まれても困るじゃないか。ああいうのは、眺めていられるからいいんだよ」

「……事故に遭わないようにしてください」

「ありがとう。そう願うよ。気をつけていても遭うものだろうけど。出来れば、嫌な目には遭いたくないってのが俺の本音だ。――これでいいかな?」

「ええ、参考になりました」

「そりゃ、結構。じゃあ、また」

 言って、本田はひらひらと手を振りながら離れていった。

 常山はその背中に軽く頭を下げた後で、本田の背中がこちらに振り返る様子がないことを認めて、視線を机の上に戻す。そして、困ったような笑みを浮かべながら頬をかき、

「付き合いのいい先輩で助かるね、まったく」

 今度何かお礼をしにいかないとなぁ、と考えながら、古文の現代語訳を再開した。



 最終下校時刻まで図書室で現代語訳をやり続けて、常山は司書や図書委員に追い出されるようにして学校を出た。

 常山の自宅は、通う高校から徒歩三十分の距離にある木造二階アパート、その二階にある一室だ。

「ただいま、と」

 扉を開いてまず見えるのは、ヒト一人分の横幅しかないフローリングの床だ。奥に長く、その先には居間に続く扉が見える。

 視線をわずかに左にそらせば小さな流し台と一口のガス式コンロがあり、右にそらせばユニットバスに続く扉がある。

 常山は靴を脱ぐと、スリッパに履き替えて、まっすぐ進んで目の前の扉をくぐる。

 扉の先には四畳半程度の板間がある。

 家具は少ない。入ってすぐの左壁際に背の低い冷蔵庫があり、扉をくぐってすぐ目の前にある大きな窓、その脇にデスクトップパソコン一式の乗ったパソコンデスクと椅子があるだけだ。しかし、設置された家具に対して床の露出面積は少ない――というか非常に散らかっていた。

 周囲の床では口の閉じたゴミ袋や脱ぎ散らかされた服が山を作り、ブックカバーのついた文庫本が積まれて一種の壁というか障害物みたいになっている。そして、その中心には敷きっぱなしの布団一式が寝起きそのままだろう乱雑さで放置されていた。

 常山はカギを冷蔵庫の上に、僅かに覗くフローリングの床面に持って帰ってきた鞄を放り置き、制服を脱いで部屋着に着替える。

 冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して、パソコンデスクに移動。慣れた動きでパソコンを立ち上げて、立ち上がるまでの待機時間で近場に積んでいる文庫本の一角、その一番上にある未読のものを取り上げる。

 椅子に浅く腰かけて背もたれに身を預けながら、

「……うげぇ」

 ぱらぱらとめくって冒頭の文を黙読すると、まず呻き声をあげた。

「こりゃ失敗だなぁ。それも、ここ最近なかった感じの、ひどい失敗だ」

 パソコンの起動音を聞いて、インターネットプラウザを立ち上げお気に入りから動画サイトを選択。最近気になってるバンドの作業曲まとめをてきとーに検索してクリックし、流れてくる音楽の音量を調整して。

「これが面白いと思って買う人間がいるんだから驚きだ。何が面白いんだかわかんねー」

 金払ったからには読むけど苦痛、と溜息を続けて、視線を文庫本の紙面に移した。

 そのまま無言で、時折何かを堪えるように眉根を詰めたりしながら頁を進めていると、がたがたと何かが震える音が響き始めた。

 常山は本から視線をあげて、パソコンデスクの上で喧しく右往左往している二つ折りの携帯電話を認めると、開いていた文庫本を左手で指を栞のように挟み込んで閉じるように持って、空いた右手で大儀そうに携帯を取り上げる。手の中で指を使って携帯電話を回し、側面にある隙間に親指を挿し込んで閉じた画面をこじ開けて見れば、新着メールがある旨が表示されていた。

 ボタンをぽちぽちと操作してメールを開く。

 メールの差出人の欄には業務連絡の文字があり、表題の欄は無記入で、肝心のメール本文は高校の一単語だけが記載されていた。

「…………」

 常山は携帯を閉じると、息を長く吐きながら椅子の背もたれに深く身を預け、左手に持っていた文庫本を額にあてるようにして顔を覆う。

 数秒、そのままの状態で動きを止めた後で、椅子の背もたれから勢いよく背中を剥がして起き上がり、その勢いのまま椅子から立ち上がる。

 文庫本のブックカバーの片側を外して、栞代わりに指を挟んでいた箇所に挟み込んで閉じ、パソコンデスクの上に放るように置く。インターネットプラウザを閉じて、パソコンをスリープモードにすると、クローゼットへと足を向けた。

 クローゼットからジャージを取り出して、部屋着からジャージに着替えると、床の上に置いた鞄の中から財布を、冷蔵庫の上からカギを回収して部屋を出る。

 玄関でスリッパから靴に履き替えて、扉から外に出た。

「最後に読むのがあれってのは、嫌だなぁ」

 やれやれと肩を落として溜息を吐きながら、カギを閉めて、カギがきちんと閉まっていることを確認してから歩き出す。

 階段を下りて、道路に出たところで軽く伸びをして、詰めた息を吐いた後で、

「……うん、ちょっとマジで頑張ろう」

 頷きをひとつ挟み、走り出した。

 テンポよく息を吐きながら進むのは、最近ちょっと見慣れ始めた道。

 高校へと向かう通学路だった。



 徒歩三十分の距離は、ジョギングと呼ばれる速度で走ったとしても十分から二十分程度の時間がかかる距離だ。

 運動強度としては一般の方が急に真似しちゃいけないレベルである。やろうと思えばできるけど、続けるのは根気という意味でも故障の可能性を考えた場合でも、まずい。

 それを睡眠不足運動不足の引きこもりが急にやれば当然のようにばてる。

「……なんで走っちゃったんだろう」

 常山もその例に漏れず息切れを起こして地面に腰を下ろしていた。立てた膝の間に頭を押し込めるようにして落として、膝を抱えている。

 たっぷり三分ほど、その姿勢のまま固まった後で。大きな溜息を吐きながら、膝に手をついて立ち上がる。

 常山が立っている場所は、高校の校門前だ。

 時刻はもう二十時は余裕で回っており、もうすぐ二十一時にもなろうかというところだろうか。校舎の光はほぼなく、また、当然のように校門の門扉も閉じられている。

「面倒くさいし、つらいなぁ」

 常山は溜息を追加した後で、校門から後退して距離をとる。

視線を上にあげて、門扉の繋がる塀の高さを確認する。

 高さはおよそ三メートルだ。

「やってやれねーことはねー」

 一言そう呟いて、塀に向かって走り出す。ある程度助走をつけたところで、地面を踏み切って塀に向かって跳ぶ。地面を踏み切ったほうと逆の足が塀の壁に当たった瞬間に、塀を掴むような感触が得られるように膝をわずかに曲げて、更に身体を上に飛ばす。勢いが完全に止まる前に両手を塀の上面にかけて、勢いを利用して上半身を持ち上げた。

「……っと、あぶね」

 身体の重さに負けて肘が曲がる前に、片膝を持ち上げて塀に引っ掛け、塀を股で挟むような形で身体を落ち着ける。ほっと一息を吐いて、

「うーむ、超不審者だ」

 自分の状態を認めた上で苦笑をひとつこぼし、塀の上に慎重な動きで立ち上がる。

 一息。気持ちを固めるように、息を詰めると、

「よっ、と」

 掛け声とともに塀の上を蹴って跳んで、門扉前の地面へと着地する。

「……警備関係どうなってんだろうなぁ、ここ。捕まらないといいけど」

 笑いを噛み殺しながら呟いて、歩き出す。

「しかし、こうして来てみたはいいものの」

 常山は周囲を探るように視線を巡らせて、

「特に何かが起こって――」

 続けようとした独白を掻き消す、大きな音を聞いた。

 わずかな空白を挟んで、身が浮くような感覚を伴う強い風が駆け抜ける。風は塵を多く含み、通り道にあるものをちりちりと叩いては過ぎていく。

 次に響くのは、重量物が滑り崩れる音と細かいものが降り落ちる音だ。

「……何が起こったんだろうなぁ、まったく」

 ぱらぱら、がらがらと。少しずつ数と量を減らしていく音を聞きながら、常山は口元を押さえつつ、わずかに開いた瞳で周囲を見る。

 何かが起こって発生した濃い粉塵が、常山の視界一面に立ち込めていた。

「……前見えないし、粉っぽいというかなんというか鬱陶しいし、服汚れるし。うざったいったらないな」

 常山は疲れと苛立ちを多分に含んだ溜息を吐くと、ゆっくりと、慎重に、歩き始める。

 そして、常山が数歩進んだところで、周囲の状況に変化が生じた。

 まず、地面が揺れた。揺れていた時間は瞬きほどのわずかな間で、余韻もほぼなかったが、それでも平衡感覚を失いたたらを踏むほどの強い揺れだ。

 次に来たのは音だ。濁音から始まり、母音で尾を引く大音声――腹の底まで揺さぶられるような咆哮だった。

 音は波だ。そして、声は呼気を伴う。だから、あらゆる声は、その音の大きさに比例して物理的な結果も生じさせる。

 響いた咆声は、その威圧をもって粉塵を薙ぎ払った。

「……わーお」

 常山は聞こえた声に耳をやられて眉根をひそめた渋い表情を作り――同時に、粉塵が払われて目の前に現れたものを認め、苦笑に歪めた口から感嘆の声を漏らした。

 まぁ、誰だって。

 いきなり化物が大口開いて迫っている様子を見れば、その非現実感にそんな反応もするのだろう。

 そもそもここは、姿形を精確に認めることができるほど、十分な明かりがある場所ではない。

 しかし、至近までそれが迫ればある程度は様子もわかろうというものだ。

 洞穴と見紛うほどの、ぽっかりと開いた大口。その縁には、それ一本だけでもヒト一人を容易く断てると理解できるほど、太く尖った歯が並んでいる。

顎に囲まれた空間は、生物の体温と生臭さを感じる呼気に一新された。

 顎は既に開ききっている。

あとは閉じられるだけだ。

 顎の間にある空間は、一歩や二歩で逃れられるほどの広さではなく。

 だから、哀れにも化物に遭遇した一般人は、ここで人生の幕を閉じる。

 ばくんと、音を立てて顎が閉じて。

「……まぁ無理かな」

 ――がちんと、強く歯がぶつかる音を立てた。

「……っ!?」

 化物は当然そこにあるべき感触を得られなかったことに、憤りとも疑問符ともつかない音を閉じた口から漏らした。

 その音に応じるのは、呆れを多分に含んだ溜息で。

音源は、閉じられた口先からわずかに数歩離れた場所に立つ人影だ。

「何のつもりで襲って来たのか知らんが。とりあえず落ち着いて欲しい。……こちらの言葉が通じるような形には見えないが、一応言うだけ言っておくよ」

 両手を肩のあたりまであげて、些かオーバー気味にお手上げという様子を見せている姿は、閉じた口の内側に居るべき人影――常山のものだ。

 化物は前に立つ常山の姿を認めて、驚愕を示すように一度身震いをした後で、地面を踏み、見ている側が気疲れするほどの警戒と緊張で身構える。

 常山はうへぇと息を吐きながら、心底嫌そうに表情を歪めて、

「私は別に、君を倒そうとかそういうことは一切考えてないんだよ。単に、ここで暴れないで欲しいと――」

 そこまで言ったところで、視界の隅に動くものを認めて言葉を止めた。表情は擬音で言えばうへぇからうわぁに、心底面倒くさそうといわんばかりに歪んだ。

 常山の視線の先には、複数の人影があった。騒々しく音を立てて、常山を指差して、慌てているような――常山から見ればほんの少し喜色の混じった声で、急げと言葉を放っている。

 急げ? いったい何を? 何のために?

 そんなことは考えるまでもない。

「明らかにこの構図がまずいんだろうなぁ」

 哀れにも化物に遭遇した一般人を助けるために、あの集団は急げと言っているのだろう。

「……被害者にならない選択をした時点で、方向性は定まっちまってるんだけど」

 やれやれと首を横に振りながら、常山は溜息を吐く。

 それを隙と見たのか、はたまた迫る集団に刺激されたのか。身構えていた化物が、溜めていた力を放つように動いた。

 先ほどと同様に、目の前の獲物に喰らいつくように大口を開いて常山に飛び掛る。

「さて、どうし――うおおお!?」

 直後、常山の身体が真上に跳ね上がった。

 化物の大口は常山の身体をかすりもせず、常山が立った位置を通り過ぎる形となる。

 お、と伸びる声を軌跡の上に残しながら、常山は宙を飛ぶ。声に見える驚きの色から、宙に投げ出される状態は常山の意図したものではないらしいことがわかる。

 化物は、しかし常山を捉えきれなかったこと自体を惜しむでもなく、その勢いのまま校門へ続く道を真っ直ぐ走り抜けて、校門の上を飛び越える。

 そして、そこに何かの境でも在るかのごとく、校門の上を飛び越えていった部分から順に、空気に溶けていくようにその姿を消した。

 まぁそんなことは関係ないといわんばかりに常山は宙を飛び続け、

「あだぁ!?」

 校舎の屋上、その床面に背中を強く打ち付けて着地した。

 それから数秒の間、身体を丸めて固まっていたが、やがてのそのそと上半身を持ち上げて周囲を見回す。そして、その途中で視界に自分以外の人影を認めた。

「…………」

 相変わらず周囲は暗い。そのため判然とはしないが、人影はどうやら常山に背中を向けているようだった。立っている位置は、屋上の縁に設けられたフェンスの傍だ。

「……?」

 常山は人影と自分の間にある距離を確認し、ゆっくりと立ち上がって服や髪についた埃やらなにやらを叩き落とした後で、人影の隣に並ぶように、フェンスの方へと近づく。

 常山はフェンスまで近づくと、まず下を見た。

「……うーわ、手際わるぅい」

 常山の視線の先には、ひどく散らかった――実際の状況に対する表現としては非常に軽いが――状態の敷地で、いくつもの人影がこまごまと動いていた。

 集団から少し離れて大声を張り上げているものは、全体の監督係みたいなものなのだろうか。三人一塊で動いているものは、怪我人を啖呵で運んでいるようにも、肩を貸して連れ出しているようにも見える。しかし、壊れてしまった校舎の近くにたむろしている集団は、暗い上に遠い屋上から見下ろしていても、

「どーすんよこれ」

 とでも言いたげな、途方にくれている様子が見て取れた。

 常山は特に壊れた校舎の様子を見る塊を見て、暗がりの中であってもその背中を見れば一目瞭然、誰でも理解できるほどの落胆と呆れを、身体全体で表現していた。そして、その状態でしばらく身動きを止めた後で、どうしようもないなこいつらと、溜息を吐いて、横に立つ人影に顔を向け、問いかける。

「あなたもそう思いません?」

 常山の声に対して、人影はまず頭ごと動かして常山に視線を移した。

 人影は常山より小柄だった。頭の位置が低く、常山は見下ろすように、人影は見上げるように、視線を合わせている。上はシャツ系、下は足首まで届くパンツ系の服を着ていて、暗闇の中でもわずかに覗く身体のラインは丸く、柔らかい。

 髪は前を目の下まで、後ろは肩口まで伸ばしている。わずかに乱れて、そこかしこに向かって跳ねている毛は本人が無精なのかそれとも地毛か。

「……いったい何の話だ」

 常山の問いに対して返ってきた声色は低かった。しかし、それは少年のそれではなく明らかに少女のものだ。

 目の前の少女からの返答に、常山は一拍、困ったような、考えるような間を置いた後で、ああと何かに思い至ったように頷くと、

「手際悪いなって、そう思いません? って聞いたつもりだったんですよ。……何のって言われる前に言いますけど、片付けがおっそいよなぁって」

 曖昧な笑みを浮かべてそう言った。

 少女は常山の笑みから嘲笑の色を認めて、わずかに険の混じる声音で応じる。

「これを手早く片付けられる人間が居るとは思えない」

 常山は曖昧な笑みを曖昧なまま深め、その笑みのまま、

「じゃあ、折角の縁ですし。そういう人間も居るってことを知っておいて貰いましょうか」

 着ているジャージ――トレーニングシャツのポケットをごそごそと手探りで探した後で、探し当てたものを手のひらの上に乗せて少女に示す。

「これは?」

「見て判りません? 耳栓です。……あ、他人がジャージから直で出したものを身に着けるのはやっぱり抵抗あります? だったらまぁ、ええっと……ああ、あった。袋入り、未開封のやつです」

「これをどうしろと?」

 少女は常山の手から未開封の袋をつまむように取り上げて、ぷらぷらと揺らしながら聞いた。

 常山ははっきりと作り笑いとわかる、しかし綺麗な笑みを浮かべて、

「つけてください。面白いものを見せてあげますよ?」

 耳を指差しながらそう言って、

「だって、ねえ。面白いものは共有しないと。クラスメイトだし、ぼっち仲間じゃないですか。そう思いませんか、佐藤さん?」

 指差す位置をわずかに持ち上げて、指先を側頭部に向けながら、笑って続けた。

 少女は常山の言葉を聞いた直後こそ、一瞬だけ身を固めるように震わせたが、やがて、


「佐藤って誰だ?」


 何言ってんだこいつといわんばかりの困惑がこもった声音で問い返した。

「あっれぇ!? 違うんだ! てっきりそうだと思ったのに!」

 常山は予想が外れていたことと直前の台詞の内容を省みて、素っ頓狂な、割と大きな声をあげながら頭を抱え込んでしゃがみ込んだ。

 数秒の間、しゃがみ込んだ状態で固まったまま、うわーうわーうわぁと呟き続けていた常山は、濁音含みの母音を溜息と一緒に長く吐き出した後で、

「……ま、まぁあれは勘違いだったとして。とりあえず、面白いものは共有しないといけないというのは割と本音なので。つけてもらえませんか?」

 恥ずかしそうに笑いながら、顔だけを少女に向けて、声をかけた。

 少女はわずかに悩むような間を置いた後で、

「断る。得体の知れない相手から受け取ったものなんて使えない」

 つまんでいたものを掴むように手のひらに握り締め、常山に投げ返した。

 しかし、軽いものはあまり飛ばないものだ。

 ほんの少しの間だけ勢いよく進んで、途端に勢いを無くして落ちていく。

「おおっと」

 と声をもらしながら、常山は地面に落ちる途中の袋を空中で拾い上げた。そして、それをポケットにしまい直しながら、肩を竦めて続ける。

「ま、仕方ないかな。むしろ、常識的な対応だし」

「そもそもおまえは何だ。普通じゃない」

「普通じゃない? それはまた、随分な評価で」

「化物に襲われて、得体の知れない人間に助けられて、その人間を前にして普通に見える態度で居ることの、どこが普通だと言うんだ? 妥当な判断だろ」

「そういう風に言われるとそうかもしれないですけどー。……まぁどうでもいいですよ、そんなの。私が普通かどうかなんて、今更言うまでもないんで」

 言って、常山はポケットから笛を取り出した。

 その笛は、手のひらに収まる程度に小さい、棒状のものだ。節がいくかあるように見える外見で、端にはピンのようなものが挿し込まれている。

 常山はピンの部分をしばらく弄った後で、満足したような吐息をひとつ吐く。そして、笛の口を咥えて吹いた。

「――――」

 ふぅと、少女は吐かれた息が抜けるだけの音を聞いた。

 少女は怪訝そうな表情で、常山を見据える。どうやら、彼女は笛が鳴り損なったとしか認識できていないらしい。

 しかし、少女の怪訝な表情は一瞬で緩み、茫洋としたものへと変化する。

 常山は少女の表情の変化を認めた後で、視線を少女から校庭や校舎まわりへと下げた。

 常山の視線の先では、先ほどまで動き回っていた人影たちが一斉に身動きを止めている。

 常山はふむと頷いて、大きく息を吸い、

『さあ皆さん、今日のお勤め終了です! さっさと帰って寝ちゃいましょう!』

 さまざまな種類の音を重ねた結果としてそう聞こえる――そんな声に、噛み殺すような笑みを加えて、空に向かって言い放った。

 その声を契機として。常山の横に立つ少女と、校舎や校庭に散らばる人影はそれぞれ校舎から離れるような動きをとる。

 少女は常山に背を向けて走り出すと、少女から見て正面にある屋上のフェンスを飛び越えて屋上から去っていった。

 常山の視界に映る人影は、壊れた校舎を眺めていたものが人の運び出しに加わり、先ほどよりも迅速に、この場所から立ち去る動きを見せている。

『もちっとやる気だせおまえら』

 常山は人影の動きに苛立った様子で呟きを追加すると、人影の動きが倍以上速くなった。

 人影の変化を確認した後で、人影から視線を外し、身体を回してフェンスにもたれかかる。そのままずるずると膝を曲げて屋上の床に腰を下ろす。

「あー、しんどい、めんどくさい」

 わずかに震える溜息を吐いた後で、膝の間に頭を落として頭を掻いた。

 常山はそのままの姿勢で固まって、人が動く音を聞いていた。

 足音が聞こえなくなったところで、

「休憩終了。後片付けをしないとなぁ」

 常山は大儀そうにゆっくりと立ち上がって伸びをする。肩を回したり、首を回したりしてしながら視線を向けるのは、壊された校舎の一角だ。

「……基礎部分とかまでいってるのかなぁ。都合のいいぱぅわーでどうにかできる連中なら様子を見るだけで放って置いたのに。このまま放っておいたら、回りまわって休みが削られちゃうだろーが」

 若干猫背になりながら肩を落とした後で、

「面倒なのまで呼び込みそうだけど。悪いところも含めて都合よく建物を直してくれそうなのを呼ぶとしますかね」

 笛を咥えて、咥えながらピンを弄って吹いた。

 甲高い音が響く。

 常山が笛から口を離し、音の余韻が消えたところで、次の変化が生じた。

 光だ。

 色はわずかに暗い赤。屋上の床面を流れるように走るいくつもの線が重なり、光量を増して暗さに慣れた目を刺激する。

 線は常山を中心に広がり、広がり続けて、程なくして屋上の床面を隙間なく埋め尽くした。

 しかし、光量は線が床面を埋めるほどに減じていき、やがて屋上の空間をほのかに照らす程度となる。

 ――そして、その原因を次の瞬間に理解する。

 光量は変わらず、ただそこに遮るものが在るだけなのだと。

「じゃあ皆さんお仕事です」

 常山は床面からの光を遮るようにして所狭しと蠢く人影の群れに対して笑いかけて、続ける。

「その身に宿る力をそのまま使ってくださいな。図面はそこらじゅうに転がっているようなもんですから、迅速丁寧にお願いします。……ま、それこそがあなた達の存在理由ですし」

 常山が言うと同時、床面を蓋う光は消え。

 常山の言葉に従うように、突如現れた群像は音も立てずに動き出す。

 向かう先は学校敷地内の散らかっている場所だ。ある場所へは一つが、ある場所へはいくつかが固まって――向かう場所の破損、破壊箇所の規模に応じた数が向かっていく。

 ただ、その群れの中で一つだけ、向かう先が異なるものがいた。

 その一つは真っ直ぐに、常山に対して力を揮うことを選択した。

「――っ!」

 駆け込む勢いのまま、右腕を振りかぶり、次の瞬間には開いた掌を常山の身体を巻き込んで地面に叩きつけるように走らせる。

 しかし、その一撃は常山には届かない。

 暗闇の中。それが常山に襲い掛かる過程において、わずかに見える輪郭の陰影がぼやけていき、結果としてそれ自身が消えたからだ。

 常山は自身に向かって来たものが消えたことを認めた後で、身体を抱くように、伸ばしたままの左腕、その肘のあたりを身体に押し付ける形で右手で掴む。そして、はっと息を吐き、

「私はこれで正常だよ……」

 疲れの見える声でそう呟いた。



 それから二時間程度経過して。

「無事終了、かな」

 常山は屋上から眼下――校庭その他を眺めながら、ほっと、安堵の吐息を吐いた。

 常山が見つめる場所は二時間前まで破壊されていた場所だ。

 しかし今はもう、破壊された事実が嘘であったかのように復元されている。

「その為に呼んだんだから、まぁ、無事に終わってくれないと困るんだが。……呼び出した内のひとつが襲い掛かってきた時は肝が冷えたけどさ」

 常山はやれやれと肩を竦めた後で、

「物がその状態で残りたがる性質の具現化、あるいは象徴化というところか。試しに使ってみたけど、叩き直す方向が割と無差別だな。扱いが難しい。……利用の為所を探すには、もう少し試してみないと駄目だろう」

 吐息をさらに追加して、フェンスに背を向ける。

 足が向かう先は校舎内に繋がる扉だ。

 当然、鍵は閉まっているだろう。そして、屋上に繋がる扉は内鍵だ。外側からは空けられない。

常山は歩きながら口を動かし、音を作る。

『開けごま』

 響いた音は、昔話でよく知られる言葉だ。そして、その言葉は扉を開くために――扉が開かない原因を取り除く際に使われたものでもある。

 次の瞬間、がちゃりと音が鳴った。

「……中に他のヒトが居ないといいなぁ」

 常山は校舎内に繋がる扉を開いて、校舎の中へと入った。

 しばらくして、誰も居ない屋上に再びがちゃりと音が鳴った。



 火曜日。

 ブルーマンデーを乗り越え、大半の人間が意識を切り替えて学業なり就業なりに意識を切り替えていく中で、

「……あー、面倒くさい」

 常山は発音する母音すべてに濁音がついているかのような声でそう呟きながら、前日と変わらない様子で学校前の坂道を上がっていた。

 今日も今日とて校門前に立っている人たちの挨拶が頭に響くと眉を潜めながら校門を抜けて。

「おはようございます、常山さん」

 下駄箱で上履きに履き替えているところに、世話焼き委員長と遭遇して、表情を作る筋肉を総動員する羽目になりつつ、教室に向かう。

 教室に向かう道中で、

「どうしてよく会うんでしょうか」

「朝こうして顔を合わせる理由ですか? 登校時間が、あなたも私も大体同じだからでしょう」

「なるほど。――鈴木さん、登校時間早くしたりしません?」

「……直球すぎませんか、それ」

 なんて、他愛もない会話を交わす。

 教室の入り口で、挨拶に忙しい鈴木と自然に別れて、自分の席に腰を下ろす。息を吐きながらぐったりと椅子の背中に体を預けて、視線を教室内の時計に向けた。

 時計の針は朝のホームルーム開始三分前を示している。

あと三分で、ただ過ごすだけの時間が始まる。

「最初の授業は何だったっけなぁ」

 呟いた後で、常山は椅子から背中をはがすように勢いよく起こすと、鞄から机へと教科書類を写していく。

 そして、その作業が半ばまで進んだところで、安っぽい電子音で作られた鐘の音が響いた。

 授業の開始――学校での一日が始まるチャイムの音だ。

 チャイムの音が鳴り終わった後で、常山が作業を中断して顔をあげると、少しの間も置かずに教室の前方、黒板側にある扉が開いてこのクラス担当の教員が姿を現した。

 常山が担任の姿を認めて、いつも時間に正確なことで、と呆れとも感心とも取れる呟きを漏らしたところで、

「起立。気を付け。礼――着席」

 日直の号令が教室に響いた。

 号令に対しておざなりに対応した後で、教員が話し始めた連絡事項を聞きとめつつ、

「今日も一日、がんばりすぎない程度にがんばるとしましょうかね」

 常山は溜息を吐きながらそう言って、今日一日という時間の使い方について考えることにした。


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