プロローグ「少年の瞳」
男は大きくため息をついた。
手に握られていた刃物を床に落とす。
それと同時に男も座り込んだ。
――――とうとうやってしまった…
男はもう一度ため息をつくと、立ち上がる。
そして勢いよく振り返った。気配がしたからだ。
振り向いた先にはひとりの少年が立っていた。
「おじさん…誰?」
まだ小学校にも上がっていないだろう少年が舌足らずな口調で聞いてくる。
少年に怯えている様子はなかった。だからといって油断しているわけでもなさそうだ。
首をかしげる少年に、男は思わず微笑む。
――――可愛らしいな
大きな目をした少年は首を左右に動かす。そのたびに栗色の髪がさらさら揺れた。
「坊や…名前はなんだい?」
男が話しかけると少年はにこりと笑う。
「僕ね、かしゅうって言うんだよ!夏とね、秋って字が使われてるってママが言ってた!」
夏秋か…変わった名前だ。
少年はそのまま喋りはじめる。
「ママの名前にね、秋って字を使うんだって!僕は夏に生まれたの。だから夏秋!みんな適当だって言うけど僕はこの名前好きなんだ~!それでね、おんなじくらいママが好き!」
愛らしい少年、夏秋はにこにこしながら男に話を聞かせた。
男もうなずきながら聞く。
子どもと話したのはいつ以来だっただろうか。
しばらく、人とさえ話していない。
夏秋はふと話をやめて男を見つめた。
「どうした?」
「おじさんは?お名前なんて言うの?」
男は黙る。夏秋はまた首を揺らし始めた。癖なのだろう。
「お名前はぁ?」
男がしばらく黙っていると夏秋はヘラっと笑った。
「まあ、いっか!おじさんと話してると楽しいからいいや!」
男はふうと息をついた。
「あ、ママ!」
夏秋が声を上げる。男はびくりと身体を震わせた。
夏秋がママと呼んだ人物は男の後ろの方に横たわっていた。
少しも動かない。当たり前だ。もう、この世にはいないのだ。
男は数十分前に夏秋が言うママを殺した。
凶器に使った刃物はまだ男の手にある。
大人が見れば一目で死んでいるとわかったのだろうが、夏秋にはただ寝ているように見えたらしい。
夏秋はママに駆け寄る。
「ママー起きてよぉ、お客さんなのにぃ…」
夏秋が女の身体をゆする。だがその身体は動くわけもなくただただ揺すられるままに動いていた。
男は立ち上がった。
夏秋は男に振りかえる。
「ママが動かないよ…おじさん…どうしよう。」
男は夏秋の目を見据えた。
そして背筋を震わせた。
――――なんだ…このガキ…
夏秋の目に映る感情は困惑ではなかった。
ママが動かないと言葉だけ聞けば困惑していると思っただろう。
しかし、夏秋の目には感情というものが何も映っていなかった。
――――恐ろしい…
何だかすべてを見透かされている気がする。
俺がこの女を殺したということ。俺がこれから何をしようとしてるか。
夏秋の瞳は、男に恐怖を与えた。それと同時に、男はその瞳が綺麗だと思った。
恐ろしい…しかし美しい。
そんな瞳だった。
男は思い切り首を振る。
――――俺は…今ここで立ち止まっているわけにはいかないだろう…
男は殺人という犯罪を犯した。だとしたら、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
早く、次の作業に移らなくては…
部屋を立ち去ろうとした男に、夏秋は話しかけた。
「おじさん…行っちゃうの?」
相変わらずその瞳に感情はない。
「悲しいなぁ…あ、でももう寝る時間だったよ!」
「だったら、寝るといい。今日は冷えるそうだから布団をたくさんかけて寝るといいよ。」
男の言葉に夏秋はにこりと笑った。
「そうだね、ありがとう!おじさん優しいね!また来てね!」
男は笑いかける。そしてその家を出た。
「何なんだろう…あの少年は…」
玄関に立ち止り、男は思わずつぶやく。
見た目はただの少年だった。表情や喋り方、しぐさや言動。
しかし…瞳だけは違った。あの瞳は、男に恐怖を与えた。
「しかし…あと会うこともないな…」
男は玄関に置いてあった石油を家の周りにふりまく。
そしてマッチを取り出した。
一つの部屋の電気が消えた。夏秋が寝たのだろう。
「おやすみ、夏秋。良い夢を…」
男はその家に火を放った。
こんにちは、そして初めまして!
山田暖花と申します。
今回から「黒く塗りつぶされた階段で」を作りはじめることになりました。
読んでくださると光栄です。
それではこれから、どうぞよろしく…